このまっしろな世界はどこまでも続いていく
――闇の中でもがき跪く私を見てほしい。
あなたを喪ったその日から、この世界は色を喪った。
『このまっしろな世界はどこまでも続いていく』/未来屋 環
「おはよう、今日もいい天気ね」
ごみ捨てに向かう途中で、2軒隣に住んでいる前田さんに声をかけられた。おはようございますと挨拶を返した私に、前田さんがにこやかな笑顔を見せる。
その笑顔を見て、私は今日も自分がきちんと笑えていることに気が付いた。
――時は過ぎていく。淡々と、それでいて確実に。
ふたりで毒にも薬にもならない話をしながら歩く。TVで見た芸能人の話、近所のスーパーの値上げの話、どこそこのお嬢さんのだれそれちゃんが大きくなったとか、なんとか。
「最近は随分と暖かくなったわね。もう春もすぐそこみたい」
そうですね、という私の合いの手に、前田さんが何かに気付いたようにこちらを振り返った。
「そういえば、あなたがこの街に来たのも、春だったっけ。あれからどのくらい経つかしら」
目の前のごみ捨て場にごみをぽんと置いて。
それから、私は前田さんに笑顔を見せる。
「――もう、5年になります」
***
「僕はいつか、君より先に大地に溶けていく。そうなったら、君は新しく好きなひとを見付けるといい」
そう言って、私より多く歳を重ねたあなたは穏やかに笑った。
「冗談でもそんなことを言うのはやめてよ。縁起でもない」
「まぁ、そう怒らないでくれよ。男性と女性には平均寿命に6歳程の差がある。同い年でもそうだというのに、ましてや僕と君との間にはそれ以上に年齢の隔たりがあるんだ。普通に考えれば、それが自然の摂理だろう」
「それにしたって、無神経な発言だと思うけど」
「仕方ないじゃないか。だって――僕は、いつでも誰かを一心に想う君が好きなんだ」
私は窓際で佇むあなたに視線を向ける。あなたの背後からは優しい陽の光が射していた。
「願わくばその対象が僕であってほしいけれど――僕がいない世界だったらしょうがない。天国に行けるかはわからないけれど、僕は恋する君を見つめながら、のんびりと君が来てくれるのを待つよ」
口を尖らせて黙る私の肩に手を置いて、あなたは続ける。その表情に、すこし困ったような笑みを浮かべながら。
「ただ、その時にはもう、君に相手にされないかも知れないな」
「――そうね。きっと、若い綺麗な男の子と情熱的な恋に落ちているかも」
それは寂しいと言いながらも、あなたはあたたかく笑った。休みの日でも欠かさない整髪料の香りがふわりと舞う。
まるであなたの几帳面さを表すようなその香りが喪われてから――もうすぐ5年経つ。
何故空は青いのか。何故海は塩辛いのか。人間はどうやって生まれ、そしてどうやって死んでいくのか。
博識で聡明だったあなたは、いつでも私に答えてくれた。
まるでこの世界の理など、すべて知っているかのように。
唯一知らなかったのは――あなたがあなたの想定よりも随分と早く、大地に溶けていく運命にあったということだ。
私にとって、あなたに出逢うまでの人生は、自分の喪われた片割れを探す旅のようなものだった。あなたという存在を見付けて安心したのも束の間、それを喪ってしまったら、私はどう生きて行けばいいのだろう。
あなたのいない世界は、私にはまっしろなものに思えた。その空白にこの身ひとつで投げ出されたことが、怖くてたまらなかった。
私はあなたの残滓に耐えきれず――すべてを捨てて、そしてこの街に辿り着いた。
何も知らないこの街は、何ひとつ持たずからっぽだった私を、優しく包み込んでくれた。がらんどうの部屋の中でただただ呼吸だけをして横たわっていても、誰も私を咎めなかった。
幾度かの朝と夜を繰り返した後、ふと私は空腹を感じてよろよろと立ち上がる。あなたを喪ってすら、身体は正直にその生を保とうとする。見当違いの怒りと哀しみを燻らせながら、私は外界へと続くドアを開けた。
――その瞬間差し込んだ光に、私は見覚えがあった。
『だって――僕は、いつでも誰かを一心に想う君が好きなんだ』
頭の中で、あなたの声がこだまする。
――そう、それは、いつかあなたの背後から降り注いだ陽の光に似ていた。
***
前田さんと別れて、ひとりで駅までの道を歩く。
道の両端には木々が生い茂っていた。すこしずつ近付く春の足音に、彼らは装いの準備を始めている。
その控えめな緑色は、私の心を優しく撫ぜるようだった。
いつの日か、私の瞳に映る世界は色を取り戻し、私は今日も呼吸をしている。
その事実を受け容れられるようになったのは、あの日私が世界の真実に触れることができたからだ。
私がまっしろだと思っていたこの世界は、あの日のあなたに続いていて。
そして――この生の行き着く先もまた、あなたがいる場所に続いているのだと。
木々が彩る道は途切れ、目の前に陽光溢れる青空が顔を出した。眼下に広がる長い階段を見下ろしながら、私は自分の残りの生を思う。
あとどれだけあるかわからない道のり。
それを、あなたとの思い出の海に浸って過ごすことを、誰が責めることができるだろう。その数々の記憶だけで、私はこれからも生きていけるのだ。
「だって――あなたは、いつでも誰かを一心に想う私のことが好きなのでしょう」
小さく呟いたその言葉は、きっとあなたに届いていた。
どこまでも続くこのまっしろな世界の果てで待つ、あなたに。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
ふと心の中で生まれて、いつか書きたいと思っていた作品です。月曜日の朝から投稿すべき内容かはすこし迷ったのですが、決して救いのない話ではないと自分の中では思っているので投稿しました。
(もし暗い気持ちになられた方がいらしたら、ごめんなさい……)
世の中には沢山の選択肢があって、正解はそのひと達の数だけあるのだと思います。
彼女はひとつの道を選びましたが、もしかしたらいつか変わるかも知れません。もし変わったのだとしても、きっと彼はそんな彼女を優しく見つめているのだと思います。