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破滅フラグをすべて折ったら、裏ボス級のフラグが立った件

作者: 錆猫てん
掲載日:2026/10/04

 目を覚ますと、天蓋つきのベッドの上だった。


 レースのカーテン越しに差しこむ朝日。薔薇の香り。そして、姿見に映る見知らぬ――いや、見覚えのありすぎる顔。


 艶やかな黒髪に、吊り目がちの紫の瞳。唇は勝ち気に引き結ばれている。


「……エディット・ノーティス?」


 声に出した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 小鳥遊(たかなし)ゆら。二十六歳。大阪生まれ、東京の会社員。残業帰りの深夜、コンビニの袋を提げて横断歩道を渡っていた――そこで記憶は途切れている。


 そして、この顔。前世の私が寝る間も惜しんでやりこんだ乙女ゲーム『薔薇のリュミエール』の悪役令嬢、その人だった。


「嘘やろ……」


 腹違いの妹であるヒロインを三年間いじめ抜き、建国記念の夜会で断罪される高慢な姉。結末は、どのルートでも処刑。


 私は鏡の前で、自分の細い首筋に触れた。


「三年後の処刑なんて、絶対に嫌だ」


 ……とはいえ、嘆いていても始まらない。前世では四年間、炎上案件の火消しばかり任されてきた身だ。トラブルは、まず整理。


 私は便箋を引っぱり出して、羽根ペンを走らせた。


『破滅回避・やることリスト 一、妹をいじめない。二、妹をいじめない。三、とにかく妹をいじめない』


 ……我ながら、要点を絞りすぎた気がする。


 侍女のマルタが扉を叩いたのは、そのときだった。


「お嬢様、旦那様がお呼びです。本日、例の……妹君がお屋敷にお着きになると」


 来た。ゲームのプロローグ、まさにその日だ。原作のエディットは、ここで初対面の妹に紅茶を浴びせる。すべての破滅は、そこから始まる。


 私は深く息を吸った。


「生き残るため、ヒロインである腹違いの妹は虐げないッ」


「お嬢様?」


「なんでもないわ、マルタ。着替えを手伝ってちょうだい」


 悪役令嬢らしからぬ笑顔を作ると、マルタが目を丸くした。



 ***



 応接間の隅に、少女がひとり立っていた。


 色褪せた外套。きつく握りしめた鞄。陽だまりのような金の髪と、春の若葉を思わせる緑の瞳。画面越しに何度も見た、ヒロインの立ち絵そのままだ。


 けれど実物のリーディアは、立ち絵よりずっと痩せていて、ずっと怯えていた。


「リーディアだ。今日からこの家の娘になる」


 父、ベルナール・ノーティス侯爵はそれだけ言うと、書類に目を落とした。壁際に控える使用人たちの視線も、どこかよそよそしい。


 ……ああ、そうか。この屋敷には、彼女の味方がひとりもいないのだ。


 リーディアと目が合う。彼女の肩がびくりと跳ねた。噂で聞いていたのだろう。高慢で、癇癪持ちの姉のことを。


 私は紅茶のカップには触れず、立ち上がって彼女の前まで歩いた。リーディアがぎゅっと目を閉じる。


 その冷えきった手を、両手で包んだ。


「はじめまして、リーディア。私はエディット。あなたの姉よ」


 恐る恐る開いた緑の瞳が、私を映す。


「長旅で疲れたでしょう。温かいお茶を淹れさせるわ。無理に話さなくていいの。ここはもう、あなたの家なんだから」


 握った手が、小さく震えた。次の瞬間、ぽろりと涙がこぼれる。


「ご、ごめんなさい……誰かに手を握ってもらったの、お母さんが死んでから、初めてで……」


 胸の奥がきゅっと痛んだ。推しの涙は、画面越しでも効いた。実物はもう、致命傷だ。


 私はハンカチで頬を拭ってやってから、ポケットを探った。出がけに、鏡台の砂糖菓子を詰めこんできていた。前世から、ポケットに甘いものを忍ばせておく癖が抜けないのだ。


「どうぞ。甘いものを食べると、少しは元気が出るわ。あとで料理長のタルトも一緒に食べましょう。約束よ」


 リーディアは手のひらの砂糖菓子をじっと見つめ、それから、こくんと頷いた。涙で濡れた顔のまま、初めて小さく笑った。


「……はい。おねえさま」


 小さな、小さな声だった。


 このときの私は、まだ知らなかったのだ。この一言が三年後、どれほど甘く、どれほど危険な響きを帯びることになるのかを。



 ***



 それからの三年間をひとことで言うなら、「姉バカ」だった。


 毎晩書斎で一緒に本を読み、ダンスの練習に付き合った。社交界デビューの夜会で、ある伯爵令嬢が「泥棒猫の娘」と陰口を叩いたときには、扇で口元を隠して、にっこり微笑んでやった。


「あら、私の妹に何かご用? ノーティス家にご意見があるなら、父を通してくださる?」


 悪役令嬢の顔面は、こういうときにだけ役に立つ。


 リーディアはみるみる変わっていった。痩せた頬はふっくらと色づき、俯きがちだった背筋はまっすぐに伸びた。やがて「ノーティス家の金の薔薇」と呼ばれ、求婚の手紙が山のように届くようになった。


 ところが、リーディアは誰にもなびかなかった。王太子にも、騎士にも、宮廷魔術師にも。どのルートにも入らない。フラグが、ひとつも立たない。


「リーディア、せっかくのお誘いを全部断るのは、さすがに失礼よ?」


「だって、おねえさまといるほうが楽しいんですもの」


 そう言って腕に絡みついてくる妹は、可愛かった。とにかく可愛かった。


 ――建国記念の夜会をひと月後に控えた、ある園遊会。


 楽団の演奏が始まると、リーディアが私の袖をそっと引いた。


「おねえさまは、どなたかと踊られるんですか?」


「殿下と一曲だけね。婚約者の義務みたいなものよ」


「……そうですか」


 ほんの一瞬、彼女の笑顔がすっと消えた気がした。けれど瞬きをしたときには、いつもの柔らかな微笑みに戻っていた。気のせいだろう。


 事件は、その少しあとに起きた。


 庭園の池のほとりで、リーディアが青ざめて立ち尽くしていた。そばには、くすくす笑う令嬢たち。


「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって」


 水面に、細い鎖が沈んでいくのが見えた。リーディアが肌身離さず身につけている、亡き母の形見のペンダントだ。


 考えるより先に、体が動いていた。


 私はドレスの裾をたくし上げ、ざぶざぶと池に踏みこんだ。悲鳴が上がる。水は腰の高さまであって、泥がぬるりと靴に絡みついた。


「お、おねえさま!?」


 手探りで水底の泥をかき分ける。髪まで泥だらけになった頃、指先に硬い感触が触れた。


「あった!」


 ずぶ濡れのまま岸に戻り、ペンダントを妹の手のひらにのせる。それから、呆然とする令嬢たちに向き直った。


「手が滑ったのなら仕方ないわね。次からは、お気をつけあそばせ」


 とどめに極上の悪役令嬢スマイルを浮かべると、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「おねえさま、ドレスが……髪も、泥だらけで……」


「いいのよ、このくらい大したことないわ。それより、大事なものが無事でよかった」


 笑ってみせると、リーディアは何も言わずに私を見つめていた。ペンダントを両手で胸に抱きしめ、頬を真っ赤に染めて。


 そのとき妹の瞳に灯った熱の意味を、私はまだ知らなかった。



 ***



 建国記念の夜会。原作で、エディットが断罪される夜だ。


 王宮の大広間にはシャンデリアがきらめき、楽団が華やかなワルツを奏でている。私は壁際でグラスを握りしめ、ひたすら息を殺していた。


 大丈夫。妹は虐げていない。むしろ溺愛している。断罪される理由なんて、どこにもない――はず。


「エディット」


 背後からの声に、肩が跳ねた。振り返ると、金糸の礼装に身を包んだ婚約者、第二王子のアルベール殿下が立っていた。


 原作では、この直後に殿下が高らかに宣言するのだ。「エディット・ノーティス、貴様との婚約を破棄する!」と。


「少し、話をしてもいいだろうか」


 殿下は私をバルコニーへ誘った。夜風が火照った頬を冷やす。私は覚悟を決めて、言葉を待った。


「婚約を、解消させてほしい」


 来た。でも、口調が穏やかすぎる。


「実は……想う人がいる。隣国の第二王女だ。君には申し訳ないと思っている。だが君も、私に恋をしていたわけではないだろう?」


 図星だった。三年間、妹の世話に夢中で、婚約者のことなどほとんど考えていなかった。


「ええ。どうか、お幸せに」


 心からそう言うと、殿下は安堵したように笑った。


 それから、ふと思い出したように付け加える。


「そうだ。隣国の王女との縁を取り持ってくれたのは、君の妹君なんだ。……礼を伝えておいてくれ」


「リーディアが?」


「ああ。以前から茶会などで気を利かせてくれてね。何度か話す機会まで作ってくれた」


 殿下は照れくさそうに頬を掻いた。


「よくできた妹君だ。君のことを、本当に大切に思っているんだろう」


「……ええ、そうですね」


 笑って返しながら、胸の奥に小さな違和感が残った。


 大広間に戻ると、夜会は何事もなく続いていた。誰も私を糾弾しない。衛兵も来ない。断罪イベントは、影も形もなかった。


 処刑は、回避できたのだ。


「おねえさま!」


 人波をかき分けて、リーディアが駆け寄ってくる。淡い若草色のドレスが、ふわりと揺れた。


「殿下と、何のお話を?」


「婚約を解消することになったの。円満にね」


 告げた瞬間、リーディアの緑の瞳が、きらりと光った気がした。


「……そうですか。それは、とても、とても残念でしたね」


 言葉とは裏腹に、その唇は美しい弧を描いていた。



 ***



 その夜。屋敷に戻って寝間着に着替えたところで、控えめなノックが響いた。


「おねえさま、まだ起きていらっしゃいますか?」


 扉を開けると、リーディアが枕を抱えて立っていた。薄い夜着に、ショールを一枚羽織っただけの姿で。


「今夜は、一緒に眠ってもいいですか? 昔みたいに」


 屋敷に来たばかりの頃、雷の夜に何度かそうしたことがある。断る理由が見つからず、私は彼女を招き入れた。


 ベッドの端に並んで腰かける。蝋燭の灯りが、金の髪を蜂蜜色に染めていた。


「今日は、お疲れさまでした」


「あなたもね。たくさん踊って疲れたでしょう」


「いいえ。おねえさまと踊れなかったことのほうが、ずっと心残りです」


 リーディアがそっと身を寄せてくる。肩に頭が乗り、甘い花の香りが鼻をくすぐった。


 ここまでは、いつものことだ。


 けれど今夜は、彼女の指が私の指の間に、ゆっくりと滑りこんできた。一本ずつ、確かめるように絡められていく。


「おねえさま……」


 見上げてくる緑の瞳が、熱っぽく潤んでいた。


 心臓が、どくんと跳ねる。嫌な音なのか、そうでないのか、自分でもよくわからない。


「リ、リーディア? 少し、近くない?」


「三年前、おねえさまは私の手を握ってくださいました」


 リーディアは絡めた手を持ち上げ、私の手の甲に、そっと唇を寄せた。触れるか触れないかの、羽のような口づけ。


「誰も私を見てくれなかったあの家で、おねえさまだけが。あの日から、ずっと、おねえさまは私の一番大切な人でした」


「そ、それは姉妹として、よね?」


「最初は、そうでした。でも……いつからか、それだけでは足りなくなってしまったんです」


 囁きと一緒に、柔らかな唇が頬をかすめた。耳たぶに、熱い吐息がかかる。


「殿下との婚約がなくなった今、もう我慢する理由はありませんよね?」


 ――あかん。


 甘やかし過ぎた。完全に、甘やかし過ぎた。


 原作のフラグを全部へし折った結果、立ってはいけないフラグが一本、天高くそびえ立っている。


 ゆっくりと体重をかけられ、私の背がシーツに沈みかけた、そのとき。


「リーディア、待って!」


 私は彼女の両肩を掴んで、ぎりぎりのところで押しとどめた。


「わ、私たち、姉妹なのよ? それに、こういうことには、その、順番というものが……!」


 必死の声に、リーディアはぱちりと瞬きをした。それから、花がほころぶように笑う。


「順番、ですね。わかりました」


 彼女は身を起こすと、私の前髪をそっとかき上げて、額に小さな口づけを落とした。


「では今夜は、ここまでにしてさしあげます」


 ほっと息をついたのも束の間、耳元で甘い声が続く。


「でも、覚えておいてくださいね。おねえさまがどなたかに嫁ぐなんて、私、絶対に許しませんから」


 そう言ってリーディアは私の隣に潜りこみ、満足げに目を閉じた。私の手は、しっかりと握られたままだ。


 やがて、穏やかな寝息が聞こえてくる。


 私は天井を見上げて、火照った頬を冷ますように息を吐いた。


 処刑は回避できた。それは間違いない。


 けれど、ほんのりと――いや、わりとはっきり、貞操の危険を感じている。


 そして何より厄介なのは、絡められたこの指先を、どうしても振りほどく気になれない自分がいることだった。


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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