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《求人広告と謎の店主》

東京、渋谷。

眠ることのないこの街では、毎日誰かが誰かとすれ違い、また誰かが人知れず人混みの中へと消えていく。

見知らぬ誰かがいなくなったところで、気に留める者などほとんどいない。なにしろ、他人の運命よりも、明日の家賃や月末の給料、コンビニで値引きされている弁当のほうが、よほど気になるものだからだ。

藤野和彦も、そんな人間のひとりだった。

二十二歳。東京大学文学部の四年生。小説家になるという夢を抱きながら、現実の壁にぶつかり、何度も打ちのめされてきた。届くのは不採用通知ばかり。滞納した家賃は二か月分。銀行口座に残された金も、もうわずかしかない。

そんな彼のもとに、ある日、一件の求人広告が舞い込んだ。

時給三千円の深夜アルバイト。

店の名前は、「神隠しコンビニ」。

入口には鳥居が立ち、店主はいつも黒い帽子をかぶり、何を考えているのかわからない笑みを浮かべている。肝心の仕事内容については、求人広告に何ひとつ詳しく書かれていなかった。

藤野は当初、それを追い詰められた自分がようやく見つけた、命綱のようなものだと思っていた。

彼はまだ知らない。

一度くぐってしまえば、二度と以前と同じ目では世界を見られなくなる扉があることを。

東京の、誰も気に留めない路地の片隅。終電が走り去ったあと。ネオンの光さえ届かない暗がり。

そんな場所には、誰にも知られることのない物語が、誰かに耳を傾けてもらえる日を待ちながら、ひっそりと息づいている。

客の中には、買い物をしに来たわけではない者もいる。

商品棚に並ぶものの中には、生きている人間のために用意されたものではない品もある。

そして、あの謎めいた店主がいったい何を待っているのか――。

その答えは、夜が深まってからでなければ、見つからないのかもしれない。

第一節:『コンビニの求人広告』

2024年10月5日 早朝

東京都内のどこかにある、六畳一間の古びたアパート。

部屋には、昨夜食べたカップ麺の残り香がこもっていた。

障子紙の張られた窓から、朝の陽射しが斜めに差し込んでいる。へこんだ畳の上には、光と影が交互に縞模様を描いていた。木製のドアは縁がひび割れ、部屋の隅には古本や雑誌が何冊も積み上げられている。その一番上には、食べ終わったカップ麺の容器がいくつか転がっていた。

パソコンの画面の光が、疲れ切った若者の顔を照らしている。

僕の名前は藤野和彦。二十二歳。

厳密に言えば、僕はもうすぐ社畜になるはずだった。

いや、そもそも社畜にすらなれないかもしれない。

東京大学文学部の四年生。かつては小説家になることを夢見ていたが、今では三流のタブロイド紙に怪奇現象のコラムを書き、なんとか食いつないでいる。

「またかよ……」

パソコン画面の右下に、新着メールの通知が表示された。

僕は身を乗り出し、画面を睨みつけながらメールを開いた。

【『真夜中奇談』編集部からのメール】

「藤野様

このたびは、『渋谷スクランブル交差点に出没する白衣の女の怪異に関する調査報告』をご投稿いただき、誠にありがとうございました。

編集部にて検討いたしました結果、内容の実証性に乏しく、また構成にもまとまりが見られないため、残念ながら本誌の掲載基準には達していないとの判断に至りました。

加筆修正のうえ再投稿いただくか、他媒体への投稿をご検討ください。

今後ともよろしくお願いいたします」

僕は背もたれに身を投げ出した。

ゴツン、と後頭部が壁にぶつかる。鈍い音が部屋に響いた。

今月に入って、これで七通目の不採用通知だ。

家賃は二か月滞納。銀行口座の残高で買えるのは、カップ麺があと三日分。卒業論文は一文字も書けていない。

これが、東京大学の優秀な学生だったはずの僕、藤野和彦の現状だった。

「くそっ……」

額に手を当て、光り続ける画面を見つめる。

「このままだと、本当に路上で野垂れ死ぬぞ……」

窓の外では、東京という街がいつもどおり動いていた。

電車の走行音。車のクラクション。遠くから響く工事の騒音。

そんな無数の音が、この街の日常を形作っている。

その一方で、僕は六畳一間の小さな部屋に引っかかった、壊れた部品のようだった。

動こうとしても動けない。どこにも行けない。

――ドンドンドン!

乱暴なノックが、僕の思考をぶち壊した。

いや、あれはノックなんて上品なものじゃない。

拳でドアをぶん殴っている、と言ったほうが正しい。

「藤野! いるんだろ! わかってるんだぞ!」

薄っぺらい木製のドアを突き破りそうな、しゃがれた甲高い声。

大家だ。

僕はため息をつき、畳から重い腰を上げた。

動き出すのが一瞬遅れた。

その間に、ドアが勝手に押し開けられた。

色あせた寝間着を着た、痩せこけた老人が入口に立っていた。目は深く落ちくぼみ、濁ったガラス玉のように僕を見つめている。

手には鍵束。

そのうちの一本を、まるで指差すように僕へ向けていた。

「藤野! 家賃を二か月も滞納してるじゃないか!」

唾が飛んできそうな勢いだった。

「月末だ! 月末までに払えなかったら出ていってもらうからな! わかったか、小僧!」

僕はうつむき、声を抑えて答えた。

「はい……大家さん。なんとかします」

「なんとかする? 前にも同じことを言っただろうが!」

老人は鼻で笑った。

「文学部の優秀な学生様だって? はっ! 家賃ひとつ払えない優秀な学生様とは、ずいぶんなもんだな!」

バタン!

ドアが乱暴に閉められた。

壁に積もっていた埃が、ぱらぱらと落ちてくる。

僕はその場に立ち尽くしていた。

廊下から聞こえていた足音が、完全に消えるまで。

「クソジジイ……」

胸の奥から、どす黒い感情が湧き上がる。

けれど、それもすぐに無力感に押しつぶされた。

「……悪口を言ったところで、何になるんだよ。金がないのは事実なんだから……」

窓辺まで歩き、軋む音を立てる窓を押し開けた。

十月の冷たい風が、部屋の中へ吹き込んでくる。

眼下には狭い裏路地が広がっていた。数匹の野良猫が、ゴミ箱の周りをうろつきながら食べ物を探している。

このままいけば、本当に銀座の地下通路で寝泊まりすることになるかもしれない。

いや。

その前に、空腹で倒れるのが先か。

昼の十二時。

僕はパソコンの前に戻り、不採用通知のメールを閉じて、求人サイトを開いた。

薄暗い部屋の中で、画面の光がやけに眩しく感じられた。

指先でトラックパッドを滑らせる。

求人情報が次々と流れていく。

■ カフェスタッフ(渋谷店)

時給:1,100円

応募条件:愛想がよく、長時間の立ち仕事ができる方

■ コンビニ夜勤スタッフ(新宿区)

時給:1,250円

応募条件:夜更かしに強く、孤独を苦にしない方

■ ビル清掃スタッフ(深夜勤務)

時給:1,300円

応募条件:汚れを気にせず、体力に自信のある方


家賃は八万円。

この時給で毎日八時間働いたとしても、家賃を払えるだけの金を貯めるには、ほぼ一か月かかる。

もちろん、卒業論文を書きながらアルバイトを続けられれば、という話だ。

胃がきりきりと痛み始めた。

空腹のせいか。それとも不安のせいか。

たぶん、その両方だろう。

そろそろページを閉じようかと思った、そのときだった。

画面の一番下に、見慣れない求人情報が目に入った。

【急募】神隠しコンビニ・深夜スタッフ

勤務地:東京都渋谷区道玄坂裏通り33-2

時給:3,000円

応募条件:度胸と注意力があり、特殊な労働環境に適応できる方

※ 詳細は面談にて説明

僕の指が、トラックパッドの上で止まった。

時給三千円?

渋谷とはいえ、三千円だって?

普通のコンビニ夜勤の倍以上じゃないか。

「神隠しコンビニ……」

僕は小さく、その名前を口にした。

神隠し。

日本語では、神や妖怪によって人が連れ去られ、忽然と姿を消してしまうことを意味する。

コンビニの名前としては、どう考えても不気味だった。

それに、「特殊な労働環境に適応できる方」という曖昧な表現。

どう見ても、まともな仕事とは思えない。

違法な仕事かもしれないし、もっと厄介な何かが待っているのかもしれない。

けれど――。

僕は部屋の隅に転がるカップ麺の容器を見た。


大家の顔が脳裏に浮かぶ。

そして、銀行口座の残高。

マウスカーソルが「応募する」のボタンの上で、三秒ほど止まった。

それから、クリックした。

「……もう、どうにでもなれ」

ページの更新が終わった。

それでも、僕はすぐにブラウザを閉じなかった。

部屋は妙に静かだった。

聞こえるのは、パソコンのファンが低く唸る音だけ。

僕はそのまま、ゲームのランチャーを開いた。

どうせ、ほかにやることもない。

ゲームのロード画面が表示されると、僕は椅子の背もたれに体を預けた。

ようやく現実から逃げ込める場所を見つけたような気がした。

聞き慣れたBGMが流れ、画面にはキャラクターの立ち絵とクエストの案内が映し出される。

僕はゲームの中のキャラクターを操作し、仮想世界を走り回った。

戦い、敵を倒し、アイテムを集める。

意味があるのかどうかもわからない行動を何度も繰り返す。

けれど、そこには少なくとも現実のような不安はなかった。

数時間後。

再びメールの通知音が鳴った。

時間がどう過ぎていったのか、僕はほとんど気にしていなかった。

今度は不採用通知ではなかった。

送信者は、見覚えのないメールアドレス。

件名は、たった二文字。

【採用通知】

本文も、ひどく簡潔だった。

藤野和彦様

ご応募いただいた履歴書の審査が完了し、採用が決定いたしました。

明日、10月6日(日)正午12時までに、下記住所へお越しください。

勤務地:東京都渋谷区道玄坂裏通り33-2 神隠しコンビニ

※ 遅刻厳禁。


僕は、その数行を長いこと見つめていた。

やがて椅子の背にもたれ、天井を見上げる。

そこには、何もなかった。

「……なんか、嫌な感じがするな」

窓の外では、少しずつ空が暗くなっていた。

部屋の明かりはつけていない。

パソコンの光だけが、僕の顔をぼんやりと照らしている。

「でも、今の僕には選択肢なんてないんだよな……」

壁に掛かった古い時計が、規則正しく時を刻んでいた。

カチ、カチ。

静まり返った部屋では、その音がやけに大きく聞こえる。

カチ、カチ。

一秒ごとに、時間が過ぎていく。

そして、何かが始まる瞬間が、少しずつ近づいている。

パソコンを閉じようとした、そのとき。

視界の端で、窓の外に何かが動いた。

一瞬だった。


あまりにも速く、気のせいだと思ってしまいそうなほど。

けれど、確かに見えた。

向かいのマンションの非常階段。

そこに、人のような影がしゃがみ込んでいた。

関節の向きがおかしいような、不自然な姿勢で。

その影は、まっすぐ僕の部屋の窓を向いていた。

僕は勢いよく振り返った。

非常階段には、誰もいなかった。

風に吹かれた洗濯物が、ゆらゆらと揺れているだけだった。

「……見間違い、だよな」

僕は小さくつぶやき、パソコンの電源を切った。

部屋が暗闇に沈んでいく。

そして、完全に闇に包まれる直前。

僕は、何かの声を聞いた気がした。

耳から聞こえたのではない。

まるで、心臓そのものを直接叩かれたような声だった。

「コンビニの中には、人々が日常的に必要とするものだけを売っているわけではない店もある……」

声はひどく小さかった。

幻聴と片づけてしまえるほどに。

それでも、僕にはわかった。

あれは、僕の想像なんかじゃなかった。


第二節:『渋谷の鳥居の下で』

正午を迎える少し前、雨はぴたりと止んだ。

まるで、誰かが時間を見計らっていたかのように。

空にはまだ雨の名残があった。薄い雲が広がり、高層ビルの隙間から差し込む陽射しが、濡れた路面にまだらな光を落としている。

渋谷は相変わらず、人の波が渦巻く街だった。

けれど、道玄坂の裏通りに入ると、街の喧騒は目に見えない膜に遮られたかのように遠のいていく。

聞こえてくるのは、ぼんやりとした街のざわめきだけだった。

僕は古びた商業ビルの前に立ち、顔を上げた。

そこには、一枚の看板が掲げられていた。

「神隠しコンビニ」

ネオン管で形作られた店名は、昼間だというのに、かすかな光を放っていた。

看板のデザインはひどくレトロで、まるで昭和の時代から取り残されたもののようだった。

端のほうでは、いくつかのネオン管が切れている。

そのせいで、店名の一部が妙に欠けて見えた。

そして、もっと奇妙なのは店の入口だった。

自動ドアの左側に、小さな鳥居が立っていたのだ。

ただの飾りではない。

神社にあるものを、そのまま縮小して作ったような、本格的な鳥居だった。

朱色の塗装はところどころ剥がれているものの、造りそのものはしっかりしている。

鳥居の奥には、小さな神社を模した一角が設けられていた。

賽銭箱に、鈴。

さらには、小さな祠まである。

香炉には、燃え尽きた線香が何本か残っていた。

灰はまだ湿っている。

誰かがつい先ほどまで、ここで手を合わせていたらしい。

注連縄に吊るされた白い紙垂が、風に揺れて、かすかな音を立てていた。

コンビニの入口に神社?

僕はしばらく、その光景を眺めていた。

あまりにも現実離れしていて、どこから突っ込めばいいのかすらわからない。

「渋谷は金と欲望が渦巻く海。人々は利益を求め、忙しなく行き交う……」

求人サイトに載っていた、あの宣伝文句のような、警告文のような言葉を思い出す。

「なのに、この店の前に立ってると……なんか、別のドラマの撮影現場に迷い込んだ気分だな」

ここは、普通の商業施設じゃない。

もっと別の何か。

そう……結界の入口、とでも言えばいいのだろうか。

僕は深く息を吸い込んだ。

雨上がりの湿った空気。

線香の残り香。

それから、うまく説明できない、かすかな匂い。

古い本のようでもあり、薬草のようでもある。

確かに、そこにあった。

僕が店に入るべきかどうか迷っていた、そのとき。

ウィーン、と自動ドアが開いた。

僕が近づいたからではない。

中から、誰かが出てきたのだ。

現れたのは、ベージュ色のコートを着た男だった。

三十五歳前後だろうか。

背が高く、痩せている。

頭には黒い山高帽をかぶり、つばを深く下げて、顔の上半分を隠していた。

手には黒い長傘。

傘の先端が、地面に残った水たまりを軽く叩く。

革靴が濡れたタイルを踏むたび、コツ、コツ、と規則正しい音が響いた。

一歩。

二歩。

男は僕の目の前で立ち止まった。

「君が、今日面接に来た子かな?」

妙な声だった。

軽薄そうなのに、どこか妙に落ち着いている。

演歌歌手が話すときのような独特の節回し。それでいて、古い映画の登場人物が台詞を読み上げるような、芝居がかった響きもあった。

僕は思わず背筋を伸ばした。

「は、はい……。藤野和彦です。あの、あなたは……?」

「伊森川だ」

男は帽子のつばを少し持ち上げた。

その下から、細長い目が覗く。

瞳の色はかなり薄く、陽射しを受けると、ほとんど琥珀色に見えた。

「この店の店主をやっている」

伊森川は僕をじっと見た。

色あせたシャツから、安物の革靴へ。

そして、再び僕の顔へ。

その目つきは、応募者を見定める店主というより、商品を査定する商人のそれに近かった。

あるいは――実験材料を観察する研究者、とでも言うべきか。

「藤野和彦、二十二歳。東京大学文学部の四年生。家賃を二か月滞納中で、貯金も底をつきかけている」

伊森川の口元が、わずかに吊り上がった。

「……違うかい?」

背中に、ぞくりと冷たいものが走った。

「あなた……僕のことを調べたんですか?」

「コンビニを経営するなら、人を見る目くらい持っていないとね」

彼は何でもないことのように言い、さらりと話題を変えた。

「ところで、採用する前にひとつだけ聞いておきたいんだが――」

伊森川が半歩、こちらへ近づいた。

距離が縮まり、彼の身体から漂う匂いが、はっきりとわかった。

線香。

古い紙。

それから、冬の寺院の庭を思わせる、冷たく澄んだ空気の匂い。

「――君は、ここで働く度胸があるのかい?」

声が低くなる。

一言一言が、妙に重たく響いた。

僕は言葉を失った。

コンビニの面接で、こんなことを聞かれるはずがない。

ホラー映画の冒頭か、怪奇ゲームのプロローグでしか聞かないような台詞だ。

僕は思わず半歩後ずさった。

かかとが、背後にある鳥居の土台にぶつかる。

「そ、その……冗談ですよね?」

平静を装ってみたが、語尾が震えてしまった。

「僕はコンビニの店員に応募したんです。肝試しに来たわけじゃないんですけど……」

伊森川は答えなかった。

ただ、僕を見つめている。

薄い色の瞳の奥で、何かが揺れていた。

悪意でもない。

善意でもない。

もっと別のもの。

檻に入り込んできた動物が、次にどんな行動を取るのか観察しているような目だった。

沈黙は、五秒ほど続いた。

その間、僕にはいろいろな音が聞こえていた。

自分の心臓の音。

遠く離れた渋谷スクランブル交差点の喧騒。

風に揺れる紙垂の、かすかな音。

そして、僕は口を開いた。

彼への返事というより、自分自身に言い聞かせるように。

「……時給三千円ですからね。普通のコンビニの夜勤なんて、せいぜい千三百円くらいです。それだけもらえるなら、そりゃ気になりますよ」

「そりゃ、そうだろうね」

伊森川の声が、突然変わった。

それまでの軽薄な調子が消え、静かで、どこか厳かな響きに変わった。

彼は身体の向きを変え、通りの向こうを見つめた。

雨上がりの陽射しを受け、渋谷の高層ビル群がきらきらと輝いている。

「ここは渋谷だ。昼間は、誰もが金を稼ぐために走り回り、欲しいものを手に入れるために忙しくしている。電車は止まらず、人の流れも途切れない」

彼は一度、言葉を切った。

「だが、夜になると……」

声が、さらに低くなる。

まるで、自分自身に言い聞かせているかのようだった。

その瞬間だった。

店内から流れていたBGMが、ぴたりと止まった。

音がゆっくりと消えていったわけではない。

何者かが、音源を刃物で断ち切ったかのように、唐突に途絶えたのだ。

続いて、入口のネオン看板が一度だけ明滅した。

電圧が不安定なときに起こるような、普通の点滅ではなかった。

すべての灯りが同時に消え、次の瞬間には何事もなかったかのように再び点灯した。

ただし、復旧した光の色が違っていた。

それまでの白い光に、ほとんど気づかないほど淡い、幽かな青みが混じっていたのだ。

そして、僕の背筋を凍らせたのは,鳥居の奥にある、小さな神社だった。

祠が、光を放っていた。

陽射しが反射したわけではない。

祠の内側から、玉のように柔らかな光が漏れ出していた。

弱々しい光だった。

それでも、確かに光っていた。

「えっ……!?」

僕は思わず後ずさり、背中を電柱にぶつけた。

「お、オーナー! これ、いったい……!」

「そんなに慌てなくてもいい」

伊森川は、急に穏やかな口調に戻った。

先ほどまでの厳かな雰囲気が嘘のように消え、いつもの軽薄な調子で僕に笑いかける。

その笑顔は、ごく普通のものに見えた。

だからこそ、かえって不自然だった。

「古い建物だからね。配線がいまひとつなんだ。しょっちゅう電気が不安定になるんだよ」

嘘だ。

僕の頭に、真っ先にその言葉が浮かんだ。

電気系統の不具合で、神社の模型が光るものか。

ネオンの色まで変わるものか。

けれど、伊森川は僕に質問する隙すら与えなかった。

彼は雨も降っていないのに、手にしていた黒い傘を開いた。

傘が頭上に広がり、その下に小さな影が生まれる。

「人間ってのは、結局のところ、たったひとつのもののために生きているようなものだ」

唐突に、彼は話し始めた。

まるで、古い寓話でも語るかのような口調だった。

「幕府の時代には銀と呼ばれ、今の時代じゃ紙幣と呼ばれる。名前が変わったところで、所詮は紙切れか、数字の羅列にすぎない」

傘の先端が、地面を軽く叩いた。

「だが、そんなくだらないもののために、人生の最後まで手放そうとしない人間が、いったいどれだけいると思う? おかしな話だと思わないかい?」

僕は口を開きかけたが、何も言えなかった。

彼の言葉には、妙な重みがあった。

説教をしているわけでも、世の中を嘆いているわけでもない。

ただ、冷たい事実を淡々と述べているだけ。

まるで、「水は高いところから低いところへ流れる」とでも言うように。

「……急に雰囲気が変わったな」

僕は伊森川の横顔を見つめた。

「お金の話をしてるようで……本当は、もっと重い何かについて話してるみたいだ」

すると伊森川は、くるりとこちらを振り返った。

そして、接客業の手本のような笑顔を浮かべた。

「さて、哲学の時間はここまで」

彼は傘を畳み、先端でコンビニの自動ドアを指した。

「行こうか、藤野君」

誰かが近づいたことを感知し、自動ドアがピッと音を立てて開いた。

その向こうに広がっていたのは、ごく普通のコンビニの店内だった。

明るい照明。

きれいに並んだ商品棚。

レジカウンターに冷蔵ケース。

雑誌コーナーには、最新号の週刊誌や漫画まで並んでいる。

どこからどう見ても、普通のコンビニだ。

だが、ドアが完全に開いた瞬間,僕は、あの匂いを嗅いだ。

さっきよりも、ずっとはっきりと。

線香。

古い紙。

薬草。

そして、それらの奥に潜む、もっと深い何か。

土と雨水と、長い年月を経た古木が混ざり合ったような匂いだった。

「神隠しコンビニへ、ようこそ」

伊森川は、どうぞ、と言わんばかりに手を差し出した。

店内の光に照らされた彼の姿が、雨に濡れた路地に長い影を落としている。

僕は店内へ足を踏み入れる直前、何気なく振り返った。

通りの向こうにある非常階段。

そこには、誰もいなかった。

けれど、僕の直感は告げていた。

何かが、さっきまでそこにいたのだ。

そして――。

ずっと、僕のことを見つめていた。

今回のお話では、藤野和彦と伊森川、二人の出会いを描きました。

一見すると、伊森川は少し風変わりなコンビニの店主にすぎません。しかし、彼の言動にはどこか不可解なところがあり、その正体には多くの謎が隠されています。

彼はいったい何者なのか。そして、なぜ「神隠しコンビニ」を営んでいるのか。

その答えは、今後の物語の中で少しずつ明らかになっていきます。

これから藤野和彦がどのような出来事に巻き込まれ、どんな人々や怪異と出会っていくのか。ぜひ、引き続き見守っていただければ幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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