嫉妬
じめじめと、雨が降り続ける。
維月は、月の宮でそんな重苦しい空を見上げていた。
梅雨明けしないのもあるが、これはきっと、龍の涙…。
心の中で流す涙が、きっとこの降りやまない雨を呼んでいる。
十六夜は、あの日維月が寝ぼけて維心に甘えている所を見てから、今まで何も言わなかったのに、急に嫉妬するようになってしまった。
確かに、昔に比べたら維心と心の距離が近くなったのは確かだった。長く共に暮らして、今ではもう、離れられないほど愛しているのは確かなのだ。
なので、あまりにそれを見透かされたようで、維月には十六夜に強く意見することが出来なかった。十六夜を、小さな頃から愛して来たのもまた、事実だからだ。
いつもは里帰りしても、ほんの数日でここへ追い掛けて来ていた維心だったが、今回はそれを禁じられ、しかも、十六夜は、月の宮にかなり強力な結界を張ってしまっていた。
いくら維心でも、これを破ろうと思えば大きな力を使わねばならず、つまりそれは、回りを巻き込んで吹き飛ばしてしまうほどの力になるので、気軽に来る訳にもいかない。
無理矢理奪うように龍の宮から連れ帰られたので、その時の維心の表情が心に焼き付いて消えずにいた。
「1ヶ月だ!会いには来させない!」
十六夜はそう言い捨てて、維月を小脇に抱きかかえて飛び去った。維心は、居間の窓に駆け寄り、こちらを見上げていた。
その口唇は、確かに「維月」と呼んでいた…。
十六夜が、部屋へ入って来た。
「…なんだ、浮かない顔して。また維心のことか?」
維月は振り返った。
「…あまりに急に出て来てしまったから。どうしてらっしゃるのかと思って…。」
十六夜は不機嫌に維月を抱き寄せた。
「お前は維心と居る時は、オレの事なんて忘れてるんだろうが。」
維月は眉を上げた。
「あなたはとても自由だから…でも、全く忘れているのではないわ。私はよく、月を見上げるでしょう?」
十六夜は首を振った。
「自由なんかじゃねぇ。」と維月を見つめた。「お前が傍に居ねぇじゃねぇか。やっぱりこんなことはやめればよかった…オレはお前の気持ちを失っちまう。オレの存在が、意味がなくなって来てる。お前はどんどん維心に近くなるじゃねぇか。同じ月でありながら…お前が最近は遠すぎるんだ。不安で仕方ないんだよ!」
維月には返す言葉がなかった。確かに維心様の存在は、今やとても大きい。でも…十六夜が心から居なくなる事なんかないのに。どうしたらわかってもらえるのかしら…。
維月が黙っていると、十六夜は維月を抱き締めた。
「…頼む。この1ヶ月は維心でなく、オレの事を考えてくれ。確かにオレは気ままに生きてる。だが、お前を失うぐらいなら、地が言うように、王になったって構わねぇ。縛られたって耐えて見せる。だから、オレを安心させてくれ…。」
維月は、十六夜の思い詰めた様子に頷いた。十六夜はホッとしたように、微笑んで維月を抱き締めていた。
維月はその腕の中で、降り止まぬ雨を見ていた。
維心は、居間に座って重苦しい空を見ていた。
しとしとと降り続く雨が、決して自然現象のためばかりでないことも、維心にはわかっていた。これは、自分の心の雨だ。維月を想い、会いたいと願い、それが叶えられない、そして何も出来ない自分を憐れんで、身動き出来ないもどかしさに苦しんでいる、自分の心の雨なのだ。
維月に会いたい。一目でいいから姿を見て、声を聞きたい。それなのに十六夜は宮に強力な結界を張って、今度ばかりは自分を寄せ付けないように警戒している。
妃に迎えてから、ここまで完全に離されたのは初めてだった。十六夜を警戒させるほど、維月が自分を想っているのかと思うと喜びもあるのだが、しかしこの一か月会わないでいる間に、十六夜が何をするのかと思うと、気が気でなかった。十六夜は維月のことを良く知っている。それは小さい頃からずっと共に過ごして来て、維月の考え方や感じ方を知っているからだ。そして、何より信頼関係がある。十六夜が維月に対してやって来たこれまでのことが、維心には羨ましかった。もっと早く自分も出逢っていれば…。いつもいつも、維心はそう思っていた。
今頃、維月はどうしているであろうか。
暗くなり始めた空を見上げ、維心はため息をついた。
維月は、月の宮の露天風呂へ来ていた。
ここへ帰って来てからずっと維月について回っていた十六夜も、風呂まではついて来なかった。維心ならついて来たかもしれないが、十六夜は蒼と風呂に入ったのが初めてで、男女は分かれて風呂に入るものだと教えられている。なので、風呂に入っている時、唯一維月は寛げた。
ふと、維月は気が付いた。もしかして、念なら維心に届くのではないか。
昔、自分の命が体から離れそうになった時、十六夜に気付かれずに念で話して、気の調整をしていた。維月はそっと、維心に向けて声を掛けた。
《維心様…。》
維心はハッと顔を上げた。もう、寝間着を着て居間に座っていたところだった。維月が、呼んだ気がする。幻聴だろうか…?だが、この感じは覚えがある。一番最初に維月と念で話した時だ。自分は今と同じように居間に一人座って、考え事をしていた。そこへ、今のように突然に維月の念が飛んで来た。維心は、半信半疑で答えた。
《…維月?》
ホッとしたような念の声が聞こえて来た。
《維心様…やっぱり届きましたわ。》
維心はその念の声に、心が熱くなった。ああ、維月の声だ…。
《維月…我は、いきなり主を奪われて…今回ばかりは、辛くてたまらぬ。会いたくてたまらぬのだ。》
維月の念は答えた。
《ごめんなさい、維心様…。私もお会いしたい。こんなにお顔を見ないのは、初めてでございますもの。でも、十六夜も今、とても苦しんでいるのですわ。ですから、無理にこちらを出ることも出来ないのです。私を傍に置いて離さないので、こうやってお風呂に入っている時しか、念を送ることも出来ません。どうか、後2週間の間、我慢なさってくださいませ。》
維心は、そうまでして自分に念を送って来てくれている維月を、とても愛おしく思った。
《維月…どうしても、2週間は会えぬか?》
維月は困った。しかし、答えた。
《はい…十六夜に約束してしまいました。私が、自分より維心様を愛しているというよりも、維心様の存在が大きくなり過ぎて、自分の存在が無くなると思っているのですわ。私…十六夜が心から居なくなるとは思ってはおりませんが、維心様の存在がとても大きくなっているのも確かですの。だから、何も言えませんでした。せめて、それで十六夜が安心するなら、言う通りにしてあげた方が良いのだと思っております。だから、維心様ももうしばらくお待ちくださいませ。》
維心は、会いたいという気持ちが募りながらも、維月の言葉がうれしかった。そうだ。今は、十六夜に譲ってやらねばならないのだ。維月は自分を愛している…これぐらいは、我慢してやらねば。
維心は、これが十六夜が前に持っていた、余裕の意味だとわかった。どうあっても自分達を引き離すことは出来ないという、この自信…。これだったのだ。
《…維月…では、せめて毎日、こうやって我に念を飛ばしてはくれぬか。我は、それで我慢しようほどに。》
維月の声は頷いていた。
《はい。毎日湯を使う時に、こうしてお話致します。でも、そろそろ出なくては。あまり長いと、怪しまれますわ。》
維心は、慌てて言った。
《維月…愛している。帰って来る日、途中まで迎えに参ろうぞ。》
《はい。》維月の声は微笑んでいた。《私も愛しておりますわ。お約束を覚えてらっしゃる?》
維心は見えないとわかっていながら、頷いた。
《覚えておるぞ。北の宮であろう?連れて参る。早よう帰って参れ。》
維月の声は弾んでいた。
《維心様…では、北の宮でお待ちくださいませ。私はそちらへ帰りまする。また、二人で過ごしましょう。》
維心は、微笑んだ。
《おお。では、待っていようぞ。我は…本当に、主に会いたくてたまらぬ…。》
維月はその声に、維心のつらさを感じた。
《維心様…私もお会いしたい…。いつも当然のように、傍に居てくださったから…。》
維心は、涙が出そうだった。我もそうよ。
《愛している。本当に…。》
《愛しております。》と少し間が開いた。《では、また明日…。》
《維月…、》
念が感じられなくなった。風呂から出たのだろう。維心はため息をついて、月を見上げた。もう、明日が待ち遠しくて仕方がない。早く会いたい。二週間後は七夕だ。維心は早々に、侍女を呼んで、七夕の北の宮の準備を申しつけた。
十六夜は、苦しんでいた。
維月を維心に託したのは、維心に同情したのもあるが、維月の自分に対する愛情が、不動のものだと信じていたからだ。確かに、維月は自分に対する愛情を無くした訳ではない。でも、このままでは自分の存在が消えてしまうのではないか。十六夜はそんな怖さを感じていた。維心は、本当に心底維月に惚れている。維月しか目に入って居ない所も、自分と同じだった。それでも維心は、維月を守りつつ自分の使命も果たしていた。王として、十六夜の目から見ても維心は立派だった。真似をしようとしても出来ないほど、冷静で広く地を見渡し、自分を殺して世の為に判断を下し、処理して行く。それを1500年も続けて来て、まだ継続している…未だに気ままにしている自分とは、公な立場で大きな開きがあった。
最近では、蒼まで王らしくなって来た。それなのに、自分は変わらない。これでは駄目なのだ。きっと、維月は無意識に気付いている。努力をしている訳でも、なんでもない。ただ、月から地を眺めて、気になったら降りて来て、関わるが、興味がなければ返事もしない。それがどれほどに自由で恵まれているのか。
今、毎日維月を傍に置いて毎日のように体を重ねているが、それがなんだと言うのだろう。十六夜は、どうすればよいかわからず、ただ、毎日を模索しながら過ごしていた。
十六夜は維月を見た。
庭を眺めているように見えるが、きっと、気持ちはどこかへ飛んでいる…なぜなら、これほど維月が黙っていることなどないからだ。十六夜は、維月を抱き寄せた。
「維月…オレはどうしたらいいんだろうな。」
維月はびっくりしたように、こちらを向いた。
「…どうしたらって?」
目を丸くしている。十六夜は苦笑した。
「オレは、今更生き方を変えられねぇんだよ。オレの親だって言うぐらい、オレは王には向いてねぇ。元々王にするために与えられた命なのに、オレは面倒なことは嫌いだからな。お蔭で、蒼がそれを変わってこなしてくれてる…オレはせいぜい、蒼の手に負えないことの処理を手伝うぐらいだ。でも…オレは、何に対しても執着するってことがないんだよ。オレはお前さえ居ればそれでいい。これじゃあ、お前に愛想尽かされても、仕方ねぇな…。」
維月は十六夜を見た。
「十六夜…。」
十六夜は、腕の中の維月に頬を摺り寄せた。
「でも、オレがお前を想う気持ちは、変わらねぇよ。きっと、これからもずっとな。維心を愛すなとは言わねぇ。だが、オレの居場所を無くさないでくれ。それだけだ。…愛してるんだよ。」
維月は涙ぐんだ。
「十六夜…私だって、あなたを愛してるのよ。あなたの居場所は、永遠に無くならないわ。だって、小さい頃からずっと私と共に来たのよ?それに同じ月なのに。維心様を愛しているわ…あのかたの心の負担を少しでも減らしてあげるのが私の役目。そうでしょう?あなたは気ままにしているけれど、私から離れて一人で我慢していてくれるわ。それはわかっているのよ。だから、愛想を尽かしたりしないわよ。自分を卑下しないで。」
十六夜は、涙が出そうになった。
「維月…愛している。今だけは、オレのわがままを聞いてくれ。傍に居てくれ…きっと、オレはもうすぐ自信を取り戻せる気がするんだ。今は、まだ無理だけどよ…。」
維月は頷いて、十六夜の口付けを受けた。




