第5章 ペチタミ
第五章 ペチタミ
主の年 1171年4月18日 日曜日。
デイジョンの教会の事務所。午前11時過ぎ
ミレーヌの唇は柔らかだった。
初めて女の子とするベーゼにレイモンドはわれを忘れた。
長身のレイモンドは、最初は背をこごめてベーゼをしていたが、すぐに床に膝をついてミレーヌの両肩を抱いてベーゼを続けた。
ベーゼは5分ほど続いただろうか。
レイモンドもミレーヌも、もっといっしょにいたかったが、誰かが廊下を事務室の方に向かって来るのにレイモンドが気づいた。
「また、来週会おうね!」
「はい」
ミレーヌが礼拝室のドアを閉めたのとほぼ同時に事務室のドアが開けられ、父親のバンジャミン司教が顔を覗かせた。
「レイモンド、姿が見えないと思ったら、ここにいたのか?」
そう言って、事務室の上にあるほぼ空になった葡萄酒とグラスを見ると、つかつかと歩いて礼拝室のドアを開け、礼拝室を見た。
レイモンドも父親の後ろから礼拝室を見た。
ミレーヌが出口に向かっている姿が見えた。
「レイモンド。おまえ、あの娘といっしょにこの高い葡萄酒を飲んでいたのか?」
「はい...」
厳しく怒られると思って緊張した。
バンジャミンは、信者にはにこやかに笑って接するが、内面は厳しい人間だ。
レイモンドも二人の弟も間違ったことをしたり、言いつけを守らなかったりすると鞭打たれたこともある。
「あの娘は... たしか、先週、アユイ村のラウルさんの妻のアメリさんといっしょに来ていた女性の娘だな」
さすが司教だけあって、教会の常連信者の顔はすべて把握してあった。
「ミレーヌと言って、お父さんを病気で亡くして、サン=ルミー村からラウルさんを頼って来たそうです。お母さんと弟と妹がいるそうです」
「そうか。これも“神の思し召し”だろう。大事にしてやるんだぞ?」
ちゃんと後片付けをしておきなさいと言って、バンジャミンは出て行った。
一時はどうなるかと緊張していたレイモンドだったが、父親の言葉を聞いてホッと安心した。
と同時に、“ 大事にしてやるんだぞ”と父親が言ったということは、父親が交際を公認してくれたのだと思った。
「やっぱり、“神の思し召し”なんだ!」
レイモンドは、礼拝室へ飛び出し、出口へ向かって疾走した。
その足音に出口に差しかかっていたミレーヌが立ち止まり、ふり返った。
「ミレーヌ!神の思し召しだ―っ!」
「え?」
ダダダダ…
一気に駆け寄って、おどろいているミレーヌの腰の上に手を添えるとミレーヌを高く上げた。
「レ、レイモンっ!?」
突然のことにミレーヌが真っ赤になって恥ずかしがる。
「パパが君との交際を認めてくれたんだ!」
「えっ、司教さまが? フギュっむむ...」
レイモンドはミレーヌを抱擁して熱いベーゼをする。
教会の前庭でおしゃべりをしていた敬虔な老若男女の信者たちは、突然の出来事におどろいてしゃべるのをやめて若いカップルを見ていた。
-∞-
主の年 1171年10月16日 日曜日。
デイジョンの教会。午後1時過ぎ。
レイモンドとミレーヌのロマンは、デイジョンの町中の噂になった。
バンジャミン司教さまの子息が、一介の農民の娘と交際を始めたというのが驚きをもって話され、その農民の娘がかなり可愛いと評判になった。
社会差別の厳しいこの時代において、神職、それも貴族の家の子息と下級階層の娘が交際するということは、たいへん稀なことだった。故に、司教さまは心の広いお方だとバンジャミン司教の評判もうなぎ上りになった。
「やれやれ... レイモンドのやつ、私が“新しい信者として”大事にしてやりなさい”と言ったのを、“恋人として”大事にしてやりなさいと言ったと勘違いしおって!」
二階の窓から、ベンチに仲良く座って楽しそうに話している息子とミレーヌを見ながら、バンジャミン司教が葡萄酒を飲みながら愚痴をこぼす。
レイモンドとミレーヌが交際を始めて、早半年になる。
「あなたが、はっきりと言わないからですよ。ロルジュ・ヴィコンテの娘との婚約のお話は、断るしかありませんね」
妻のマリー=アグネスが、ちょっぴり恨めしそうな目で司教を見る。
「うむ。まあ、ヴィコンテの娘はまだ10歳になったばかりと聞く。こちらには、まだアンドレもベルトランもいるから、その方向で話をまとめてみる」
「そうですわね。丈夫な男の子を三人産んだ私に感謝してくださいね」
「そうだな。四人目を産ませてやって感謝するとするか!」
「もう、あなたったら!」
バンジャミン司教夫婦はがんり、翌年、レイモンドに15歳年下の妹マリー=ジョージが生まれることになる。
まあ、司教さまは金持ちだから、何人子どもがいてもまったく困らないのだが。
昼食を司教の家族といっしょにしたあとで、ミレーヌはレイモンドと教会の裏庭のベンチに座って話をしていた。
レイモンドとつき合うことが司教夫妻から認められ、交際が始まった当初、ミレーヌは自分は農民の娘なので卑下されないかとビクビクしていたが、司教も妻のマリー=アグネスもまったく偏見を持っていないとわかってほっとした。
ミレーヌのパパであるジェラールの父親- ミレーヌにとって祖父-は、若いころジェノヴァで商売をやっていて、海上貿易で金を稼いでいたらしいが、貿易品を積んだ船が嵐で沈没し全財産を失ってしまった。
当時よくあった話で、そのためミレーヌのパパは14歳の時に父親が破産するまでかなりいい暮らしをしており、教育もしっかり受けていた。
祖父が破産してから、一家は流れ流れて、ラウル叔父が住んでいたモンバール郊外のサン=ルミー村に落ち着き、そこで育ったジェラールはモンバールの小さな雑貨店で働いていたマリー・ルイーズを見初めて結婚したのだが、マリー・ルイーズも落ちぶれた商人の娘だったので、ミレーヌたちは小さいころから親からしっかりと読み書きを習い、躾と教育を受けていたのだ。
それがあったからこそ、バンジャミン司教もマリー=アグネスもミレーヌをたいへん気にいって、今度は正式に交際を認めたのだった。
「ちょっと歩こうか?」
レイモンドがミレーヌの手をとって立ち上がった。
「ええ」
二人は手をつないで歩きはじめた。
レイモンドは、二階の窓から見えるベンチでいつもデートをする。
その方が両親も安心すると知っているからだ。
だが...
レイモンドは若い。
監視の目のあるところでは、大胆なことはできない。
それで場所を変えることにしたのだ。
というか、これもいつものパターンなのだが。
教会の裏は広大な森だった。
もちろん、ここも教会の所有地だ。
「オレ、パパの後は継がないつもりなんだ」
手はいつの間にか、ミレーヌの腰に回されていた。
「え?司教にならないのなら、何になるの?」
「シュバリエになる!」
「シュバリエ?」
ミレーヌが立ち止まった。
もうすぐ13歳になるミレーヌにも、将来結婚することになる男の子の職業は気になる。
彼女は無学の農民の娘ではないのだ。レイモンドが父親の後を継いで司教になると考えていただけに、突然の話にビックリした。
シュバリエ-職業の名前もカッコイイし、颯爽と馬にまたがって王さまなどを守るのだろうが- シュバリエの本分は戦いだ。
“男の子って、戦争が好きなのよね…”
ミレーヌも弟がよく友だちとシュバリエごっこをして棒切れをふり回して遊ぶ姿を見る。
レイモンドが、12歳年上のヴァランタン伯父さんに剣の手ほどきを習っていることは知っていたが、まさか、安定した職業である神職を捨て、シュバリエになるなどとは夢にも考えてなかった。
「ここに座ろう」
林の中に開けたところがあり、狩りの時にでも使うのか、木造の小さな小屋があった。
その小屋の入口の脇に丸太の片面を削っただけの素朴なベンチがあった。
「この小屋は何があるの?」
小屋のドアを開けると、中には暖房のとれる薪オーブンと小さな流しのある台所、木のテーブルと椅子、それに奥にはベッドがあった。
どうやら、狩りの時にでも使う小屋らしい。
「ここは恋人たちの家さ!」
レイモンドが、ミレーヌの手を握って小屋の中に連れこもうとする。
「だ、だめよ!私たちまだ結婚してないわ」
ミレーヌはドアの枠に片手でつかまって、中に引っ張られるのに抵抗する。
「じゃあ、今、ここで結婚式を挙げよう」
「ここで挙げようって、ここにはイエスさまの像もないじゃない」
「何を言っているんだ?信ずる者のいる場所、そこが神と人を繋ぐ場所なんだ!」
「だ、だって...」
ミレーヌもバカではない。
11歳で女の子になった時から、母親から男と女がどうやって子どもを作るかを教えられていた。
「好きだ、愛しているというだけで、男と女の営みをすれば、子どもが出来るのよ。結婚もしてない女がそうなったら、ふつうの生活はもう送れないの。一生、日陰者として生きていくしかないのよ。だから、貞操は結婚するまでしっかり守るのよ、いいわね?」
あなたも女の子だからと、8歳になった妹のマルチーヌもいっしょに座らされて、“女の子が知っておくべき教育”を受けたのだった。
「はっはっは!冗談だよ。君を妊娠させたら、パパもママもオレを勘当するよ!」
レイモンドは大笑いして、丸太椅子に座って自分の横を手で示した。
そして、熱い恋人たちの熱い抱擁とベーゼが始まった。
この作品の時代背景(中世盛期)ではまだ社会差別は厳しく、貴族と庶民の結婚(俗に貴賤結婚と呼ばれるもの)はありませんが、物語を面白くするためにそう設定しました。