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白き梟、夜に嗤う  作者: 烏翅詠
第一章 帰還
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第二話 目覚め

(……重い)


最初に感じたのは、それだった。

呼吸がわずかに制限されるような、鈍い圧迫感。

柔らかいのに、どこか不快で、じわじわと意識を現実へ引き戻してくる。

沈玲シェンリンは、ゆっくりと意識を浮上させた。

瞼の裏に、ぼんやりとした光が滲む。


(……近い)


何かが、異様に近い。

鼻先に触れる布の感触と、かすかに残る洗剤の匂い。

それに混じる、人の体温。

沈玲シェンリンはわずかに眉をひそめた。


(なんだ、これは?)


ゆっくりと目を開ける。

視界いっぱいに広がったのは――人の脚だった。

おそらく膝から下。

白い肌に、ラフに折り曲げられたジャージの裾。

その脚が、遠慮なく自分の顔の上に乗っている。

沈玲シェンリンは数秒、無言でそれを見つめた。

そしてゆっくりと視線を動かす。

脚の先――その延長線上にあるはずの上半身は、視界に入らない。

どうやら自分と相手は、上下が逆の体勢で寝ているらしい。

つまり、顔は見えない。

だが、それでも拾える情報はある。


足首の細さ。

筋肉の付き方。

肌の質感。

わずかに残る香り。

それに、この部屋の様子。

床に散らばる衣類や、生活用品の種類。

沈玲シェンリンはわずかに目を細めた。


(……女性か)


断定ではない。

だが、十分に確度の高い推測だった。

沈玲シェンリンはそのまま視線を外し、周囲を見回す。

天井は低く、白いはずの壁はところどころ黄ばんでいる。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

その光の中で、室内の様子が少しずつ見えてくる。


床には脱ぎ捨てられた衣類。

空のペットボトル。

コンビニの袋。

医療用らしきパッケージや、開けかけの薬箱。

机の上には、飲みかけのコーヒーと散らばった書類。


整頓されているとは言い難いが、完全な無秩序でもない。

忙しさの中で放置された生活の痕跡。


(医療関係……か)


視線を真正面の天井に戻す。

状況はほぼ整理できた。


路地で倒れた。

誰かに拾われた。

ここに運ばれた。

そして今――顔の上に脚を乗せられている。


沈玲シェンリンは小さく息を吐いた。


(……合理性はないな)


ゆっくりと手を持ち上げ、その脚を軽く押す。


「……どけ」


反応はない。


むしろ、わずかに体重が乗る。

沈玲シェンリンの表情がほんの少しだけ歪む。


(最悪だな)


数秒、沈黙した後、もう一度、今度は少しだけ強く押す。


「……んー……」


女が小さく声を漏らした。

だが体勢は変わらず、無防備に眠り続けている。

沈玲シェンリンは一瞬だけ目を細めた。


(起きないか)


右手がゆっくりと額へ上がりかける。


――止まる。


(……そこまでじゃない)


思考を深く回す必要はない。

単純な問題だ。

沈玲シェンリンは無言で上体を起こした。

その動きに引きずられるように、脚がずり落ち、女は「ん……」と小さく声を漏らした。

そして、今度は完全に沈玲シェンリンへ背を向けたまま、床に近い位置で丸くなる。


「……うるさ……」


寝ぼけた声だった。


沈玲シェンリンはそれを無視して立ち上がる。


ゆっくりと周囲を見回す。


玄関の位置。

窓の高さ。

出口までの距離。

危険物の有無。


(問題ない)


最後に、もう一度だけ女を見る。

椅子に引っかかるように白衣が掛けられている。

無造作に脱ぎ捨てられたものだ。


(医療従事者)


ほぼ確定。

昨夜、路地で声をかけてきた人物の記憶が、ゆっくりと繋がる。


(……拾われたな)


その時。

女が片目だけ半分開けた。

ぼんやりとした視線が、沈玲シェンリンを捉える。


数秒の沈黙。

そして――


「……あ、生きてた」


間の抜けた声だった。


沈玲シェンリンは何も言わない。

女はゆっくりと体を起こし、髪をかき上げる。

寝癖だらけだった。


「ふぁぁ〜、いやぁ、途中で死ぬかと思ったわ」


あくび混じりに言う。


「運ぶのめんどかったし」


沈玲シェンリンは無言で見つめる。

女はその視線に気づいて、にやりと笑った。


「なに、その顔」


少し楽しそうに言う。


「助けてもらったくせに、感謝とかない感じ?」


沈玲シェンリンは日本語で短く答えた。


「ない」


即答だった。

女は一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。


「はは、いいね。そういうの嫌いじゃない」


そう言って立ち上がる。


軽く伸びをして、振り返る。


「とりあえずさ――」


ラフな口調のまま続けた。


「生きてるなら、飯くらい食う?」


その言葉に、沈玲シェンリンはほんのわずかに目を細めた。


(……悪くない提案だ)


沈玲シェンリンはゆっくりと息を吐き、そして静かに言った。


「……借りは作らない主義だ」


女は肩をすくめる。


「じゃあ、あとで返しな」


軽い調子だった。

その言葉の意味がどこまで本気なのかは分からない。

だが、この言葉は後々、沈玲シェンリンにとって厄介なことになる。



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