消失
「あれをご覧なさい。」
瑶姫は、月の宮から龍の宮へ里帰りする途中であった。最近では神の世も大平で、飛んで帰るのももったいないと、途中降りて自然の中にある広い花畑に下り立ったのだ。
瑶姫にそう言われた侍女は、そちらを見た。
「まあ、本当に美しいこと。今時珍しいものでございます。」
瑶姫は頷いて輿から降りた。
「ほんに人の手も、ここまでは回っておらぬと見ゆる。」とお付きの龍たちを振り返った。「主らは、少し休むとよい。」
龍たちは頷いてそこへ日除けの天幕などを張ろうと動き出し、瑶姫は侍女達二人を連れて散策し始めた。
本当に美しい。こんな花畑は、ついぞ目にしたことはなかった。瑶姫は足取りも軽やかに歩き回り始めた。後ろから、李関の声が飛ぶ。
「瑶姫様、あまり遠くまでは、いらっしゃいませぬように!」
「わかっておりまする。」
瑶姫は不機嫌にそう呟くと、尚も足を進めた。私はそれでなくとも宮の奥から滅多に出ないのに。今回も瑤姫は、少し外の空気が吸いたくなって、龍の宮へ里帰りすることを蒼に願い出たのだ。蒼は最初渋い顔をしたが、いつも奥に篭ってじっとしていたことが功を奏して、許されたのであった。
しかし、兄王の維心が、妃の維月が元人であったことを考慮して、人のように外へ出ることを許して…最もほとんどが維心と共にであったが…いることを思えば、もしかしたら女も、特に許しを得なくても外へ出ていいのではないのか。瑤姫はそんなふうに思い始めていた。
侍女の一人が指差す。
「まあ、あちらのお花をご覧くださいませ。見たこともありませんわ。」
瑶姫も見た。確かにあんな花は見たことがない。しかし、不思議と惹き付けられる、大輪の薄く青い花だった。
「宮へ移植させようかしら…。」
瑶姫が思わず呟いてその花に手を触れると、途端にふらふらと倒れた。侍女が慌てて駆け寄る。
「瑶姫様…!」
瑶姫は、意識の隅でその声を聞いた。
そして、真っ暗になった。
維心は、居間で維月と寛いぎながら、先程訪れた、小さな宮の神、鵬泉のことを考えていた。なんと宮の奥深くから、妃の姿がかき消すように消えたのだという。それがいくら気を探ってもみつからないので、どうか助けてほしいと、普通なら来る事も出来ない龍の宮へ、必死にやって来たのだ。その場で維心も気を探ってみたが、維心すらその気配は読めなかった。なぜ、宮の奥から消えるなどということが起こるのだろう…。そんなことは知らない維月が言う。
「…遅うございますわね。もう着いてもよろしいのに。」
瑶姫の到着を知らせる先触れがまだ来ないのだ。維心が笑った。
「どうせ寄り道でもしておるのよ。あれも奥へ引っ込んで、出ない女であるからな。」
維月は苦笑した。
「きっと神の女も、ストレス溜まるのですわ。私、わかりまする。」
維心は維月を抱き締めた。
「主は我があちこち連れて参るではないか。それでも不満か?」
維月は笑った。
「いいえ。今は何もございませんわ。」
維心も微笑んで維月に口付けようとした時、慌ただしく臣下が駆け込んで来た。
「王!一大事にございまする!」
維心は眉を寄せた。
「…なんだ、洪よ、気のきかぬ。」
洪は一瞬ためらった。
「あ、これはお邪魔を!」と我に返り、「いえ、それどころではございませぬ!瑶姫様が…お行方知れずに!」
維心は顔色を変えて立ち上がった。
「なんと申した!あれは李関に守られておったはずではないか!」
洪は頭を下げたまま続けた。
「それが…花を見るとおっしゃって歩いて行かれ、一瞬のうちにお姿がかき消えたと!ただ今蒼様、十六夜様が現場へ向かわれているとのことでございまする!」
維心は維月を片手に小脇に抱きかかえて窓際へ歩いた。
「我も参る!」
洪は呆気に取られた。
「しかし…王、維月様は何ゆえに?」
維月もそうそう、と頷いて維心の手を、「離して」とトントン叩く。維心はその手に力を込めた。
「何を言う。瑶姫が居らんようになったのに、この上維月まで連れ去られたらどうするのだ!我の傍に置くのが安全よ!」
そして、そのまま維月を小脇に抱えて空へ飛び上がった。
「王!維月様…、」
維月は洪の方を見てジタバタしている。洪はなす術もなく、それを見送った。維心は上空で気を探っていたかと思うと、北東へ向かって飛んで行った。
王は過保護が過ぎまするわ。
洪は呆れて思っていた。
蒼は必死だった。この一見穏やかで美しい花畑の、どこに瑶姫は消えたというのだ。気を探っても、何も感じ取れない。十六夜も見ていなかったという。どこをどう探っても、何も、瑶姫どころか変な異変も感じ取れないのだ。
十六夜が上空から降りて来て表情を暗くした。
「…ダメだ。何にも感じ取れねぇ。まず神の気自体がねぇんだよ。ここには土と花以外、何も有りはしねぇのよ。」
蒼はうなだれた。
「なんだってこんな事に…一瞬にして居なくなるなんて!」
頭を抱えていると、空から維心が維月を抱いて到着した。維月の手を引っ張ってこちらへ歩いて来る。
「…手掛かりは掴んだか。」
十六夜がかぶりを振った。
「何もねぇのよ。きれいに気配がなくなっている。」
蒼が頭を抱えている。維心は同情して傍へ寄って肩に手を置いた。
「…我にも何も感じ取れぬのよ。とにかく、ここに居ってもダメだ。ひとまず我が宮へ戻って策を練ろうぞ。」と李関を振り返った。「主らも我に話を聞かせよ。宮へ参る。」
そして、宮から慌てて維心を追って来た義心を見上げた。
「義心!これへ!」
義心は降りて来て片膝を付いた。
「御前に、王。」
維心は命じた。
「主は最近の神の噂話でも良い、何か変動はないか調べて我に報告せよ。今夕までにな。」
義心は頭を下げた。
「御意!」
義心はすぐに飛び立った。維心は維月を抱き寄せて言った。
「帰るぞ。」
「もう?」維月は仰天した。「せめて一株だけでも花を宮の庭へ持ち帰り…」
「ダメだ!」維心は飛び上がった。「ここは危険ぞ!宮へ戻る!」
じゃあなんで連れて来たのよ…。維月は膨れて、それでも仕方ないので振り落とされないように掴まったのだった。
維心の居間で、蒼はうなだれていた。
李関からの報告を聞くと、侍女二人を連れた瑤姫は、侍女と花畑の真ん中の方へ歩いて行ったのだという。侍女達は、最後に瑤姫が歩いて行った所には薄青色の、見たこともないような美しい花が咲いていたのだと言っていた。しかし、そこへ瑤姫と共にたどり着くと、すぐ横に居たはずの瑤姫がふらふらとしたのが見え、支えようとしたら、掻き消えるようにその場から居なくなったのだと…。
どこへ行っても、今まで絶対に気を掴めていたのに。今は、全くその気が読めない。どうしていいのかわからなかった。十六夜にすら気配が読めないなんて、この地上に居ないってことじゃないのか。もう既に死んでしまってるんだろうか…。しかし、十六夜は首を振った。
「それは違うだろう。オレだって万能じゃねぇ。見えねぇもんもあらあな。特に地下なんかだと全く見えねぇもんな。建物の中だって見えねぇけど、そこは気を探って探すんだけどよ…それが全く感じ取れなくてよ。あらかじめ遙姫に何か目印でも付けてりゃあ見えんだけどよ。」
維心もため息をついた。
「我にも見えぬし感じ取れぬ。この感じは覚えがあるのよ…将維が彎にさらわれた時、全く掴めなかったあれと同じよ。」
蒼は顔を上げた。
「それは…気を遮断する膜に覆われてるってことですか?」
十六夜も頷いた。
「恐らくな。」
蒼は頭を振った。
「それじゃあ…何が何でも見つけないと、瑤姫が気の補充が出来ないじゃないか。」
余計に焦りを感じて、蒼は立ち上がって歩き回った。とてもじっとしていられない。日は既に西に傾いて来ている。いったいどんな状態で居るんだろう。あんなに箱入りで育った瑤姫が、苦労している上に恐怖で縮こまっているかもと思うと、いたたまれなかった。
居間の戸が開いた。
「王」義心が入って来て膝を付いた。「ご報告に参りました。」
維心が頷いた。
「待っておった。申してみよ。」
義心は顔を上げた。
「…王は、ここ最近の失踪騒ぎをご存知でありましたか?」
維心は頷いた。
「…確か、神の王族の中で数人が、謎の失踪を遂げているとは聞いていた。それには宮の奥深くに居るはずの妃も含まれておるとか…。」
義心は頷いた。
「皆一様にいきなりお姿が掻き消えるという形で、居なくなっております。それは宮の奥でも変わりなく、庭などに出た所で消えてしまうのだそうで、その後はいくら気を探っても全く見つからず…という状態なのだそうです。今回の瑤姫様の件と、大変によく似通っておりまする。」
蒼は先を促した。
「その人たちは?帰って来たのか。」
義心は首を振った。
「いえ、残念ながら誰一人として戻っては来ておりませぬ。全て女であり、しかも高貴な生まれ、もしくは上品な振る舞いと垢抜けた容姿を持つものばかりなのだとか…侍女などには目もくれず、いずれもその一人だけを狙ったようにさらっておりまする。」
維心はため息をついた。
「…確かに、近隣の神から話は来ておった。だが我にも気は掴めず、解決できずにおったのよ。それがこのようなことになってしもうて。まさか我の膝元より連れ去ることは出来まいが、維月も一人にせぬようにここのところ気を使っておったのよ。」
義心は維心を見た。
「はい。確かに王の結界内では一切失踪事件は起こっておりませぬ。おそらく、なんらかの力が必要で、王のお力がそれを阻んでおるのは確かでございまするが、なんの痕跡も残さないため、わからないのでございます。」
維心はため息をついて椅子にもたれた。
「まさか全てに結界を張る訳にも行かぬ。そんなことをしても居なくなった者は戻っては来まい。」
十六夜は言いたくなさげに言った。
「…地に、相談してみるか?やつなら知ってるだろ。」
蒼が立ち上がった。そうだ!どうしてそこに気付かなったんだろう。
「そうだよ!十六夜、もっと早く言ってくれればよかったのに!」
十六夜は首を振った。
「期待はせんほうがいいぞ。あいつはこっちに干渉できねぇんだ。知っていても言えねぇ可能性がある。」
蒼はそんなことは聞いていないかのように、外に向かって叫んだ。
「地よ!お話があります。」
しばらくして、声が答えた。
《なんだ?蒼よ。瑤姫のことなら、我は話せぬぞ。》
やっぱり見ている。知っているのだ。
「どうか、お願いです。瑤姫が命を落とすかもしれないのです。」
相手の声は、淡々としていた。
《…蒼よ。何度も申しておるように、我は世に干渉出来ぬ。それで瑤姫が命を落とそうとも、地上にはなんの影響もない。主にとっては大切な存在でも、地にとってはたかが神の命一つだ。そんなことで、我の気持ちを動かそうとしても無駄だ。かような訳で、我が主にいろいろ教えると、我は気を失ってしばらく動けなくなるゆえの。主らのことは、主らで解決せねばならぬ。》
蒼は憤った。たかが神の命一つだって?
「瑤姫は、オレにとってもそんな軽い者じゃない!」
地はため息をついたようだった。
《ならば己で助けだせ。我の手を借りるとは、人の世で言う…答えを先生に聞きながら試験を受けるようなもの。そんな守り方しか出来ぬのなら、諦めるのじゃな。我を知らなんだ時、そうしていたように。》
蒼は必死で言った。
「お願いです!どうか…せめてヒントだけでも!」
地は呆れたような声を出した。
《ふん、王が聞いて呆れるの。》と声音を変えた。《囮を使って探し出せ。あれは掻き消えておるのではない。何かを使って移動させておるのだ…失踪の時、その場に同じ状況がなかったか調べよ。我に言えるのは、それだけだ。蒼、主は王と名乗る資格はないわ。他に頼っておるようではな。維心を見よ。》
地の気配は消えた。
蒼は十六夜と維心を振り返った。二人とも、立ち上がったこちらを見ていた。
「失踪当時の状況は…義心。」
義心は答えた。
「はい。全てが屋外でありました。一人目は外出途中の道で、次は宮の露天風呂で、次は、宮奥の庭で。他3人はやはり外出先で散策していた際で、此度の瑤姫様はあの花畑で。」
屋外だという共通点のほかに何かあるだろうか。蒼には見当もつかなかった。頼るなと言われても、維心と十六夜を自然と見てしまう。
維心が言った。
「では、主、その時居合わせた者達に直接話して聞いて来るのだ。共通点が屋外ではおおざっぱ過ぎてわからぬ。」
義心は頷いて頭を下げ、また居間を出て行った。