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白き梟、夜に嗤う  作者: 烏翅詠
第一章 帰還
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昔話 上海での出来事〜その一〜

      

       ―とある上海の地下―


 地下室には窓がなかった。


 湿ったコンクリートの壁には、長い年月をかけて染み込んだ水の跡がまだらに広がり、天井から吊るされた裸電球がかすかに揺れるたび、その影がゆっくりと壁を這うように動いている。

 どこかで水が滴っていた。 

 ぽた、ぽた、と単調な音が静まり返った空間に落ち、重たい空気の底に沈んでいく。

 部屋の中央には古びた金属椅子が置かれ、そこに一人の男が縛り付けられていた。

 顔は大きく腫れ上がり、唇は裂け、乾いた血が顎に黒くこびりついている。

 呼吸するたび、喉の奥から擦れるような音が漏れ、胸は浅く上下していた。

 しかし男の視線は、自分の体でも床でもなく――扉に向けられていた。

 まるで誰かが入ってくるのを恐れているかのように。

 あるいは、来るはずの誰かを待っているかのように。

 男の正面、壁際に置かれた椅子に、一人の青年が右手のひらで瞼を押さえ、静かに腰掛けていた。

 地下室には他にも数人の男たちが立っていたが、誰も口を開こうとはしなかった。

 青年が考えているときは、口を挟むべきではない。

 それはこの場にいる全員が理解していることだった。

 やがて青年はゆっくりと瞼から手を下ろして目をわずかに開いた。


「もう一度聞く」


 声は静かだった。

 怒りも威圧もない、落ち着いた声。

 しかしその言葉が落ちた瞬間、椅子に縛られた男の肩がぴくりと動く。


「誰の指示で情報を流した?」


 沈黙が落ちる。

 男の喉がわずかに動くが、口は開かない。

 青年は少しだけ視線を落とし、男の表情を観察し、ゆっくり息を吐く。


「正直に言う」


 静かな声だった。


「あの情報がどこへ流れようと、組織にとって致命的な損害にはならない」


 地下室の空気がわずかに揺れる。

 青年は続けた。


「だが、それでも問題なんだ」


 椅子に縛られた男の肩が一瞬、震える。


「人身売買のクソどもから、助け出した子供たちを安全な場所へ移したばかりだった」


 青年の声は穏やかだったが、地下室の空気は確実に冷えていく。


「なのに、またそこへ抗争の火が飛び込んだ」


 視線が捕虜へ落ちる。


「お前が売った情報のせいだ」


 男の呼吸が荒くなるが、口は開かない。

 その様子を見ながら、青年は小さく息を吐いた。

 妙だ、と心の中で呟く。男の反応は、ただ拷問に耐えている人間のそれとは違う。


――むしろ、何か別のものを恐れている?


 その時だった。

 地下室の扉が乱暴に開き、金属がぶつかる音が響く。

 黒いスーツの男が二人、そしてその後ろから青いスーツの男がゆっくりと入ってきた。

 組織の幹部の一人、孫志豪スンジーハオだった。

 志豪ジーハオは部屋を一瞥すると、軽く鼻で笑う。


「まだ吐かないのか」


 気だるそうな声だった。


「時間の無駄だろ」


 そして椅子に座る青年へ目を向ける。


「もう始末しろよ、沈玲シェンリン


 その瞬間を青年……沈玲シェンリンは見逃さなかった。

 椅子に縛られた男の視線が志豪ジーハオへ跳ねた。肩の筋肉が強張る。呼吸が浅くなる。瞳孔がわずかに開く。条件反射に近い恐怖だった。

 数秒の沈黙

 地下室には水滴の音だけが落ちる。

 やがて沈玲シェンリンはゆっくりと右手を持ち上げた。

 指先が額に触れ、そのまま手のひらで瞼を覆う。

 地下室の空気が静まり返る。

 やがて小さな声が漏れた。


「……ほう」


 思考が回り始めた。

 沈玲シェンリンは手を下ろしてゆっくり立ち上がり、志豪ジーハオの前まで歩いて静かに言った。


「情報を誰に渡した?」


 志豪ジーハオの眉が動く。


「何の話だ?」


 沈玲シェンリンは捕虜を見て、それから静かに言った。


「妙だと思っていた」


 地下室の空気が張り詰める。


「この情報は命を懸けて守るようなものじゃない。それでもこいつは口を閉じている」


 沈玲シェンリンはゆっくり言葉を続ける。


「理由は二つ」


 指を一本立てる。


「忠誠」


 そして、もう一本。


「恐怖」


 志豪ジーハオは黙っている。


 沈玲シェンリンは捕虜を見た。


「だが、どんなに痛めつけても、この男の恐怖は俺に向かない。大したものだ」


 沈玲シェンリン志豪ジーハオの顔を覗きこんだ。


「扉を見ていた」


 沈玲シェンリンの声は落ち着いていた。


「誰かが来るのを待っていた」


 志豪ジーハオは沈黙しているが、明らかに目に動揺の色が写っている。


「おそらく」


 沈玲シェンリンは言葉を選ぶように続ける。


「この男を黙らせている人間を」


 志豪ジーハオの表情がわずかに固まる。

 沈玲シェンリンは歩きながら続けた。


「この尋問を知っているのは幹部だけだ」


 そして少し考えるように視線を地面に落とす。


「もし、その幹部が自分の名前が出ることを恐れるなら……」


 志豪ジーハオの周りをゆっくりと歩きながら、沈玲シェンリンは続ける。


「様子を見に来る可能性があるな」


 沈玲シェンリン志豪ジーハオの後ろで立ち止まった。


「ただの推測だが、面白いことに、最初に来たのはお前だった」


 志豪ジーハオの顔が歪む。


「くだらない推理だ!」


 怒鳴り声が地下室に響く。


「そんなもので俺を疑うのか!」


 志豪ジーハオは勢いよく振り返った。


「違う」


 青年は静かに首を傾けた。


「さっきまで疑っていたが、今、確信した」


 孫志豪ジーハオの顔から、先ほどまで浮かんでいた薄い笑みがゆっくりと消えていく。その代わりに現れたのは、隠しきれない苛立ちだった。


「……何を言っている。そもそも証拠はあるのか?」


 低く吐き捨てるような志豪ジーハオ声が落ちる。

 沈玲シェンリンは答えない。ただ静かに志豪ジーハオを見つめたまま、ゆっくりと歩き出す。靴底が湿ったコンクリートを擦る音が、やけに大きく響いた。


「証拠?そんなものは必要ない」


 志豪ジーハオの目が鋭く細まり、沈玲シェンリンは淡々と続けた。


「この男は、お前を見て震えた」


 椅子に縛られた男の肩がびくりと動く。


「痛みに慣れた人間の震えじゃない。条件反射だ」


 沈玲シェンリンは捕虜の横を通り過ぎ、その背後に立った。男の呼吸は荒く、体は恐怖で小刻みに震えている。


「長い時間をかけて作ったんだろう」


 沈玲シェンリンの声は静かだった。


「恐怖で支配された人形を」


 志豪ジーハオの顔が歪む。


「……黙れ」


 しかし沈玲シェンリンは構わない。


「だから口を開かない。お前に逆らうという発想そのものが、もう残っていないからだ。だから、『始末しろ』という言葉にあそこまで怯えた」


 そう言うと、ゆっくりと顔を上げた。

 地下室の空気がさらに張り詰める。

 志豪ジーハオは舌打ちした。

 次の瞬間、怒鳴り声が地下室に響いた。


「仮にそうだとして、だからなんだよ!」


 声がコンクリートの壁に反響する。


「ただのガキの情報だ!金になるなら売るに決まってる!」


 志豪ジーハオは唾を飛ばしながら叫んだ。


「俺は組織のためにやったんだ!」


 沈玲シェンリンの表情は変わらない。しかし、目は志豪ジーハオをしっかりと捉えていた。


「組織のため?」


 その言葉を静かに繰り返し、ゆっくりと首を振る。


「違う」


 銀色の瞳が志豪ジーハオを射抜く。


「お前は自分の利益のために動いた」


 志豪ジーハオの拳が震えた。

 沈玲シェンリンはゆっくりと歩き、志豪ジーハオの前で止まる。

 二人の距離はほんの数歩しかない。そして、胸元から銃を取り出した。


「俺は裏社会の人間だ。だから、お前の気持ちも理解できる」


「待ってくれ、本当に俺は……」


 その言葉を言い切る前に、銃声が地下室に響いた。乾いた音がコンクリートに反射する。

 孫志豪ジーハオの体がゆっくりと崩れ落ち、青いスーツが血に染まっていく。

 沈玲シェンリンはしばらくその場に立っていた。やがてゆっくりと振り返る。

 椅子に縛られた男が、震えながら沈玲シェンリンを見上げていた。恐怖と絶望、そしてわずかな安堵が入り混じった目だった。

 沈玲シェンリンはその目を静かに見下ろす。


「……勘違いするな」


 男の顔から血の気が引く。沈玲シェンリンは銃をゆっくり持ち上げた。


「お前も同じだ」


 次の瞬間、二度目の銃声が地下室に響いた。男の体が椅子の上で力を失い、ぐったりと垂れる。地下室は再び静寂に包まれた。

 沈玲シェンリンはその場にいた部下にこの場の処理を任かせ、返り血がついたまま地下室を後にした。

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