第一話 夜中の渋谷
―東京の夜は、全てがうるさかった。
―渋谷スクランブル交差点―
沈玲は、人の波の中を歩いていた。
誰かのスニーカーがアスファルトを叩く乾いた音。
酒に酔って高揚した群衆の笑い声と怒鳴り声。巨大なスクリーンから漏れる音楽。
苛立った男の視線、嘘の笑顔を浮かべる女、酔った学生、スマートフォンに夢中な会社員。
人の波が押し寄せるたび、情報が洪水のように頭へ流れ込む。
「……太多了」
脳が暴走しかける。胸の奥がざわつき、吐き気が込み上げた。
信号が点滅を始める。
群衆は一斉に歩く速度を上げ、視界に入る光景が急加速する。
すべてが玲の脳をさらに刺激した。
突如、視界が揺れる。
頭の奥で、鈍い痛みがじわじわと広がっていく。
その時、肩が誰かにぶつかった。
「すみません」
声が聞こえたが、玲には返す余裕すらなかった。
信号が赤に変わる直前、なんとか交差点を渡りきる。
次の瞬間、膝がガクッと折れ、冷たいアスファルトに手をついた。
「……这里……是地狱吗?」
荒い呼吸を整えながら、玲はゆっくり立ち上がろうとする。
その時、ふと違和感に気づいた。
もしや、と思い、肩に手をやる。
――ない。
「……包不见了。」
玲は交差点を離れ、比較的静かな路地へと逃げ込んだ。
壁にもたれながら座り込み、空っぽの肩にもう一度手をやる。
黒いナイロンのショルダーバッグ。
上海のボスから渡された紹介状、現金、必要最低限の荷物。
この街で生きるためのすべてが、その中に入っていた。
それが今、跡形もなく消えている。
怒りより先に、笑いが込み上げた。
「……はは」
スリに遭うなど、人生で一度もなかった。
上海でも、日本でも。
だが――やられた。
玲はゆっくり立ち上がり、夜空を見上げた。
「我一定会把你找出来……让你后悔的。」
その言葉を吐き捨てた瞬間、堰を切ったように罵詈雑言が口から溢れ出した。
中国語で頭の中に浮かぶ言葉が、次々と外へ吐き出されていく。
気づけば、さっきまで嫌っていた渋谷の酔っ払いと同じことをしていた。
「……くそ」
空腹と頭痛で、視界が霞む。
玲は壁にもたれたまま、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面に表示された時刻は、午前一時。
普段なら、もう四時間は眠っているはずの時間だった。その事実を認識した瞬間――急激な睡魔が襲ってきた。
玲の体は、そのまま横へと崩れ落ちる。
(日本なんて……二度と来るものか)
心の中でそう吐き捨てながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
その時。
―コツ、コツ。
誰かのスニーカーの軽い足音が、静かな路地に近づいてきていた。
「……ちょっと」
若い女の声だった。
渋谷の喧騒から少し離れた路地。
街灯の白い光が、濡れたアスファルトを鈍く照らしている。
「え、なにこれ。死体?」
スニーカーの足音が止まった。
コンビニの袋がかさりと揺れる音。
女は少し身をかがめ、地面に倒れている玲を覗き込む。
数秒の沈黙。
「……いや、生きてるわ。よかった」
ほっとしたような、少し呆れた声。
「つーか、なにこのイケメン。渋谷って路地にイケメン落ちてんの?」
夜勤明けなのか、白衣のポケットから聴診器の先が覗いていた。
片手にはコンビニのコーヒー。
玲の意識はもうほとんど残っていない。
ぼやけた視界の中で、街灯を背にした白い影がゆっくりしゃがみ込む。
「ねぇ、聞こえてる?銀髪くん」
女は玲の顔を覗き込み、指先で頬をつついた。
「おーい」
反応はない。
「……ま、いいや」
女は小さく息をつく。
少しだけ空を見上げ、周囲を見回した。
深夜の路地には、人の気配はほとんどない。
「とりあえず、うち来る?」
もちろん返事はない。
玲は完全に意識を失っていた。
女はしばらくその顔を眺めていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「……聞いても意味ないか」
そう言うと、玲の腕を自分の肩に回そうとする。
ずしり、と体重が乗った。
「うわ、重っ」
思わず顔をしかめる。
「ちょっと銀髪くん。見た目細いくせに、なんでこんな重いの」
ぐらり、と体を揺らしてみる。
「おーい。起きて。ここ路地。寝る場所じゃない」
当然、反応はない。
女はため息をついた。
「はぁ……これだから夜勤明けは嫌なのよ」
だが、その時だった。
「……ん?」
ふと、手が止まる。
玲の手首を掴んだまま、女は首をかしげた。
指先を少しずらし、脈を測る。
数秒。
「……あれ?」
もう一度測る。
「なにこれ」
倒れている人間とは思えないほど、脈が落ち着いている。
女は眉をひそめた。
「普通さ、倒れてたらもっと乱れるでしょ」
玲の顔をもう一度覗き込む。
銀色の髪。
整った顔立ち。
だが、どこか妙に落ち着いた雰囲気があった。
「……酔ってるわけでもなさそうだし」
女はしばらく考えたあと、肩をすくめる。
「まぁいいか」
ぐい、と玲の腕を持ち上げる。
「死なれたら後味悪いし」
玲の腕を自分の肩に回し、体を引き起こす。
「よいしょ……」
ふらつきながらも立ち上がった。
「うわ、本当に重い……」
玲の足が引きずられる。
女は少し歩きながらぼやいた。
「あとで請求するからね、これ」
路地の奥に向かって歩き出す。
夜の空気は少し湿っていて、遠くから渋谷のざわめきが聞こえてくる。
その時。
「……水」
かすれた声がした。
女は足を止める。
「え?」
肩に寄りかかっている玲が、ほんの少しだけ目を開けていた。
「水……」
女は目を丸くする。
「うわ、喋った」
少しだけ玲の顔を覗き込む。
「銀髪くん、生きてたんだ」
玲はぼんやりとした視線で彼女を見る。
「……ここは」
「渋谷の路地」
即答だった。
「あと私は通りすがりの善人」
女は少し笑う。
「で、今からあなたを拾って帰る予定の人」
玲は数秒その言葉を処理するように黙り込んだ。
そして、小さく呟く。
「……誘拐か」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「違うわ!」
女はツッコんだ。
「善意!善意だから!」
玲はまた意識を手放しかけながら、ぼそりと言った。
「……日本は……変な国だな」
女は呆れた顔で空を見上げた。
「それ、私が言いたいんだけど」
そして肩を揺らす。
「ほら、寝るな銀髪くん。自分で立って。重いんだから」
女は玲を担いでゆっくりと、静かな路地を歩いていった。




