第三話 普通の朝食?
廊下は、思っていた以上に古びていた。
沈玲はナースの後ろを歩きながら、足裏に伝わる軋みを確かめるように進む。板張りの床は長年の使用でわずかに湾曲しており、踏む位置によって音の高さが微妙に変わる。その変化が、静かな朝の空気の中で妙に耳についた。
壁は何度も塗り直されているらしく、白の下から古い色がにじんでいる。剥がれかけた部分には、過去に貼られていたであろう紙の跡が残り、端が黒く変色していた。天井の蛍光灯は一本だけ規則性のない点滅を繰り返し、そのたびに廊下の影がわずかに揺れる。
空気はひんやりとして、わずかに湿っている。
その奥から、食器の触れ合う乾いた音と、小さな話し声が流れてきた。味噌と焼き魚の匂いが、ゆっくりと廊下に広がっている。
「ここか」
沈玲が短く言う。
前を歩く女は振り返らず、肩越しに軽く答えた。
「そ。夢と希望あふれる高級物件」
沈玲は何も返さない。ただ視線だけで、扉の配置、窓の位置、逃げ道になり得る空間をなぞる。
古いが、捨てられてはいない。人の手が入っている形跡が、ところどころに残っていた。
その時、ナースが引き戸を開けた。
木の擦れる音が、静かな空気を裂く。
「おはよー」
軽い声が室内へ流れ込む。
中は食堂だった。
広くはないが、いくつかのテーブルが並べられ、それぞれに違う形の椅子が置かれている。窓から差し込む朝の光が、埃を淡く浮かび上がらせ、空間に柔らかな輪郭を与えていた。
台所の方では、小さな鍋がまだ火にかけられており、湯気が細く立ち上っている。味噌汁の匂いは、具材の出汁と混ざり、少し甘く、少し塩気を含んだ温かい空気を作っていた。焼き魚の皮が軽く焦げる匂いも残っており、炊きたての米の蒸気と重なって、朝という時間をはっきりと形にしている。
テーブルの上には、白い茶碗と木の箸、少し欠けた縁の皿が並び、どれも長く使われてきたことを示していた。布巾が一枚、雑に置かれている。
そして、その中にいる人間たちが、ゆるやかに沈玲へ視線を向けた。
沈玲はそれを受け止める。
警戒ではない。ただ、新しいものに対する自然な関心。
少女が一言だけ口を開く。
「……誰?」
短い問いだった。
隣に座る少年が、箸を持つ手を止める。視線だけを向け、沈玲を測るように見る。
沈玲はほんの一瞬だけ、その手元に視線を落とす。
節の張り方。皮膚の擦れ。動きの無駄のなさ。
日常的に同じ動作を繰り返している人間の手だったが、それが何かまでは断定しない。
視線を戻す。
少年は何も言わず、ただ状況を見ている。
「昨日拾った」
ナースが何気なく言う。
少女が少しだけ顔をしかめる。
「拾ったって……」
「渋谷に落ちてたの。そのまま放っておいたら死にそうだったしね」
味噌汁をすすりながら、気軽に続け、それ以上は誰も突っ込まない。少年は「これだから朝倉さんは……」と首を振って、呆れた表情を見せた。少女も小さく息をつき、少年に何かを小声で言う。少年が短く返す。内容は聞き取れないが、それはただの日常の延長のようだった。
(この女は朝倉と言うのか)
その空気の中で、別の声がゆるやかに差し込む。
「いいですね、その導入」
男が言った。
いつの間にかテーブルの端に座っていた男は、顎に手を当て、どこか楽しそうに沈玲を見ている。くるくるとした髪が無造作に広がり、白髪が混じっている。丸縁の眼鏡の奥の目が、妙に生き生きとしていた。
「朝、扉が開いて、見知らぬ人物が現れる。しかも“拾われた”ときた。情報の提示としては雑だが、だからこそ想像の余地がある」
男は指で机を軽く叩く。
「この人物が何者なのか。外から来たのか、それとも内側に潜り込んだのか。物語としては後者の方が面白い」
一度言葉を切り、くすりと笑う。
「さて、あなたはどちら側の人間ですか?」
沈玲は訳がわからず答えなかった。
ただ数秒、その男を見る。
観察されている。
だが、それ以上の意図はまだ見えない。
ナースが箸で机を軽く叩いた。
「はいはい、語りは後にして。座れば?」
沈玲は無言で椅子に腰を下ろす。
その動きに合わせるように、台所の奥から足音が近づいてきた。
「あら、新しい子?」
エプロン姿の女が現れる。
三十代前半ほどの年齢で、整った顔立ちをしているが、髪は少し乱れ、袖口に薄く水の跡が残っていた。額にかかる前髪を軽く払う仕草が、どこか慣れた動きに見える。
「この下宿の大家の藤原優香です」
柔らかく微笑む。
その声は穏やかだったが、ほんのわずかに掠れている。
沈玲は何も言わず、その動きを目で追う。
大家は手早く茶碗を置き、味噌汁をよそい、湯気の立つまま沈玲の前に並べる。指先に、ほんの少しだけ赤みが残っていた。熱いものを扱っていたのだろう。
「とりあえず、食べていって」
それだけ言って、また台所へ戻る。
沈玲は目の前の食事を見下ろす。
白い米は艶があり、粒が立っている。焼き魚は皮が軽く裂け、脂がわずかに滲んでいる。味噌汁には豆腐とわかめが浮かび、表面に細かい油の輪が揺れていた。
湯気がゆっくりと立ち上り、空気に溶けていく。
沈玲は箸を取り、静かに食べ始める。
口に入れた瞬間、温度と味が体に落ちていく。
塩気は強すぎず、出汁がしっかりと出ている。
(……悪くない)
周囲では、食事の音が淡々と続いている。
箸が茶碗に触れる音。味噌汁をすする音。椅子がわずかに軋む音。
誰かが小さく笑い、誰かが短く返す。
すべてが、強く主張することなく、ただそこにある。
沈玲は何も言わず、その中に身を置く。
少女が何かを言い、少年が短く返す。内容は断片的にしか入ってこないが、それで十分だった。
それは特別な会話ではなく、ただの朝の一部に過ぎない。
小説家の男が、再び小さく呟く。
「いいですね……生活音」
誰に向けたものでもない声だった。
「事件よりも、こういうところに真実が滲む」
指で空をなぞるように動かす。
「静かな場面ほど、人は油断する。だから、見える」
沈玲はそれを聞き流す。
視線をゆっくりと動かす。
全員が自然に振る舞っている。
誰も、過剰に何かを隠しているようには見えない。
(……普通だ)
だが、その印象がわずかに引っかかる。
沈玲は味噌汁をもう一口飲む。
その温度が、体の奥へ落ちていく。
(……普通すぎる)
理由は分からない。
だが、違和感だけが残る。
沈玲はそれを追わない。
ただ、意識の端に置く。
それだけでいい。
ナースが横から覗き込む。
「どう?」
軽く聞く。
「うまい?」
沈玲は短く答える。
「食える」
それだけだった。
ナースは一瞬だけ目を細め、すぐに小さく笑う。
「はいはい」
軽く流す。
そのやり取りも、すぐに空気の中へ溶けていく。
沈玲は再び箸を動かす。
この場所の、自然な朝の一部として。
何事もないように、そこにいる。
まだ何も知らないまま。
ここに集まった人間たちのことも。
この場所が持つ意味も。
何一つ知らないまま――
ただ、静かに食事を続けていた。




