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白き梟、夜に嗤う  作者: 烏翅詠
第一章 帰還
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昔話 上海での出来事〜そのニ〜

「失礼します」


沈玲シェン・リンは扉の前で一瞬だけ呼吸を整え、音を立てすぎないようにゆっくりとドアノブを回した。重厚な木製の扉がわずかに軋みながら開き、室内の空気が外へと流れ出る。


部屋の奥では、一人の男が机に向かい、静かに書類へ視線を落としていた。


噬龍会ぜいりゅうかい総帥、龍 岳山ロン・ユエシャン


白髪混じりの黒髪を無造作にかき上げ、細い目は紙面の上を滑るように動いている。仕立ての良いスーツは皺ひとつなく体に沿い、その佇まいには無駄がない。怒鳴ることはない。声も大きくない。だが、その場にいるだけで空気を支配するような静かな圧があった。


沈玲シェン・リンは一歩中へ入り、扉を静かに閉めると、軽く会釈をした。


その気配に、龍 岳山ロン・ユエシャンはペンを止める。


ゆっくりと顔を上げ、かけていた眼鏡を外して机に置いた。


「来たか」


低く、短い一言だった。


沈玲シェン・リンは数歩進み、机の前で止まる。


背筋を伸ばし、視線をわずかに落とした。


「はい」


余計な言葉はない。


岳山ロン・ユエシャン沈玲シェン・リンを一瞥し、すぐに本題へ入る。


「それで、どうだった」


問いは簡潔だったが、その裏にはすべてを見通すような重みがあった。


沈玲シェン・リンは間を置かずに答える。


「やはり、孫 志豪スン・ジーハオでした」


空気がわずかに変わる。


だが、龍 岳山ロン・ユエシャンの表情はほとんど動かない。


「なるほどな」


それだけ言うと、机の上に置かれていた煙草へと手を伸ばした。一本を抜き取り、口に咥える。


沈玲シェン・リンはそれを見て、すぐに一歩前へ出た。


ポケットからライターを取り出し、慣れた手つきで火を灯す。


小さな炎が揺れ、煙草の先端に橙色の火が移る。


岳山ロン・ユエシャンは一度だけ煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


白い煙が、静かに空中へと溶けていく。


その一連の動作は、長年染みついた習慣のように無駄がなかった。


「志豪とその部下は処理しました」


沈玲シェン・リンは続ける。


「ただ……」


わずかに言葉を区切る。


岳山ロン・ユエシャンは何も言わず、次の言葉を待つ。


「情報の流出先については、特定には至っておりません」


沈黙が落ち、時計の音すら聞こえない。

ただ、煙がゆっくりと天井へ昇っていく。

岳山ロン・ユエシャンは二度、三度と煙を燻らせた後、ようやく口を開いた。


「大体の見当はついている」


沈玲シェン・リンの視線が、ほんのわずかに上がる。


「本当ですか」


「ああ」


短い肯定、そして、その後にわずかな間があった。

煙を吐きながら続ける。


「……ただ、当たっていれば厄介だ」


指先でこめかみを軽くかく。

思考の癖のような仕草だった。

沈玲シェン・リンは一歩踏み込む。


「お許しをいただけるのであれば、私が処理いたします」


その声には迷いがない。

岳山ロン・ユエシャンは答えない。

ゆっくりと立ち上がると、机を離れ、部屋の中央に置かれた古びたソファへ向かった。

長く使われているのか、革はところどころ擦れて色が薄くなっている。

そのまま腰を下ろし、背もたれに体を預ける。


「……座れ」


沈玲シェン・リンは一礼し、対面へと回り込む。

言われた通りに腰を下ろすが、背筋は崩さない。

岳山ロン・ユエシャンは天井を見上げたまま、ぽつりと呟く。


「俺の見立てではな」


沈玲シェン・リンは黙って聞く。


「内通者は一人じゃない」


その言葉に、部屋の空気がわずかに重くなる。


「志豪はその一人に過ぎない」


沈玲シェン・リンは何も言わない。


ただ、その言葉を受け止める。


「だから、この件はお前に任せる」


沈玲シェン・リンは小さく頷いた。


「承知いたしました」


短く、しかし確かな意思を込めて答える。

岳山ロン・ユエシャンはしばらく沈黙したまま、天井を見つめていた。


やがて。


「……すまない」


不意に、そう言った。

沈玲シェン・リンの目がわずかに細くなる。


「大丈夫です。私はあなたに救われた身です。ですから——」


「いや」


言葉が遮られる。

岳山ロン・ユエシャンは視線を動かさないまま続ける。


「そういう話じゃない」


沈玲シェン・リンはほんのわずかに首を傾ける。

数秒の沈黙、そして、空気が奇妙に緩む。

岳山ロン・ユエシャンは、ほんのわずかに顔を歪めた。


「……また、やった」


沈玲シェン・リンは一瞬だけ思考を止める。


「……?」


岳山ロン・ユエシャンはゆっくりと息を吐いた。


「腰だ」


短く言う。


「さっき、変な体勢で座ってな」


沈玲シェン・リンはその言葉の意味を数秒かけて整理する。


「……ギックリ、ですか」


確認するように言った。


「ああ」


岳山ロン・ユエシャンは、極めて真面目な顔で頷いた。

そのあまりにも場違いな真剣さが、逆に異様だった。

沈玲シェン・リンは視線をわずかに落とす。

そして、小さく。


「……はぁ」


ため息とも取れる声を漏らす。

だが、それ以上は崩さない。

すぐに整える。


「湿布をお持ちしますか」


「頼む」


間髪入れずに返ってくる。

沈玲シェン・リンは立ち上がる。


一礼。


「すぐに」


踵を返し、扉へ向かい、その足取りは変わらない。

規則的で、無駄がない。

だが、扉に手をかける直前。

ほんの一瞬だけ。

沈玲シェン・リンの口元が、わずかに緩んだ。

誰にも見えない角度で。

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