神鼠の大王は猫を愛せない―感情のない少年大王と雪猫のピクニックー
『神鼠の大王は猫を愛せない』の関連短編です。
本編第Ⅰ章の合間にあった、シリウス十三歳・リヒト十六歳の小さな一幕です。
本編未読でもお読みいただけますが、時系列は本編序盤にあたります。
私は執事モレル――シリウス様のご誕生前から大神殿でお仕えしております。
大晦日の夜、リヒト様が大神殿にいらしてから2か月ほど……
庭園を雪が真っ白に覆う寒さでも、
私たちの心には暖かな火が灯っております。
***
朝、お支度をなさるシリウス様に本日の予定を申し上げます。
シリウス様は表情一つ動かさず、聞き終わると短く「分かった。」とおっしゃる。
いつものことです。
しかし、最近は、シリウス様の視線が動くことがあります。
――リヒト様と会う予定がない日です。
お顔は動かさず、視線だけがチラリと私の手元のメモに滑ります。
少しだけ唇を噛んで、それからポツリとおっしゃいます。
「明日の予定も聞かせてくれ。」
次の日の予定を聞く、などということは、リヒト様がいらっしゃるまで全くありませんでした。
私は、シリウス様が何をお聞きになりたいか、密かに感じ取っております。
メモをめくって申し上げます。
「明日は――」
シリウス様が息を止めている空気がします。
「リヒト様とご朝食の後……」
シリウス様は黙っておられますが、ほんの少し、肩が動きます。
聞き終わると、やはり無表情で、しかし、ほんの少し目の中に柔らかい光を灯して、
「行こう。」
とおっしゃるのです。
***
しかし、その週は、シリウス様の予定が立て込んだり、リヒト様がお風邪を召したり、
色々と重なって、何日もお会いになれませんでした。
本日も、リヒト様とのご面会予定はありません。
私は、予定を申し上げることが辛くてなりません。
もう、聞かれていない明日の予定を申し上げようと決意したときです。
「モレル……」
急にシリウス様がお呼びになります。
「あのひ……」
シリウス様のお支度を手伝っているヤンが妙な咳をして私を横目で見ます。
「あの……ひ……とは……」
そのまま少しうつむいてしまいました。
ヤンはもう目をひん剥いて私を見ます。
でも、私は聞く体勢をとったままです。
シリウス様のお話し中に話すことは主義に反します。
何より――シリウス様ご自身に、乗り越えていただきたいのです。
「はい。」
私は静かに促します。
シリウス様は唇を噛みしめたり、手を握りしめたり――
緊張で空気が張り詰めるようです。
ヤンは既に、後ろで祈りを捧げ始めています。
「リ…リヒト……さんは……」
私もヤンも顔が上気して参ります。
あと一歩です、シリウス様!
「――どう、してる、んだ?」
私は、もうシリウス様をお待たせできません。
「はい、リヒト様はすっかりお風邪も良くなられ、
昨日から図書館のお仕事も精力的になさっています。
これまでの講義の復習や今度提出予定の課題などにも取り組んでおられます。」
一息で言う私。
「――そうか。」
「明日のリヒト様ですが、特にご予定はありません。」
「分かった。」
分かっていません!
「――明日は、シリウス様にもご予定がございません。」
私はしっかりとシリウス様に向き直りました。
「リヒト様は庭園をよくお散歩になりますが、
ディモイゼでしか咲かない【雪猫】をご覧になったことがないそうです。
――今、大神殿の裏のMt. Bookでは雪猫が満開です。」
シリウス様は黙ったまま、私を見つめます。
私の意図を計りかねておられるのです。
「ああ、ちょうど昨日…!」
急にヤンが大きな声を出します。
「リヒト様が『一度でいいから雪猫を見てみたい』とお話しでした。そうだな、シモン?」
「ええ、それはもう。こんな寒い時期に咲く花を是非研究…見てみたいと!」
二人は猛然と私に視線を投げます。
頷くと私は、意を決してシリウス様に申し上げました。
「明日、リヒト様とお二人で、Mt.Bookに雪猫を見に行かれたらどうでしょう?」
シリウス様は、眉一つ動かさず、硝子のように澄んだ眼差しで私を見つめます。
「それは、明日の【予定】なのか?」
『よッ…?』
ヤンとシモンが何か言いかけて、お互いでお互いを制します。
私は答えあぐねながらも絞り出します。
「予定……ということにいたしましょう……」
「分かった。」
話は済んだとばかりに動き出すシリウス様を、私は制しました。
「今すぐ、リヒト様をお誘いください。」
「―?」
「明日、Mt.Bookに行きましょうと、リヒト様にお声がけするのです。
本日は、早朝から、リヒト様は図書館の作業をしておられますから。」
「僕が?」
「はい、シリウス様が、です。
次のご予定の前に、今すぐ、リヒト様にお会いください。」
一瞬我々を見回したシリウス様は、
「すぐに戻ろう。」
とおっしゃるなり、風のように出て行かれました。
******
フ――――……私は、大きく息を吐いた。
今度行われる、この図書館創立二百年の行事の準備で、
早朝から働きづめだった私は、吐息と共に仰向けに転がった。
天井まで届く書棚。
古めかしい本の香りが心地いい。
私は目を閉じた。
何日もシリウスに会っていない。
庭園の東屋で、巻き尺で距離を測った日が夢のよう。
――いや、夢なのだ。
シリウスは大王――いずれ、夢見ることすらできなくなるのだ――
――夢見る……ことすら……
「無防備なんですね。」
ギョッと目を開けると、星のように輝くアクアマリンの瞳が、私を覗き込んでいる。
「シリ……!!!」
叫びかけて、ここが図書館だということに気付く。
「……ウス……!どうして……」
私は急いでシリウスと距離をとる。
でも、胸の鼓動が激しい――久しぶりに会うと、猫族の本能が強まるのだろうか。
それとも……
「明日、Mt.Bookに行きましょう。」
私は驚いた。
「エェ?そんな山があるの?」
「あります。」
「シリウスも?」
「その「予定」とのことです。」
「エェ!?」
私はいよいよ驚いた。
「大変なんだ……」
「それほどでもありません。
――リヒトさんは大丈夫ですか。」
「ええ、もちろん。そんな山に――頑張る!」
シリウスはスラリと立ち上がった。
通路を大きく塞ぐ本棚を少し触ると、「これ、移動させましょうか。」と静かに言う。
「でも、重いから、中身を全部出して皆で運ぼうと……」
シリウスはひょいと本棚を持ち上げる。
「どこですか。」
「あ……この角に……」
シリウスは音も立てずに本棚を置くと、
「では、明日」と銀色の髪をそよがせて去って行った。
私は、シリウスが運んだ本棚を押したり引いたりしたが、
ピクリとも動かなかった。
******
翌日、Mt.Bookに繋がる通用門のところに行くと、
ちょうどリヒトさんもやってきた。
丘程度の裏山とはいえ、冬の外出には軽装のように見える。
モレルが話しかける。
「リヒト様、お寒くはありませんか。」
「いいえ、これから作業すれば、暑くなると思うので……」
「作業……」
モレルがもの言いたげな横目で僕をじろりと見る。
「はい、たくさんの本があるんですよね?」
リヒトさんは寒いのか、腕を抱えて飛び跳ねるようにしている。
――僕は状況を理解した。
「リヒトさん、Mt.Bookは大神殿の裏山です。
――僕と二人でそこに行く、ということです。」
「エッ!?本の山があるのかと……」
リヒトさんはモジモジと縮こまってしまった。
僕はどうすればいいか、分からない。
モレルが助け船を出す。
「リヒト様、Mt.Bookには雪猫がたくさん咲いているのです。
それは見事ですよ。」
「雪猫ですか?ワァ!嬉しいです!!」
そこへヤンが走ってきて、
「リヒト様、暖かいお召し物です。」
と言うなり、僕に渡した。
僕が彼らを見やると、ヤンとシモンが、リヒトさんに『着せろ』と必死に仕草で示している。
僕はリヒトさんに近づくと、コートの袖を通してあげる。
リヒトさんは、耳たぶにも血が通っているのだな、とまじまじと見つめる。
しかし、リヒトさんは急いで僕から離れてしまった。
「でも……二人だけだと……危険です。」
夕日色の目が、救いを求めるように潤んでいる。
僕は――そのとき、ビクリと心臓が動いたのを感じた。
これが何かの感情なのか、そうでないのかは分からなかったが、
――気付けば、僕は、自分から喋っていた。
「大丈夫です。少し離れて歩きましょう。
外ですから、僕も逃げやすい。
様子がおかしくなれば、途中でも帰りましょう。
鎮静剤も持って行きましょう。
――ああ、それに、ファリアが弁当を作ってくれました。」
僕がちらりと後ろを見ると、控えていたファリアが肩掛けの大きな袋を僕に渡す。
「心を……心を込めて作りました!
雪猫をご覧になりながら召し上がると、それはもう、頬も心も蕩けるような……」
ファリアは祈るような声で言う。
リヒトさんは、メイドから鎮静剤や手袋、耳当てを受け取ると、小さく頷いた。
僕の心臓は、またビクリと高鳴った。
――僕たちは、裏山へ続く通用門を出て、ぽつり……ぽつりと歩き出した。
***
サクサクと音を立てて、【本の山】を登る。
リヒトさんは慎重に距離を取っているのか、彼女の足音は遠い。
思わず振り返って、僕の心臓はまたもビクリとした。
リヒトさんが、ふかふかの耳当てとマフラーを着けていたのだ。
僕はすぐに視線を前に向けたが、ふと思いついて、
岐路のところで、険しい方に足を向けた。
***
藪をかき分け、靴で枯葉や枝を踏みつけて道を作る。
足元からパリパリと乾いた冬の森の音、後ろからはリヒトさんの呼吸が聞こえる。
「しんどいですか。」
「だ……大丈夫!
――山登りなんて、久しぶり!!」
リヒトさんは僕を振り仰ぐと、息を切らしながら満面の笑みを浮かべた。
一瞬――
僕の目に、大晦日に僕に襲い掛かったリヒトさんの黒い影が走り抜けた。
僕は――僕は――
「シリウス?」
訝しそうなリヒトさんの声。
僕は黙って首を振った。
木々の重なりがほどけ、少し空が見える空間に来た。
「――ちょっとした段があるので気を付けてください。」
僕は飛び降りる。
追いついたリヒトさんが声を上げる。
「段じゃなくて、崖じゃない!!!」
今度は僕がリヒトさんを振り仰ぐ。
「猫は!登るのはいいけど、降りるのは苦手なんだよ!」
しゃがんで、怖気づいたように僕を覗くリヒトさん。
――僕は、迷わず手を広げた。
「リヒトさん、ここに飛んできてください。」
「シリウスが怪我するよ!!」
「僕は絶対に大丈夫です。
だから、飛んできてください。」
リヒトさんは立ち上がったが、
僕を見つめたまま、凍り付いている。
僕は一歩前に出た。
「リヒトさん……猫さん、
――こっち……こっちに来い!!」
ひらりと飛び上がったリヒトさんが、
木々の枝に切り取られた青空を背景に、僕に向かって舞い降りる。
一瞬が永遠のように、その姿が目に焼き付けられる。
僕は、僕の両腕に、一瞬、
確かにリヒトさんを受け止めた。
が、リヒトさんは、次の瞬間には僕から離れていた。
僕は力なく両腕を下ろしたが、
リヒトさんの弾んだ声が響く。
「本当だ!本の山だ!!!」
僕は崖の方を見やって説明する。
「ええ。この地層の重なりから名づけられました。」
「――私、本の山があって、てっきり運んだり仕分けしたりするんだと思って……」
リヒトさんが照れ笑いしている。
僕たちは再び歩き始めた。
「僕の説明が足らなかったんです。
――リヒトさん、ここです。」
僕は、森の先を指差した。
リヒトさんは僕の脇を通り抜けて、立ち止まった。
「ワァァ……」
目線の先には一面、満開の雪猫。
青空を映して青く煌めいたり、
日光を反射してオレンジ色に輝いたり――
恐らく、僕でなければ、「素晴らしい」「美しい」と感激する光景なのだろう。
でも、僕は――――
リヒトさんはやおら走り出して、雪猫の近くでしゃがみ込み、
触ったり、つまんだり、覗き込んだりしている。
「ああ!悔しいなぁ!!」
「え?……悔しい?」
僕は「驚いた」。
リヒトさんは振り返らずに、雪猫を熱心に覗き込みながら言う。
「エェ?悔しい、だよ。
このディモイゼの、冬の寒さと乾燥が雪猫に適してるわけでしょう。
だって、雪猫のがく片が一番上等なガラスの原料になるのに、
エクウスじゃ育たないから……」
僕はそっとリヒトさんに近づく。
――彼女が逃げないように、そっと。
「エクウスは南部気候でしょ?だから――」
リヒトさんはようやく振り返って、アッと叫んでしりもちをつく。
僕が、リヒトさんを後ろから覗き込んでいたのだ。
慌ててリヒトさんは、四つん這いで離れようとする。
僕は「離れます!」と急いで言うと、飛びずさった。
僕たちは顔を見合わせたが、リヒトさんは吹き出した。
「変なピクニックだね!」
僕の心が、ふわりと浮き上がる。
「リヒトさん、弁当を食べましょう。
残したら、ファリアが泣いてしまう。」
リヒトさんはまたしても吹き出した。
「大丈夫だよ!ファリアさんの料理はどれも最高!
それに――私、お腹ペコペコ!!」
***
それから僕たちは、少し離れて、
一面に広がる雪猫を見ながら、弁当を食べた。
リヒトさんは声を上げる。
「ファリアさんの言う通りだね。
雪猫を見ながら食べると……美味しい……」
「ええ……」
僕は、空や日の光を受けて煌めく雪猫と、
弁当を頬張るリヒトさんをそっと見て、すぐに目を落とした。
この人は――僕の感情再生計画が終われば、
ここから飛び去ってしまう。
リヒトさんは忘れるだろう。
――僕と見た一面の雪猫
――僕と食べた弁当の味
――僕と歩いた雪山の道
――僕の腕に、一瞬でも、飛び込んだこと
記憶を司る神鼠の僕は忘れなくても、
彼女は、忘れるだろう。
ふと視線を感じて、リヒトさんを見る。
リヒトさんは、空になった弁当箱を僕に見せて、
自慢げに笑っていたのだった。
***
帰りは、険しくない道で戻る。
冬の日が、離れて歩く僕たちの影を長く伸ばす。
ふと、レディをエスコートするときは適切にお話ししましょう、
とロベルトに言われていたことを思い出す。
僕は話題の端緒を雪猫に見つける。
「雪猫は、夕焼けのとき、リヒトさんの目のようになります。」
「エェ?――じゃあ、一面、猫族がいるみたいになるの?
――神鼠の大神殿の裏山で?」
後ろを歩くリヒトさんの声が笑っている。
「【雪猫】の名前の由来です。
――二百年前に建立された猫天神は、
夕日色の雪猫のガラスで造られています。」
「ゴテスベルクの?――まさか、本当に夕日の色を閉じ込めているのかなぁ?」
生き生きとしているリヒトさんの声に、
僕は思わず、立ち止まって振り返った。
リヒトさんの上気した顔は、フカフカした耳当てとマフラーにくるまれている。
――そんな彼女を真っすぐ見られない僕は、目を逸らして空を見上げた。
「もしそうなら――夢のような話ですね。」
「夢の――」
僕はまた歩き出した。
遅れてリヒトさんの足音もする。
しばらく、サクサクという足音だけが聞こえる。
「――夢なら、空の色も閉じ込められるね。」
何気ないような、小さなリヒトさんの声は、
僕の喉元から入って、胸に重く沁みとおっていった。
……
***
大神殿の通用門が見通せる場所に着くと、
今か今かと待っていた大王付きたちが、
僕たちを目にして、互いに抱き合っている姿が見える。
――ピクニックが終わるときが来た。
今、リヒトさんは、どんな顔をしているのだろう。
でも、感情のない僕は、彼女を振り返らなかったし――
――この胸のざわめきに、踏み込もうともしなかったのだ。
雪猫の花が終わった春、
彼女がここを去る、
そのときまで。
お読みいただきありがとうございました。
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