破滅フラグをすべて折ったら、裏ボス級のフラグが立った件
目を覚ますと、天蓋つきのベッドの上だった。
レースのカーテン越しに差しこむ朝日。薔薇の香り。そして、姿見に映る見知らぬ――いや、見覚えのありすぎる顔。
艶やかな黒髪に、吊り目がちの紫の瞳。唇は勝ち気に引き結ばれている。
「……エディット・ノーティス?」
声に出した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
小鳥遊ゆら。二十六歳。大阪生まれ、東京の会社員。残業帰りの深夜、コンビニの袋を提げて横断歩道を渡っていた――そこで記憶は途切れている。
そして、この顔。前世の私が寝る間も惜しんでやりこんだ乙女ゲーム『薔薇のリュミエール』の悪役令嬢、その人だった。
「嘘やろ……」
腹違いの妹であるヒロインを三年間いじめ抜き、建国記念の夜会で断罪される高慢な姉。結末は、どのルートでも処刑。
私は鏡の前で、自分の細い首筋に触れた。
「三年後の処刑なんて、絶対に嫌だ」
……とはいえ、嘆いていても始まらない。前世では四年間、炎上案件の火消しばかり任されてきた身だ。トラブルは、まず整理。
私は便箋を引っぱり出して、羽根ペンを走らせた。
『破滅回避・やることリスト 一、妹をいじめない。二、妹をいじめない。三、とにかく妹をいじめない』
……我ながら、要点を絞りすぎた気がする。
侍女のマルタが扉を叩いたのは、そのときだった。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。本日、例の……妹君がお屋敷にお着きになると」
来た。ゲームのプロローグ、まさにその日だ。原作のエディットは、ここで初対面の妹に紅茶を浴びせる。すべての破滅は、そこから始まる。
私は深く息を吸った。
「生き残るため、ヒロインである腹違いの妹は虐げないッ」
「お嬢様?」
「なんでもないわ、マルタ。着替えを手伝ってちょうだい」
悪役令嬢らしからぬ笑顔を作ると、マルタが目を丸くした。
***
応接間の隅に、少女がひとり立っていた。
色褪せた外套。きつく握りしめた鞄。陽だまりのような金の髪と、春の若葉を思わせる緑の瞳。画面越しに何度も見た、ヒロインの立ち絵そのままだ。
けれど実物のリーディアは、立ち絵よりずっと痩せていて、ずっと怯えていた。
「リーディアだ。今日からこの家の娘になる」
父、ベルナール・ノーティス侯爵はそれだけ言うと、書類に目を落とした。壁際に控える使用人たちの視線も、どこかよそよそしい。
……ああ、そうか。この屋敷には、彼女の味方がひとりもいないのだ。
リーディアと目が合う。彼女の肩がびくりと跳ねた。噂で聞いていたのだろう。高慢で、癇癪持ちの姉のことを。
私は紅茶のカップには触れず、立ち上がって彼女の前まで歩いた。リーディアがぎゅっと目を閉じる。
その冷えきった手を、両手で包んだ。
「はじめまして、リーディア。私はエディット。あなたの姉よ」
恐る恐る開いた緑の瞳が、私を映す。
「長旅で疲れたでしょう。温かいお茶を淹れさせるわ。無理に話さなくていいの。ここはもう、あなたの家なんだから」
握った手が、小さく震えた。次の瞬間、ぽろりと涙がこぼれる。
「ご、ごめんなさい……誰かに手を握ってもらったの、お母さんが死んでから、初めてで……」
胸の奥がきゅっと痛んだ。推しの涙は、画面越しでも効いた。実物はもう、致命傷だ。
私はハンカチで頬を拭ってやってから、ポケットを探った。出がけに、鏡台の砂糖菓子を詰めこんできていた。前世から、ポケットに甘いものを忍ばせておく癖が抜けないのだ。
「どうぞ。甘いものを食べると、少しは元気が出るわ。あとで料理長のタルトも一緒に食べましょう。約束よ」
リーディアは手のひらの砂糖菓子をじっと見つめ、それから、こくんと頷いた。涙で濡れた顔のまま、初めて小さく笑った。
「……はい。おねえさま」
小さな、小さな声だった。
このときの私は、まだ知らなかったのだ。この一言が三年後、どれほど甘く、どれほど危険な響きを帯びることになるのかを。
***
それからの三年間をひとことで言うなら、「姉バカ」だった。
毎晩書斎で一緒に本を読み、ダンスの練習に付き合った。社交界デビューの夜会で、ある伯爵令嬢が「泥棒猫の娘」と陰口を叩いたときには、扇で口元を隠して、にっこり微笑んでやった。
「あら、私の妹に何かご用? ノーティス家にご意見があるなら、父を通してくださる?」
悪役令嬢の顔面は、こういうときにだけ役に立つ。
リーディアはみるみる変わっていった。痩せた頬はふっくらと色づき、俯きがちだった背筋はまっすぐに伸びた。やがて「ノーティス家の金の薔薇」と呼ばれ、求婚の手紙が山のように届くようになった。
ところが、リーディアは誰にもなびかなかった。王太子にも、騎士にも、宮廷魔術師にも。どのルートにも入らない。フラグが、ひとつも立たない。
「リーディア、せっかくのお誘いを全部断るのは、さすがに失礼よ?」
「だって、おねえさまといるほうが楽しいんですもの」
そう言って腕に絡みついてくる妹は、可愛かった。とにかく可愛かった。
――建国記念の夜会をひと月後に控えた、ある園遊会。
楽団の演奏が始まると、リーディアが私の袖をそっと引いた。
「おねえさまは、どなたかと踊られるんですか?」
「殿下と一曲だけね。婚約者の義務みたいなものよ」
「……そうですか」
ほんの一瞬、彼女の笑顔がすっと消えた気がした。けれど瞬きをしたときには、いつもの柔らかな微笑みに戻っていた。気のせいだろう。
事件は、その少しあとに起きた。
庭園の池のほとりで、リーディアが青ざめて立ち尽くしていた。そばには、くすくす笑う令嬢たち。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって」
水面に、細い鎖が沈んでいくのが見えた。リーディアが肌身離さず身につけている、亡き母の形見のペンダントだ。
考えるより先に、体が動いていた。
私はドレスの裾をたくし上げ、ざぶざぶと池に踏みこんだ。悲鳴が上がる。水は腰の高さまであって、泥がぬるりと靴に絡みついた。
「お、おねえさま!?」
手探りで水底の泥をかき分ける。髪まで泥だらけになった頃、指先に硬い感触が触れた。
「あった!」
ずぶ濡れのまま岸に戻り、ペンダントを妹の手のひらにのせる。それから、呆然とする令嬢たちに向き直った。
「手が滑ったのなら仕方ないわね。次からは、お気をつけあそばせ」
とどめに極上の悪役令嬢スマイルを浮かべると、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「おねえさま、ドレスが……髪も、泥だらけで……」
「いいのよ、このくらい大したことないわ。それより、大事なものが無事でよかった」
笑ってみせると、リーディアは何も言わずに私を見つめていた。ペンダントを両手で胸に抱きしめ、頬を真っ赤に染めて。
そのとき妹の瞳に灯った熱の意味を、私はまだ知らなかった。
***
建国記念の夜会。原作で、エディットが断罪される夜だ。
王宮の大広間にはシャンデリアがきらめき、楽団が華やかなワルツを奏でている。私は壁際でグラスを握りしめ、ひたすら息を殺していた。
大丈夫。妹は虐げていない。むしろ溺愛している。断罪される理由なんて、どこにもない――はず。
「エディット」
背後からの声に、肩が跳ねた。振り返ると、金糸の礼装に身を包んだ婚約者、第二王子のアルベール殿下が立っていた。
原作では、この直後に殿下が高らかに宣言するのだ。「エディット・ノーティス、貴様との婚約を破棄する!」と。
「少し、話をしてもいいだろうか」
殿下は私をバルコニーへ誘った。夜風が火照った頬を冷やす。私は覚悟を決めて、言葉を待った。
「婚約を、解消させてほしい」
来た。でも、口調が穏やかすぎる。
「実は……想う人がいる。隣国の第二王女だ。君には申し訳ないと思っている。だが君も、私に恋をしていたわけではないだろう?」
図星だった。三年間、妹の世話に夢中で、婚約者のことなどほとんど考えていなかった。
「ええ。どうか、お幸せに」
心からそう言うと、殿下は安堵したように笑った。
それから、ふと思い出したように付け加える。
「そうだ。隣国の王女との縁を取り持ってくれたのは、君の妹君なんだ。……礼を伝えておいてくれ」
「リーディアが?」
「ああ。以前から茶会などで気を利かせてくれてね。何度か話す機会まで作ってくれた」
殿下は照れくさそうに頬を掻いた。
「よくできた妹君だ。君のことを、本当に大切に思っているんだろう」
「……ええ、そうですね」
笑って返しながら、胸の奥に小さな違和感が残った。
大広間に戻ると、夜会は何事もなく続いていた。誰も私を糾弾しない。衛兵も来ない。断罪イベントは、影も形もなかった。
処刑は、回避できたのだ。
「おねえさま!」
人波をかき分けて、リーディアが駆け寄ってくる。淡い若草色のドレスが、ふわりと揺れた。
「殿下と、何のお話を?」
「婚約を解消することになったの。円満にね」
告げた瞬間、リーディアの緑の瞳が、きらりと光った気がした。
「……そうですか。それは、とても、とても残念でしたね」
言葉とは裏腹に、その唇は美しい弧を描いていた。
***
その夜。屋敷に戻って寝間着に着替えたところで、控えめなノックが響いた。
「おねえさま、まだ起きていらっしゃいますか?」
扉を開けると、リーディアが枕を抱えて立っていた。薄い夜着に、ショールを一枚羽織っただけの姿で。
「今夜は、一緒に眠ってもいいですか? 昔みたいに」
屋敷に来たばかりの頃、雷の夜に何度かそうしたことがある。断る理由が見つからず、私は彼女を招き入れた。
ベッドの端に並んで腰かける。蝋燭の灯りが、金の髪を蜂蜜色に染めていた。
「今日は、お疲れさまでした」
「あなたもね。たくさん踊って疲れたでしょう」
「いいえ。おねえさまと踊れなかったことのほうが、ずっと心残りです」
リーディアがそっと身を寄せてくる。肩に頭が乗り、甘い花の香りが鼻をくすぐった。
ここまでは、いつものことだ。
けれど今夜は、彼女の指が私の指の間に、ゆっくりと滑りこんできた。一本ずつ、確かめるように絡められていく。
「おねえさま……」
見上げてくる緑の瞳が、熱っぽく潤んでいた。
心臓が、どくんと跳ねる。嫌な音なのか、そうでないのか、自分でもよくわからない。
「リ、リーディア? 少し、近くない?」
「三年前、おねえさまは私の手を握ってくださいました」
リーディアは絡めた手を持ち上げ、私の手の甲に、そっと唇を寄せた。触れるか触れないかの、羽のような口づけ。
「誰も私を見てくれなかったあの家で、おねえさまだけが。あの日から、ずっと、おねえさまは私の一番大切な人でした」
「そ、それは姉妹として、よね?」
「最初は、そうでした。でも……いつからか、それだけでは足りなくなってしまったんです」
囁きと一緒に、柔らかな唇が頬をかすめた。耳たぶに、熱い吐息がかかる。
「殿下との婚約がなくなった今、もう我慢する理由はありませんよね?」
――あかん。
甘やかし過ぎた。完全に、甘やかし過ぎた。
原作のフラグを全部へし折った結果、立ってはいけないフラグが一本、天高くそびえ立っている。
ゆっくりと体重をかけられ、私の背がシーツに沈みかけた、そのとき。
「リーディア、待って!」
私は彼女の両肩を掴んで、ぎりぎりのところで押しとどめた。
「わ、私たち、姉妹なのよ? それに、こういうことには、その、順番というものが……!」
必死の声に、リーディアはぱちりと瞬きをした。それから、花がほころぶように笑う。
「順番、ですね。わかりました」
彼女は身を起こすと、私の前髪をそっとかき上げて、額に小さな口づけを落とした。
「では今夜は、ここまでにしてさしあげます」
ほっと息をついたのも束の間、耳元で甘い声が続く。
「でも、覚えておいてくださいね。おねえさまがどなたかに嫁ぐなんて、私、絶対に許しませんから」
そう言ってリーディアは私の隣に潜りこみ、満足げに目を閉じた。私の手は、しっかりと握られたままだ。
やがて、穏やかな寝息が聞こえてくる。
私は天井を見上げて、火照った頬を冷ますように息を吐いた。
処刑は回避できた。それは間違いない。
けれど、ほんのりと――いや、わりとはっきり、貞操の危険を感じている。
そして何より厄介なのは、絡められたこの指先を、どうしても振りほどく気になれない自分がいることだった。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
評価、感想を頂けるととても嬉しいです!




