第35章:偽りの日常
監視カメラの下で繰り返される、模範的な生活。
こぼれた牛乳と少女の微笑みが、完璧な日常に亀裂を入れます。
第35章:偽りの日常
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(この日常は……誰のためにある?)
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2051年。年始。
改訂者専用区域は、無音の静寂に包まれていた。
廊下の天井を這う無数の監視カメラ。
壁面に埋め込まれたバイタルセンサーが、入居者の心拍、脳波、血圧、そしてECHO発現率を、途切れることなく中央管理棟へ送信し続ける。
この区域が建設されたのは、2046年。不破家殺害事件の直後だった。
結城維人が榊原廉也へ進言した。
「“彼ら”は社会の中で管理するには危険すぎます。専用区域を。」
管理しやすい環境と、国民の恐怖心軽減。
この施設は国家の理想と安全の象徴となった。
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区域内部は家族単位の個室棟、医療棟、そして工場棟で構成される。
この施設の運営は税金ではなく、工場棟での売上によって賄われていた。
義務教育は廃止され、全てタブレット遠隔授業へ置き換わった。
子どもたちは教師と教室を知らず、生活空間から一歩も出ずに成長していく。
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◆ 【黒峰家 – 新年】
6畳ほどの簡素なリビングに、安価な正月飾りと白味噌雑煮の湯気が漂っていた。
黒峰新太は、月陽とカルタをしていた。
「はい、“いぬも歩けば”……!」
「“ぼうにあたる!”」
月陽が笑顔で読み札を取る。
新太も微笑み返した。
(……ああ……俺は……黒峰 新太。妻と娘がいて……これが、日常……だよな……?)
幾度ものメンテナンスを経て、彼の意識は黒峰新太として安定していた。
過去への違和感は、思考の奥底に閉じ込められていた。
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◆ 【区域内放送】
その時、壁面スピーカーから無機質な女性AI音声が流れた。
「おはようございます。本日も社会復帰プログラムを遵守してください。」
新太は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに視線をカルタへ戻した。
(……プログラム……?)
小さな違和感が波紋のように広がり、すぐに消えた。
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◆ 【朝食 – 違和感】
ある朝のことだった。
月陽が、牛乳をコップに注ごうとした。
しかし手が震え、白い液体がテーブルに零れ落ちる。
「月陽……ちゃんと注がないと。」
新太が優しく注意する。
その瞬間、月陽は慌てて手を引き、今度は自分のコップを倒してしまった。
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「月陽!」
鋭い声が響いた。
沙耶が立ち上がり、冷たい視線を娘に突き刺す。
「パパの言うことを、ちゃんと聞きなさい!」
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月陽は怯えた瞳で母を見上げ、しかしすぐに微笑み直した。
「私はね、パパの言うこと何でもきくね。ママも言うこと聞ける?」
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その言葉を聞いた瞬間、
新太の頭の奥に、誰かの声が響いた。
(まだ小さいんだから……全部をちゃんとするのは無理よ……)
柔らかく、優しく、
しかし胸を鋭くえぐる声。
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沙耶は険しい表情で月陽を見下ろした。
(……この子も、この人も。完璧であってくれればいい……それだけで……)
唇を震わせ、奥歯で噛み締めた。
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「月陽、濡れた服を着替えてきなさい。」
「……はい。」
小さな背中がリビングを出て行く。
新太は、こぼれた牛乳を見つめていた。
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◆ 【灯と月陽 – 幻影の母】
数日後。
ナースステーション廊下を歩いていた灯に、月陽が駆け寄ってきた。
「ともりお姉さん、おはよう。」
「おはよう、月陽ちゃん。」
月陽はクレヨンを握りしめ、小さく笑った。
「この前もね、ママの絵描いてたんだ。……ママはね――」
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「月陽。」
冷たく鋭い声が割り込んだ。
沙耶が背後に立っていた。
「もう診察の時間よ。行きなさい。」
「……うん。」
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月陽は振り返り、灯に微笑む。
しかしその笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。
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◆ 【灯の心情】
月陽が去った後、灯は廊下の壁に手をつき、静かに目を閉じた。
(ママを……光生さんを……思い出して……でも、それは……この子から“家族”を奪うことにも……)
(でも……このまま……奪われたままでいいはずない……)
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◆ 【灯の決意】
(この日常は偽物。でも、この子の笑顔だけは……本物にしないと。)
作戦実行まで、あと2ヶ月。
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第35章・完
お読みいただきありがとうございます。
2051年、改訂者専用区域。
外の世界を知らない月陽は、「パパの言うことを聞く」というルールを完璧に守ることで、この歪んだ世界に適応しようとしていました。
新太の脳裏によぎった優しい声(光生の記憶)と、沙耶の冷徹な監視。
偽りの平穏が限界を迎えつつあることが感じられます。
作戦決行まであと2ヶ月。
灯の決意も固まり、いよいよ物語はクライマックスへと向かいます。
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