第21章 深謀遠慮
慶安四年四月二十日。
翌日の朝―
紅龍衆における蓮之輔たちの役割は戦闘部隊の指揮官で、彼らの大将は由井正雪だった。
しかし、正雪は大将と呼ばれることを嫌がり、「策士、または軍監と呼んでくれた方がいい」と彼らしくなくボヤいていた。
由井正雪が、丸橋、熊谷などと検討して決めた紅龍衆の部隊構成は―
大将(軍監)・由井正雪
陣場奉行・丸橋忠弥
陣場奉行・熊谷三郎兵衛
陣場奉行・ 鈴木孫三郎
丙組 鉄砲足軽部隊 組長・神峰小太郎/副組長・竹中昭茂
丁組 大筒部隊 組長・保利田権左衛門/副組長・小長谷新九郎
戊組 鉄砲足軽部隊 組長・柚良蓮之輔/副組長・花房右馬之丞
庚組 鉄砲足軽部隊 組長・田村道造/副組長・西藤右京
となり、各組は七百人から八百人の雑貨衆で構成されていた。
正雪は、組長の選定にあたり、“身分”や“年齢”などはあまり考慮しなかった。
あくまでも“能力主義”で、講義での理解度、調練の時の様子を内藤小兵衛や宮部兵衞次郎たち部下によく観察させ、自分でも実際に見て、禰寝右近や伊集院 京四郎、大山岩太郎などの意見を聞いてから決めた。
したがって、組長、副組長に選ばれた蓮之輔や右馬之丞、小太郎などはかなり若いし、ほかの組には商人出身の組長、副組長も選ばれた。由井正雪自身は“浪人”であるので、無禄である旗本の子弟であろうが、町人であろうが、まったく構わなかった。
組長の下には班があり、一つの班は百人の雑貨衆兵からなり、班の下には三つから四つの分隊があり、分隊はそれぞれ二十五人から三十人の雑貨衆兵からなっていた。
雑貨衆の連中は、いずれも常に身体を鍛え、戦いに備えて来た連中だ。実戦部隊としては、たぶん最強だろう。
「『辛卯策』における、諸君らの役割は、幕府が送り込んで来る軍と戦う精鋭部隊の指揮です。紅龍衆の指揮官の中でも丁組は丙組と戊組の後方から攻撃援護をするという重要な役目を持っています。したがって、この調練場で早く、正確に大砲を撃てるための訓練をせねばなりません」
由井正雪は、そう言って丁組の組長・保利田と副組長・小長の顔を見た。
正雪が始めた兵学の講義は、倉庫から大筒を運び出したあと、倉庫の前の広場で行われた。
朝のうちは涼しいからいいが、これが昼だと暑さで大へんだ。
倉庫の壁に張った大きな紙に、正雪は筆で陣形を描いた。
「これは有名な武田信玄の『武田八陣形』と呼ばれるものです。陣形は、かの有名な孫子や諸葛孔明などによって考えだされ、実戦において使われ工夫・進化して来ました。魚鱗、鶴翼、雁行、彎月、鋒矢、衡軛、長蛇、方円などいくつもあり、兵法学を学んだ者は知っていると思いますが...」
武田八陣形
正雪の説明にうなずく者もいる。
「しかし、これらの陣形は、槍組、弓組、足軽、騎馬などが主体の備であり、鉄砲や大砲を持った兵で構成される備には適していません」
正雪は、大筒とみんなが呼んでいる巨大な鉄砲みたいな武器を「大砲」と呼んだ。
それから、正雪が教え始めたことは、蓮之輔たちの目からウロコを落とすのに十分だった。
「南蛮の国々では、陣形は、横陣、行軍縦陣、无亥字形陣、攻撃縦陣、混成陣、散兵陣、方陣などと言う陣形があり、戦いが行われる場所、敵軍の陣形、位置などを考慮してもっとも適切な陣形をとります」
壁に張った紙を何度も変え、それらの戦陣の利点、不利点を図を描きながら分かりやすいように説明していたが、講義が進むにつれ、聴講生である蓮之輔たちに訊くようになった。
「この陣形の利点、不利点について、わかる者はいますか?」
みんながそれぞれ意見を言うと、それはこれこれこういう理由で良くないとか、それは見事な考えですなどと評価し、受講生たちのヤル気をさらに増した。
そして、毎日の講義の終わりころには、「この問題については、明日の講義で各組に説明していただきます」と言って、課題を出すようになった。
講義が終わると、実際の訓練だ。
広い調練場を使って、実際に大砲を移動し、兵を動かし、身でもってそれぞれの陣形の利点・不利点を感じ、兵器の威力を知るのだ。
訓練で、もっとも大へんなのが、保利田権左衛門の大砲隊だった。
加櫓音弩砲は、重さが二百四十貫(900Kg)あり、これを倉庫から調練場まで移動させるのが大へんだった。だが、それも重さが四百八十貫(1800Kg)もある牙流磐砲と比べれば、まるで桐の雪駄と鉄下駄の差だった。
加櫓音弩砲は、十人もいれば平坦なところであれば動かせるが、牙流磐は倍の二十人ほどで押して引っ張らないと動かないのだ。
「わーっはっはっは!これも身体を鍛ゆっ訓練ち思えばよかじゃろう!」
訓練の様子を見に来た禰寝右近について来た大山岩太郎が大笑いをした。
「まあ、こん島では余分に牛や馬を飼う必要もなかで連れて来ちょらんが、実際ん行軍では馬に引かせっことになっじゃろう」
大山が言うと、禰寝右近も大きく頷いていた。
ようやく10門の大砲を決められた位置にまで運び終え、みんなゼイゼイと息をしながら一休みする。
「俺たちは大筒組でもないのに、何でこんな重いもん押さなきゃいけないんだ?」
丙組の神峰小太郎の副組長の竹中昭茂が、汗だらけになった顔を拭きながらボヤく。
そこに正雪が丸橋忠弥と熊谷三郎兵衛を連れてやって来た。
そして、汗びっしょりとなっているみんなを見てから話しはじめた。
「実際の戦いにおいてはいつどうして状況が一変するかも知れません。大砲隊は後方から撃ちますが、いつ敵に奇襲されるかも知れません。もし、そうなった場合、大砲を操作できる者が全滅したと言う理由で、破壊力の大きい大砲を放り出したり、むざむざ敵に鹵獲させたりするようなことがあってはなりません...」
確かに正雪の言うことは一理ある。奇襲などは初回とか初めのうちは、それなりに効果があるが、くり返していると敵もこちらの戦術を知るようになり、そうなれば裏をかかれて反対に奇襲を受ける可能性も出て来る。
「そう言う訳で、紅龍衆の者は、鉄砲隊の組長であっても兵であっても大砲の操作を覚えてもらい、必要に応じて大砲で敵を攻撃できるようになってもらいたいのです。同じ様に、大砲隊の組長も兵も、大砲の扱いだけを習得すればいいという訳ではなく...」
そして、紅龍衆の者たちは、どの組に属そうが関係なく大砲を使った射撃訓練をすることになった。
それも定位置だけからの砲撃だけではなく、臨機応変に戦術的にもっとも効果のある場所に移動しながらの砲撃訓練だ。
砲撃は、大砲だけを動かせばいいというものではない。
弾も火薬もいっしょに運ばなければならないのだ。牙流磐砲の弾は、一個が二貫二斤あり、発射に必要な火薬の量は弾の重さの半分だ。
十寸加櫓音弩砲の場合は、弾一発の重さが六貫で、火薬の量は三貫必要となる。
一回の訓練では五十回ほど砲撃する。
そして、砲撃訓練の後で、撃った弾は回収されるのだ。
「火薬は撃ったら終わりだが、弾はまた使えるからな!」
熊谷三郎兵衛はそう言って、必ず弾の着地地点をしっかりと見定めさせて、そのあとで回収させた。
砲弾は大きいので、ほぼ全弾何んとか見つけることが出来るが、困難なのは加櫓音弩砲から発射される葡萄弾という奇妙な名前の弾だった。
これは一回ぶっ放すと百個の鉄の弾を発射するのだが、一個六十匁《約226g》の鉄玉を見つけるのは楽ではなかった。
フリントロック式銃(1620年製)
鉄砲隊の訓練も熾烈を極めるものだった。
まず、蓮之輔たちに渡されたのは、西班牙製の最新式銃だった。
「これは、見てもわかるように、火縄を使わずに火打石を使う銃です。火縄銃は使うにあたって、戦いの最中に火種を消さないようにしなければなりません」
「そりゃそうだ。肝心の時に火縄が消えていたんじゃあ戦いならねェ!」
右馬之丞が、大きく頷く。
「また実際の戦いにおいては、雨天の時は使用が困難であり、夜であれば火縄の明かりが敵に見えたり、火縄特融の匂いで待ち伏せが見つかるなどという問題もあります」
みんな、正雪の銃についての知識に驚いている。
さらに正雪は続けた。
「この西班牙国の新式銃は火打ち式なので、撃つ時に火蓋を開ける必要がありませんし、雨天でも使用できます。火打ち式銃は、火縄銃より各段に安全であるゆえに、鉄砲足軽が陣形を組んで一斉に高密度の弾幕を張ることが可能となり、よって火縄銃の陣形では得られなかった集中攻撃力を得られるのです」
火打ち式銃の講義のあとは、実施訓練だ。
平野部における一列100人ほどの横隊で構成される基本陣形や、土塁などの遮蔽物を利用した攻撃砲、さらに塹壕を掘り、そこに隠れて射撃したり、ありとあらゆる陣形と攻撃法を訓練した。
「これまでは、騎馬隊が戦いの主力でしたが、これからは鉄砲隊が主力です。相手がどれほどの兵力で襲て来ても、三段構えで迎え撃てば鉄壁の防壁となります」
そう言って、むやみに突撃などせずに、相手が攻撃するのを待って相手の戦力を大きく削いでから攻撃することや、十字射撃なども訓練させられた。
「先生は、よくこんな戦法や陣形をご存じですね?」
ある日の朝の講義で、神峰小太郎が感心したように訊くと
「西洋人の知恵と物を作る能力は、我々に決して劣るものではありません。知恵のある者、知識のある者から謙虚に学ぶことが肝要です。私は、西洋から書物を取り寄せて学んでいるのです。いつか機会があったら、それらの書物を諸君に見せてあげよう」
「西洋の書物!」
「是非、拝見したいものです」
「どのような書物があるのですか?」
「先生は常に学ばれているのか。道理で何でもよく知っておられる筈だ」
わいわいがやがや...
そのような講義を毎日受け、講義のあとは調練場で大砲を押したり、引っ張たり、陣形を組むために走ったり、土塁や塹壕から鉄砲を撃ったりと忙しい毎日を送った。
そして、ようやく一日の課目が終わると、ほかの組長たちや雑貨衆は、それぞれ風呂に入ったり、飯を食ったり、薩摩焼酎を飲んで談義をしたりするのだが―
蓮之輔、右馬之丞、小太郎、それにの三人は、桐山彦斎、田野川以助、川下半兵衛たちから示現流をみっちりと半刻ほどかけて教えてもらうという修行が残っていた。
「一ヶ月や二ヵ月で覚えれるほど易しいもんではなか!」
右馬之丞に教えることになった田野川以助が言う通り、示現流を覚えるのは簡単ではなかった。示現流は初撃が肝心であるため、初撃で相手を倒せるだけの打ち込みが出来るように、毎回、立木を何百回も何百回も打つことから始まった。
手に豆ができ、破れて血だらけになっても休むことは許されなかった。
* 備は、戦国時代から江戸時代において戦の時に編成された部隊で、弓・鉄砲・槍などの各種足軽隊(組と呼ばれていた)、騎馬武者(与力と呼ばれていた)隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動をとることの出来る部隊でした。
*カロネード砲は、1780年頃の兵器ですが、物語を面白くするために入れました。




