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ホクロ

作者: 相木あづ

 時計は既に、日付が変わってから一時間くらいたったことを示していた。幼いころに埋め込まれた生活リズムは、所詮お仕着せのものに過ぎなかったのだ。その証拠に、それはひとり暮らしを始めてすぐに崩壊した。夜中の一時二時という時間は現実と夢の混ざり合った正体不明の混沌として毎晩そこに存在し、私はその中で強烈な眠気と戦いながら、虚構の世界に溺れていた。今日なされるべきだった大切な何かが、まだなされていない。今日なすべきだった何かを、私はまだ成し遂げていない。このまま布団に潜って今日を終わらせてはいけない。そういう穏やかな強迫観念に、私は慢性的に怯えていた。

 そのとき、一条の光が降り注ぎ、胸の奥に熱が広がった。

 机は、まるで私の心を象徴しているかのようにわけのわからない紙束で埋もれていたが、わけのわからないなりにも整理された一画があって、大切なものは、無造作にではあるが、そこに立てることにしていた。例えば、一週間ばかり前に発売された一冊の雑誌。発売以来毎日眺めているその雑誌を、無造作の中から見つけ出すのに苦労はしなかった。私の指がその雑誌に触れた瞬間、降り注いだ光はいよいよ強まり、眩しいばかりになって、指先は燃えるように熱くなった。しかし、それは一瞬のことで、光の去ったあとの闇はより深く、熱の通り過ぎた指先は凍ったように冷たかった。その落胆を意識的に無視し、床に雑誌を拡げて、しばらくページをめくった。ここ一瞬間、飽きるほど眺めた写真たちだった。

 ページいっぱいに、厚く化粧をした少女が写っている。その白すぎる顔の輪郭を指でなぞった。澄んだ輝きを放つ瞳、白く柔らかそうな頬、撮影用に固められた長いまつ毛、艶やかな黒髪。カメラで切り取られた少女の一瞬が、細部まで克明に刻まれていた。しかし、少女の口元のあたりを何度も触ってみた。そうしたところで何が起きるわけでもないが、他にどうしていいかわからなかった。そこにあるべきはずのものがないのだ。その不完全さが、私に言いようのない不安をもたらす原因のような気がした。

 私は、机の混沌の中の無造作に整理された大切な一画から、一冊のアルバムを取り出して雑誌の隣に開いた。入っている写真は、いわゆる生写真というもので、五枚が千円。それが安いのか高いのか、もはや私は知らない。ただ、新しいシリーズが売られるたびに、買わずにはいられないのだった。ただし、他のメンバーとランダムに混ざっているから、必ず彼女の写真が手に入るわけではない。総計十五組、一万五千円分買って、彼女の写真はたったの四枚だった(確率からするとこの数字は結構運が悪い)。そこには、雑誌よりもっとナチュラルな化粧の、もっと自然な笑顔が写っていた。

 彼女のアジア人として相応の色素を持った白い肌をなぞり、ひとつ、ふたつと私は数えた。彼女のホクロを数えた。口元のホクロは小さくて見えにくいが、確かに双子になっていて、それらはひとつずつ、しっかり別々に数えた。他には、左の目元にひとつ、右の頬の上にひとつ、右の顎の下の方にひとつ、あと、この写真の角度では見えないけれど、左の頬の耳に近い場所にもうひとつあるはずだった。

 それなのに、雑誌の写真ではっきりと確認できるのは、右の頬の上のひとつだけだ。他のホクロは化粧の下に埋められ、一見しただけではホクロなのか、何かの影なのか、印刷のむらなのか、見極めることができなかった。ホクロの影をすべて探すのに、アルバムと雑誌を何度も見比べなければならなかった。左の目元にひとつ、右の頬の上にひとつ、右の顎の下にひとつ、左の頬の耳に近い場所にひとつ。口元のふたつだけが、どんなにページをめくっても見つからない。その小さなふたつは、化粧に完全に塗りつぶされてしまっていた。


 次の日、私は寝坊した。必修科目の試験の日だった。しかし、どうせ教授の話す宇宙語は一言も理解できていなかったのだ。試験なんて受けても受けなくても結果は分かりきっていた。いつもよりも時間をかけて朝食を用意し、朝のワイドショーを観た。誰からも嫌われないタレントが、誰からも嫌われない冗談を飛ばし、それは私の頭をまっすぐに通過していった。そのとき確かに私は笑ったけれど、次の瞬間にはなぜ笑ったのかわからない。今朝の彼の言葉を試験にして出されたら、きっと何も答えられない。

 それでも結局、学校を休んではいけないという、幼いころに刻み込まれ、今ではすっかり形骸化してしまった強迫観念に押し出されて家を出たのは、試験の開始時刻を過ぎてからだった。大学まで徒歩十数分の間、試験に遅刻することに対してあまり焦りはなかった。教授にヘコヘコと頭を下げて、席に座り、試験が終わるまで宇宙語の問題と白紙の答案を眺めているつもりだった。しかし、正門の前までやってくると、その無駄としか思えない行動に対して強烈な拒絶が沸き上がり、その強力な感情に私の脚は完全に支配され、まったく動かなくなってしまった。私は門の前で途方に暮れていた。私をここまで連れて来た強迫観念が、私を教室に向かわせようと、拒絶と戦っていた。

 私はその互角の戦いを一分ほど眺めて、大学には行かないことにした。腕時計を見ると、丁度いい時間だった。拒絶と強迫観念とはあっさりと停戦し、私の脚は主である私に従順に、正門に背を向けて歩きだした。

 しばらく早足で歩いて、近くの大型ショッピングモールに向かった。もっと多くの人が集まっているのだろうと思っていたが、モールの中はいつも通りだった。同じ敷地のどこかに、アイドルが来ているという感じはなかった。時計を見ると、ライブの予定時刻まで十分を切っていた。きっと、ファンはイベント広場に集まっているのだろう。私は、モールの二階にテラスのようなスペースがあり、そこから広場の様子を眺めることができるのを知っていた。広場には向かわず、そのテラスに直行した。

 テラスは思っていたよりもすいていた。ステージの正面こそファンのおじさんたちで埋められているが、正面にこだわらなければ、ライブ開始五分前だというのに、息苦しさを感じることなく余裕に観覧場所を確保できた。手すりにもたれて下の広場を見下ろすと、集まっていたのは四十人くらいで、こちらもやはり、思っていたよりもすいていた。青々とした人工芝と人々の頭を眺めながら、雑誌の彼女と、彼女たちのライブのことを考えた。彼女たちのライブのときは、この倍のスペースに、この倍以上の人たちがあふれていたのだ。勝手に湧いてきた優越感を、私はどうしていいかわからなかった。

 午後二時ちょうどに、ファンの拍手に迎えられて、女の子たちがステージの上に現れた。彼女たちのライブを観るのはこれが初めてだったが、顔と名前は把握していたし、それぞれの声質もだいたいは知っていて、私はアヤネというメンバーを結構気に入っていた。

 しかし、どうやら私はアヤネさんに嫌われたらしい。ライブ中、あまりこちらを見てくれなかった。たまに見ても、全然目を合わせてくれなかった。実際は、そんなことを判別できる距離ではなかった気もするが、二階の高いところから、手すりにもたれてじっと冷たい視線でステージを見下ろしているような客は、私だって嫌いだ。好きになれという方が無理な話だった。

 代わりに、他のあるメンバーが、よく私に笑いかけてくれた。けれど、どう応えればいいのかわからなかった。彼女を見ながら、手すりをつかむ手の左右を入れ替えた。彼女は満足したように頷いて、私から視線を外し、また別の客に笑顔を向けていた。

 ライブの後は、CDを買った客を対象のツーショット撮影会があった。アヤネさんとツーショットを撮るつもりで、私は迷うことなくCDを買った。でも、本当は、私を嫌っているかもしれない彼女より、たくさんレスをくれたあの子と撮るのが良いのかもしれない。手にした特典券をもてあそびながら、テラスと広場を結ぶ階段に一人で座った。周りには、同じように一人で座っているおじさんもいたが、私の同年代のファンはみんな、何人かのグループになって楽しそうに話し込んでいた。

 私の目の前に座っていたのは、三人の若い男と、一人の若い女というグループだった。男の一人が熱心なファンで、後の三人は彼に連れられてきたようだ。

「みんな誰と撮るの?」

 女が聞いた。

「一番可愛いのはアヤネちゃんだよね」

 男の一人が言い、もう一人の男が同意した。女は、興味深そうに聞いている。普段、男は女性の前で女性の容姿の話はしない。それくらいのことは私も知っていた。

 ファンの男が口を挟んだ。

「でも、実際会ってみたら何か違うということもあり得る」

 残りの三人が、その男の方を見た。私もつられて見てしまった。すると、男は大げさな動作で話題を他のメンバーのことに変えた。

 それから十分後、私はアヤネさんの列に並んでいた。考えてみれば変なことだ。大好きな推しのライブに行く決心をするまでには半年かかったし、特典会までにはさらに半年以上かかったのだ。なのに、今日初めてのアイドルの特典会に、それも私を嫌っている気がするアイドルの特典会に、その日のうちに並んでいる。

 いよいよ、私とアヤネさんとの距離は一メートルほどに縮まった。スタッフに特典券と撮影用のスマホを預け、私はアヤネさんの隣に立った。

 はたして、彼女は「実際会ってみたら何か違って」いた。

それは、ホクロだった。数多くのホクロだった。丁寧に化粧の下に埋められていたが、彼女は間違いなく、人並み以上に多くのホクロを持っていた。毎晩雑誌のホクロを数えている私は、いわば、化粧に埋もれたホクロの専門家だった。専門家の見解に間違いはない。私は彼女のホクロを数えるのに夢中になった。右目の下に三つ、左目の下に四つ、鼻の頭にひとつ、口元右上にひとつ、左下にひとつ・・・。それらは、遠くから見たのでは決してわからなかった。ネットの写真でもわからなかった。それは、存在を消されたホクロたちだった。

「どうしたん?」

 一瞬、彼女の言葉を理解できず、何を返すべきかもわからなかった。

「お化粧、きれいですね」

 自分の顔が赤くなるのがわかった。

「なんや、面白いな! 好きになってまうやん! ありがとう!」

 その関西弁も何かが違う気がした。そもそも、彼女は埼玉出身のはずだった。

「撮りますよ」

 スタッフの無機質な声が告げた。

 返されたスマホを見ると、そこにホクロたちの姿はなかった。真っ白な肌があるだけだった。拡大してみても、曖昧な色の塊がまだらに見えるだけで、それが本当にホクロだったのか、たまたまそう見えただけなのか、全く自信がなくなってしまった。私は途方に暮れて、例の階段に腰を下ろした。

 広場に置かれた木製のテーブルに、親子連れの家族が集まって休んでいた。金髪の若い母親と、絵本のゴリラのように丸く大きな父親、食べかけのクレープを持った幼稚園くらいの男の子がテーブルを囲んで座り、ちょっと過激な髪型の、小学生らしい二人がテーブルの周りを無邪気に走り回っていた。

「ちょっと見てよ」

 金髪の母親が笑いながら言った。見ると、どうしてそうなったのか、男の子の目の下にポツンと溶けたチョコがついていた。「ホクロみたいだ」父親はゲラゲラ笑いながら、ティッシュで彼の顔を拭こうとした。母親はそれを手で制止し、自分で男の子の口元を拭いた。口元だけを拭いた。目の下は拭かなかった。そして、スマホで写真を撮った。上の子供たちが集まり、スマホを覗いて笑った。

 穏やかな平日の夕方、私は階段にひとりで座っていた。特典会はすでに終わり、ファンたちの姿はなくなっていた。

 空を見上げると、乳白色の重たい雲がすべてを覆っていた。


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