第57章:光の種
罪人は記憶を失い、善人へと生まれ変わった。
その手が救うのは、見知らぬ誰かと、いつかの未来。
⸻
(罪人は忘却の彼方へ。
けれど、その手が蒔いた種だけは、確かに芽吹く。)
⸻
◆【模範的な市民】
ショッピングモールは、穏やかな昼下がりの喧騒に包まれていた。
「新太さん、重くない? 私、半分持つわよ。」
「大丈夫だよ、沙耶。これくらい、なんてことないさ。」
⸻
黒峰新太は、両手に抱えた買い物袋を軽々と持ち上げ、柔和な笑みを浮かべた。
その姿は、どこからどう見ても「妻を労る優しい夫」であり、善良な市民そのものだ。
すれ違う人々が、微笑ましそうに二人を見る。
かつてこの男が、暴力と恐怖で周囲を支配し、誰も逆らえない絶対的な存在として君臨していたことなど、誰も想像すらできない。
本人でさえも、忘れているのだから。
⸻
「あ……。」
ふと、新太が足を止めた。
モールの裏手、搬入口へと続く路地の方から、怒鳴り声と鈍い音が聞こえた気がしたのだ。
「どうしたの?」
「……ちょっと、待っていてくれ。」
新太は買い物袋を沙耶に預けると、吸い寄せられるように路地へと向かった。
⸻
◆【路地裏の少年】
路地の奥では、3人の男たちが、1人の少年を取り囲んで蹴り上げていた。
少年は高校生くらいだろうか。制服は汚れ、口の端から血を流しているが、その目は死んでおらず、ギラギラとした反抗心で男たちを睨み返している。
「生意気なんだよ、ガキが!」
男の一人が、鉄パイプを振り上げた。
⸻
「やめないか!」
新太の声が響いた。
男たちが動きを止め、驚いて振り返る。
「……ああん? なんだおっさん。怪我したくなきゃ失せな。」
男たちが嘲笑いながら近づいてくる。
少年が叫んだ。
「逃げろよアンタ! こいつらマジでヤバいぞ!」
⸻
だが、新太は逃げなかった。
男が鉄パイプをフルスイングした瞬間、新太の体が思考よりも先に動いた。
――ブンッ!
鉄パイプが空を切る。
新太は紙一重でそれを躱すと、男の手首を掴み、ただ「制止」した。
⸻
万力のような握力。
かつて、自分の意に沿わない者を力でねじ伏せ、支配してきた暴力の才能。
それが今、彼の手の中で「制止」という形をとって発現する。
「暴力はいけない。……話し合えば分かるはずだ。」
⸻
残りの二人も殴りかかってきたが、新太は全てを最小限の動きで受け流し、あるいは自らの体を盾にして少年を庇った。
殴られても、蹴られても、新太は決して拳を握り返さなかった。
気味悪がった男たちは、捨て台詞を吐いて逃げていった。
⸻
「……なんでだよ。」
残された少年は、泥だらけになった新太を見て悪態をついた。
「あいつら全員、ボコボコにできたはずだろ!? あんだけ動けるなら、なんで殴り返さねぇんだよ!」
「……殴ったら、彼らと同じになってしまうからね。」
⸻
新太は困ったように笑い、ポケットからハンカチを取り出した。
そして、少年の切れた唇にそっと当てた。
「君もだ。……その強さは、誰かを傷つけるためじゃなく、守るために使うべきだよ。」
少年は、その言葉を反芻した。
荒んだ心に、一滴の雫が落ちたような感覚だった。
⸻
◆【赤い風船】
それから数日後。
新太は、近所の公園のベンチで本を読んでいた。
「うぇぇぇぇん!」
突然、子供の泣き声が響いた。
顔を上げると、大きな木の根元で、7歳くらいの女の子が空を見上げて泣いている。
⸻
新太は本を閉じ、自然と足が向いていた。
「どうしたんだい? お嬢ちゃん。」
「あ、あのね……ふうせん……ひっかかっちゃったの……。」
女の子が指差した先、高い枝に赤い風船が引っかかっている。
大人の背丈でも到底届かない高さだ。
⸻
「なるほど。それは大変だ。」
新太は上着を脱ぐと、軽やかに木の幹に手をかけた。
かつて、他者を圧倒するために鍛え上げられた強靭な肉体。
今は、ただ一人の子供を泣き止ませるためだけに使われる。
スルスルと木を登り、枝先の風船を優しく外す。
⸻
地面に降り立ち、女の子に手渡すと、彼女の顔がパァッと輝いた。
「ありがとう! おじちゃん、すごい! ヒーローみたい!」
「ふふ、ヒーローか。……それは買いかぶりだよ。」
新太は苦笑して、女の子の頭をポンポンと撫でた。
⸻
その手触り。
柔らかい髪の感触が、ふと、新太の胸の奥にある「何か」をざわつかせた。
(……懐かしいな。この感じ。)
自分には子供はいないはずなのに。
なぜか、この高さから子供を見下ろす視界に、強烈な既視感を覚える。
⸻
「……さあ、ママのところへお行き。」
「うん! バイバイ!」
女の子が手を振って駆けていく。
その小さな背中を見送りながら、新太は自分の掌をじっと見つめた。
⸻
◆【名もなき善意】
「あら、新太さん。また人助け?」
買い物帰りの沙耶が通りかかり、微笑ましそうに声をかけた。
「……ああ。体が勝手に動いてしまうんだ。」
⸻
新太は、遠ざかる少女の背中を見つめながら、目を細めた。
「親の言うことをよく聞く、いい子だったよ。」
「ふふ。……新太さんなら、きっといいお父さんになれるわね。」
沙耶は新太の腕に手を回し、幸せそうに寄り添った。
⸻
路地裏で助けた少年。
公園で笑顔にした少女。
彼らは知らない。この優しい男が、かつてどれほどの罪を重ね、家族を傷つけてきたかを。
そして新太自身も知らない。
自分が蒔いたこれらの小さな「善意の種」が、いつか巡り巡って、自分と、自分たちが忘れ去った「家族」を繋ぐ糸になることを。
⸻
新太は、空を見上げた。
雲ひとつない青空が広がっている。
ただ、その眩しさが、なぜか少しだけ目に沁みた。
⸻
第57章・完
第57章をお読みいただきありがとうございます。
記憶を消され、「理想の善人」として生きる新太。
しかし、その身体能力と、心の奥底に残る「誰かを守りたい」という本能は消えていませんでした。
新太さんの笑顔が切ない……と感じた方、続きが気になる方は、
下にある【☆☆☆☆☆】マークからポイント評価や、ブックマーク登録をしていただけると執筆の励みになります!
感想もお待ちしております。




