a.bb 約束
終わったハナシ
父が用意した偽物の恋人、それは物語に出てくる“女王”の想い人であり下郎のロッダ。
まさか、本当にロッダっていう名前の男を雇うとは思ってもみなかったけれど。
そんな行動が、私の機嫌を損ねているの原因だというのに何故分からないのかしら。
私が好きなあの人とは、決定的に違うの。
いいえ、分かっている。
分かっているけど、彼を忘れてしまっている自分が怖い。
彼から遠ざかってしまう心が痛い。
彼に触れていればよかった。
ちゃんと喋ってればよかった。
一緒にいればよかった。
送られてきた、金髪の少女の写真。
とても美しい少女で、私なんかじゃ匹敵しないと思った。
彼のカルテも同封してあった。
心が快楽殺人犯のようだということ。
彼を変えてしまったのは一体何なの?
この少女なの?
ロッダは嫌い。
私と二人っきりでいるとき、とても言葉遣いが悪いから。
生まれて初めて「お前」なんて呼ばれたその瞬間には悪寒が走った。
金曜の夜、彼は私に寄り添ってクサい詩を朗読する。
私がそんなもので恋するとでも?
ふざけるのもいい加減にしてほしい。
この屋敷にいるとイライラするの。
そんな私を見兼ねた父母が用意するものといったら、今どき外に出かけられないドレスとか、指輪とか、くだらないものばっかり。
私のこと、少しも分かってない。
別に分かってほしいつもりもないけど。
だから今夜だって、微笑みを浮かべてふざけたロッダの詩を聞いている。
彼が私の腕を掴んで「愛してる」なんて囁くの。
胃が縮みそうなのをこらえて、彼の手の甲に触れてあげた。
なのに、彼ったら「俺のことどう思ってる?」なんて真顔で聞いてきた!
ありえない。
答えないでいたら、彼の顔が近くなった。
去年の今日、口づけした顔が目の前のこれと合わさってのけぞいた。
違う、違う。
リヒャルトはこんな顔なんてしていないのに…どうして。
抵抗したら、首を噛まれた。
それで、わざといつもの顔を作ってこう言った。
「俺じゃなくて、あんな殺人犯がいいわけ?」
思わず手を振り上げて、彼の頬に叩きつけていた。
彼はプライドをへし折られたかのように、しばらく頬を押さえていた。
彼は殺人犯なんかじゃない。
リヒャルトよ。
そう言いたかったけれど声がうわずって出なかった。
彼が頬から手を放し私の頭に腕を伸ばして、ずっと吐くのを止めていたため息を吐き出すように言った。
「忘れちまえよ。」
彼が無造作に私の髪を撫でる。
驚いたことに、先に見つめだしたのは私だった。
「何?」
彼は私を見ようとしない。
そればかりか、撫でていた手も止めて降ろしてしまった。
それでよかった。
彼の頬にキスをするのは簡単なことだった。
彼は面食らったのか動かなかった。
今度は正面からしようと首を曲げたら、いきなり肩を掴んで距離を取られてしまった。
「死ねよ。」
彼は立ち上がると、俯いたまま背を向けて行ってしまった。
残された私は一人ただどうすることもなく、ぼーっと風で揺れるカーテンを見つめていた。
ただ私はずっと、言葉を待っていたのだ。
忘れてしまえばいい。ただ一言、そう言ってくれればよかっただけだった。
私は電話で下郎を呼んだ。
ロッダを呼んだ。
彼は数分後、ムスッとした顔で部屋に入ってきた。
「何?」
彼はいつものように私に近づこうとはしなかった。
警戒心が見て取れた。
それでも私は、彼を見続けた。
「言ってくんなきゃ分かんねーって。」
いつもはそこでオドオドと答える私だったが、首を横に振るだけにとどまった。
彼がため息を吐きながら肩をすくめる。
「用ねぇなら呼ぶなよ。」
なんだ、分かってるじゃない。
私は立ち上がって、ドアの方へ歩み寄った。
「お、おい、あんまムリすんなよ!」
そう言って、倒れそうな私の腕をすばやく掴んで引き寄せた。
彼の腕の中にすっぽり収まり、彼の鼓動が聞こえる。
「お前に何かあったら、俺が叱られるんだからな。」
ずっとこのままでいたい。安らかになれる。
もっと温もりを感じたくて彼の背中に腕を回したら、拒否されるようにまた肩を掴まれ引き離された。
「何すんだよ!」
私は答えられなかった。
必死に言い訳を探していた。
「マジで困るからやめろよ。何でお前に抱きつかれなきゃいけねーんだ。」
彼の私を支える力が段々弱まっていく。
それが少し悲しかった。
思いの外、涙はすぐ溢れてきた。
でも彼はちっとも気付かないでまだ喋る。
「だって俺、ただの下郎だよ? 女王になる人がこんなことしていいの? やめろよ…こんなところ見られたら親父さんになんて言われるか…。俺まだそんな責任とか取れるほどデキた人間じゃないんだから…やめてくれよ…。」
鼻をすすって目をこすると、ようやく彼は泣いてることに気付いた。
「ハッ? 何泣いちゃってくれてんの? 俺にどうしろって言うんだよ。ていうか俺が何したって言うんだよ…。」
私は横に首を振った。
肩にかかる彼の手も振り払った。
久しぶりに、彼に命令していた。
「下がって…!」
言葉と一緒に、嗚咽が溢れだしてきた。
両手を覆って、その場にしゃがみこんだ。
彼の白い足元を見つめながら、泣いていた。
いつものように嘘っぽくでいいから抱きしめてほしかった。
声が廊下に漏れたのか、間もなく執事が入ってきた。
「何事ですか!?」
「ろ、ロッダが…!」
「俺は何もしてねぇよっ!!」
執事の声が、怒りを彷彿とさせるようなものに変わった。
「早急にご主人様をお呼びいたします、お嬢様。ロッダ、あなたはお嬢様の体調の変化をそこで動かずに見守ってなさい!」
ドアの閉まる音が聞こえた。
そして間もなくドアが開く音がした。
ロッダの足は視界から消えていた。
ロッダはしばらく自室で謹慎することになった。
私がいけないというのに。
夜中、父が部屋を訪れた。
「具合はどうかね。」
父はベッドの傍に私の椅子を置いて座った。
目蓋は重くて開けずにいたけど、音でその様子が分かった。
父の手に自分の手を重ねた。
「ロッダは悪くないわ。」
手の甲を父のもう一つの手が乗った。
「レモーニ、彼をかばっちゃいけないよ。…それに本来ここにいるべきではないし、もうここにいる必要もないんだよ。」
言ってる意味が分からない。
分からなくて黙っていたから、沈黙の中にはもう一人部屋にいることが分かった。
「リヒャルトくんが戻ってきたのだよ。ロッダは、彼が本来いるべき場所に返すことにした。」
頬に、大きな手の温もりを感じた。
「キミを置いてきてしまって本当に申し訳ないと思ってた。だが自分に決着を付けたくてね。」
懐かしい声だった。ずっと求めていた、あの優しい声。
「ただいま、レモーニ。」
彼の吐息を額が感じた。咄嗟に私は目蓋を押し開いた。
本当に戦争などに行ってきたのだろうか。
去年と何一つ変わっていない気がする。
「約束、覚えてる?」
私は首を縦に振った。
出発のときはお別れのキス。帰ってきたら結婚の誓い。
私が無理を言って彼に立ててもらった約束だった。
「僕はあなたを嫁にもらいたい。」
そうして、あの柔らかくて優しい感触が、くちびるを奪った。