第75章:愛の質量
50年分の感情は、彼にとって致死量の猛毒だった。
愛を知り、罪を知り、天才は人間としてその生涯を閉じる。
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(感情とは、これほどまでに重いものなのか。
人は皆、この鉛を抱えて歩いているというのか。)
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◆【贖罪の記憶】
「はあ……はあ……ッ!」
結城は、実験室の床に突っ伏したまま、脂汗にまみれていた。
「ココア」の記憶による精神的ショックは凄まじかったが、まだ意識は繋がっている。
だが、感情の奔流は止まらない。
次は、彼にとって最も近くて、最も重い記憶領域が開かれた。
『Target:結城 望(旧姓:榊原)』
脳裏に、妻の笑顔が浮かぶ。
かつて結城は、彼女を「研究の理解者」であり「便利な共犯者」としか見ていなかった。
だが、今の結城には、その笑顔の裏にあった「色」が見えてしまう。
(……彼女は、泣いていたのか。)
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記憶の中の望は、いつも微笑んでいた。だが、その瞳の奥は、常に「心を持たない夫」を案じ、身を引き裂かれるような不安に耐えていたのだ。
『あなたの一部になれて……幸せでした』
2年前の遺言。当時の結城は、それを単なるデータとして処理した。
だが今、その言葉の「質量」が、心臓を押し潰す。
自分は彼女に何をした? 記憶を奪い、心を殺し、別の男(新太)の妻としてあてがい、子を産ませた。
なのに、彼女は最期まで自分を責めず、感謝して逝った。
「……望……のぞみ、ッ!! ごめん……ごめん……ッ!!」
結城は床を叩き、獣のように咆哮した。
取り返しがつかない罪の重さに、ただ涙だけが溢れ続ける。
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◆【父としての目覚め】
「……う……ぅ……パパ……?」
隣の控え室から、幼い寝言が聞こえた。
結城は、ふらつく足で立ち上がり、壁伝いに隣室へ向かう。
そこには、小さなベッドで眠る5歳の少年――空人がいた。
彼は、新太(翔真)と沙耶(望)の間に生まれた子供だ。
結城が引き取り、自分の手元で育ててきた。
だが、結城は空人に「効率」と「正解」しか求めてこなかった。泣けば突き放し、甘えれば無視した。
(……私は、何を見ていたんだ。)
月の光に照らされた寝顔は、望によく似ていた。そして、どこか寂しげな眉間は、かつての自分にそっくりだった。
結城は、震える手で空人の頭を撫でた。
温かい。柔らかい。……生きている。
「……すまない、空人。」
初めて、結城の目から大粒の涙がこぼれ落ち、少年の頬を濡らした。
「もっと……抱きしめてやればよかった。……ただの父親として、お前を見てやればよかった。」
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◆【血の遺言】
結城は、空人のベッドサイドにある端末を起動した。
残された時間は少ない。心臓が限界を迎えようとしている。
彼は、震える指で、ある人物へのメッセージを入力し始めた。
『宛先:志 真羽 様』
「……君の勝ちだ、真羽さん。」
結城は、独り言のように呟きながら文字を綴る。
『この子は、空人という。……君の実の弟だ。』
『新太と沙耶の子であり、君と同じ不破翔真の血を引いている。』
結城は、眠る空人を一度だけ振り返った。
自分には、この子を幸せにする資格も、時間もない。
だが、真羽なら。
どんなに辛い運命でも「幸せだ」と言い切れる強さを持つ彼女なら、この子に「愛」を教えられるはずだ。
『私のような、空っぽな人間に育てさせてすまなかった。……どうか、彼を頼む。君たちの家族の温かさで、この子の孤独を溶かしてやってほしい。』
『……これは、命令ではない。最初で最後の、人間としての願いだ。』
送信ボタンを押す。
これで、空人の未来は繋がれた。
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◆【致死量の劇薬】
ラボへ戻る途中、結城は廊下の鏡に映る自分の顔を見た。
涙と脂汗でぐしゃぐしゃになった、ひどく無様な老人の顔。
胸の痛みが、もはや限界を超えている。
(……人は、幼い頃から色々な感情を覚えていく。)
転んで泣いて、おもちゃを取り合って怒って、失恋して落ち込んで。
そうやって、少しずつ心の「免疫」を作りながら、感情という荒波に耐えられるように成長していくのだ。
(だが、私はどうだ。)
50年以上、感情を遮断し、無菌室のような論理の世界で生きてきた。
そんな未熟な心臓に、一生分の悲しみと後悔を一気に流し込んだら、どうなるか。
「……はは、愚かだな。」
大人になってからの感情の流入は、どんな劇薬よりもキツく、重い。
今の結城にとって、それは「生きるための熱」ではなく、心と体を内側から焼き尽くす「猛毒」だった。
耐えられるはずがない。
心が、音を立てて壊れていくのが分かる。
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◆【2062年の静寂】
結城は、メインコンピューターの電源を落とした。
RE:CODEシステムは稼働したままだ。世界はまだ、彼が作った平和の中にある。
それを壊す権利は、もう自分にはない。
あとは、真羽たち残された人間が、選び取っていけばいい。
彼は、椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
心拍モニターが、危険なアラート音を鳴らしている。
だが、不思議と恐怖はなかった。
胸の中には、望への愛、空人への未練、そして両親への追慕が、温かい重りとなって詰まっている。
「……ああ、これが。」
視界が白く霞んでいく。
毒が回りきった最後に、彼が見たのは、春の光に包まれた望の姿だった。
「……人間として死ぬ、ということか。」
2062年、4月未明。
RE:CODEの創造主、結城維人、死亡。
死因は、急性心不全。
あまりにも重すぎた「感情」という荷物に押しつぶされた最期。
だが、発見された彼の遺体は、涙の跡を残しながらも、まるで長い宿題をようやく終えた少年のような、安らかな顔をしていた。
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第75章・完
第75章をお読みいただきありがとうございます。
結城維人の死。
それは感情を知り、愛を知り、人間として迎えた最期でした。
遺された空人、そして託された真羽。
最大の障壁はいなくなりましたが、彼が作った「RE:CODEされた世界」は残っています。
物語はエピローグへ向けて、最後の収束を始めます。
感動した……結城さんお疲れ様……と思っていただけたら、
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