第13章 鷹の辰蔵(後編)
慶安四年 三月十七日。
暮六つ―
深川の富岡八幡宮の神輿庫に数人の男たちが集まっていた。
鷹の辰蔵、藤兵衛、孫助と弥六、それに寅蔵、喜与吉に又八だ。
藤兵衛、孫助、それに弥六は、それぞれ本所、日本橋、御徒町の岡っ引きだ。
寅蔵は辰蔵の跡を継いだ岡っ引きで、深川一帯の治安を任されていた。喜与吉と又八は辰蔵の下で働いており、富岡八幡宮や永代寺などで開かれる縁日や祭日の露店などを取り仕切っている連中だ。
その縁もあって、辰蔵は集まりには必ず富岡八幡宮の神輿庫を利用していた。
神輿庫は広く、中には祭りの前に神輿を修復したり、掃除したりする者たちが一休みしてお茶を飲んだりする時に使う板張り床の部屋があり、辰蔵たちは必要な時、その部屋を利用していた。
「今日は、みんな忙しいところ、集まってくれてすまねえ」
「いやいや、辰蔵親分。久しぶりの声掛けなんで、何か変わったことでも起こったのかなと思ったんだがな!」
「で、何んですかい、わざわざ俺らを呼んだってことは、やっぱり八丁堀のお役人の行方不明と岡っ引き殺しのことを関わりがあるんですかい?」
藤兵衛たちも伊達に岡っ引きをやってない。
引退しているとは言え、いまだに辰蔵が奉行所からとても信頼され、このあたりではもっとも顔の効く男だということを知っており、お上が今回の事件の追及にかなり真剣に腰を入れ始めたということに気づいていた。
「話しに入る前に、まず、これを受け取ってもらいてえ」
辰蔵は、そう言うと横に置いていた漆塗りの三宝に乗っていた袱紗包みをとり、前に置くと開いた。
袱紗を開くと中には小判の切り餅と二つと紙に包んだ小判があった。
「!...」
「!」
「こりゃあ...」
藤兵衛たちが、目を見開く。
袱紗に包まれた物が金だとは予想はしていたが、実際に切り餅が目の前にあるのを見ると、やはりその額の大きさに驚く。
「藤兵衛さん、孫助さん、それに弥六さん。ここに一人当たり二十両の金がある。お奉行さまは、これで八丁堀のお役人の行方不明と岡っ引き殺しの探索に本腰を入れることを望んでいる」
「二十両!」
「お上も思い切ったことを!」
「俺らも腹を括って取り掛かなきゃなんねえな!」
辰蔵は小判の切り餅の紙と別に紙に包まれていた小判を丁寧に開けると、懐紙に二十枚づつ数えた小判を包んものを四つ作り、本所と日本橋と御徒町の岡っ引き、それに寅蔵の前に置いた。
「ようござんすぜ、辰蔵親分。御徒町の方はあっしに任せておいてもらおう!」
弥六が小判二十枚の包みを押頂くと懐にいれて大きく頷いた。
「本所の方も、手下たちに今回の特別給金に値する聞き込みをしろとケツを叩いてやりますぜ!」
「日本橋の方も大船に乗ったつもりで任せてもらいますぜ、辰蔵親分!」
「それを聞いて安心した。さあ、みんな久しぶりに集まったんだ。今夜は心置きなく飲んでくれ!」
辰蔵の声を待っていた手下たちが、酒や田楽、河豚のすっぽん煮、雪花菜汁などの肴を乗せた膳を持って入って来た。
「おっ、これは、『男山』だろう、辰蔵親分?」
「さすが孫助、酒に蘊蓄が深けえな!」
「てやんでえ、弥六。女にも蘊蓄は深けえんだ!」
「あっはっは!鷹の辰蔵親分の前でなにを言っているんだ?見ろ、辰蔵親分が笑いを懸命に堪えているぞ?」
「いやいや、そんなことはありませんよ」
柔やかに笑いながら、弥六の盃に酒を注ぐ。
「お上からは金が出たし、伊丹の旨い酒はあるし、食いもんは旨いし。これであと芸者でもいれば、もっと賑やかになるんですがね、辰蔵親分?」
「いや、それは勘弁してくれよ、藤兵衛さん。そんなどんちゃん騒ぎをここでしたら、宮司さまに睨められて出入り禁止になりますよ」
「わっはっは!そりゃそうだな!」
「違えねえ、 違えねえ!はっはっは!」
女気なしの宴会は宵五つまで続き、岡っ引きたちは上機嫌で帰って行った。
辰蔵は、みんなを見送ったあとで神輿庫の扉に錠前を掛けると、待っていた寅蔵といっしょに参道を出口に向かって歩いていた。
「親父さん、おれは別に金をもらわなくてもいいんですが...」
寅蔵は、二十両が包まれた紙包みを辰蔵に差し出した。
「いいから、遠慮せずにとっておけ、寅蔵。下のもんにもたまにはいい目をさせてやんねえと親分の格が下がるってえもんだ」
「......」
「それにな。ここだけの話しだが、仁杉の若旦那は彩葉の水揚げ料を百両も払ってくださったんだ。だから、損はしちゃいねえって事よ」
「百両!」
名のある有名な遊郭でもない辰蔵の見世の新造の水揚げ料は、せいぜい五両か良くて十両程度だ。
たしかに彩葉は美しいし、彼女がもつ初々しさは男を惹きつけるが、それでも水揚げ料に十両も払ってもらえば恩の字だ。それを百両も払ったとは...
さすがに寅蔵もおどろいた。
「寅蔵。お前、彩葉に惚れていたんじゃねえか?」
「いや、ちょっとおれ好みの娘だなって思っていただけだよ、親父さん」
「まあ、器量よしで、お前のおっ母さんと同じ侍の娘だからな」
「武家出身?」
「おうともよ。彩葉の父親は、下野国でお取り潰しに遭ったある大名家に仕えていた五十石取りの侍だったらしいが、娘ばかり五人もいてな。領主さまがお取り潰しになってからは食うのにも困るようになり、彩葉を売ったってわけだ」
「ああ、あの小山藩に仕えていたんですね」
「貧乏農家の娘と違って教養はあるし、躾もされているから、お前の嫁に相応しいかも知れねえな?」
「いや、仁杉さまからは、もう水揚げ料をもらっているんでしょ?じゃあ、一応、水揚げをさせて、しばらく働かせてから元手をとってからでもいいですよ、親父さん」
「うむ。後のことはともかく、いちおう仁杉の若旦那には筋を通さねえとな。彩葉と所帯を持つのはそれが済んでからにしてくれると助かる」
「それは全然かまいやせんよ」
「彩葉は、お前のおっ母さんも大層気にいっているようだからな。所帯を持ちたいと言えば賛成してくれるだろう」
「わかりやした」
寅蔵は、辰蔵が昔身請けをしてやった女の子どもだ。
寅蔵の母親の芳は貧乏旗本の娘だったが、祖父母と両親が流行り病で相次いで亡くなったあと遠い親戚によって深川の遊郭に売られ、十七歳から客を取り始めたが、運悪く一年経ったときに妊娠し、子どもを産んだ後の産後の肥立ちが悪くなり、客をとれなくなった。
それでも遊郭主は“ただ飯”は食わせないと言う損得勘定しか頭にない男で、体の具合のよくない芳を張見世に座らせ、客引きをさせていたのを辰蔵が見て、顔だちは綺麗だが明らかに病持ちであることが、厚い化粧をしていてもわかった。
辰蔵は、遊郭主と話して芳の事情を聞いたあとで、百両という金額で芳の身請けを申し入れた。
廓主も深川を治めている辰蔵の申し出であることを考慮し、また五十両の元手(芳を買った時に支払った金額)以上の身請け金を辰蔵が提示したこともあって、芳を手放すことを承諾した。
どうせ、このまま廓に置いていても、病状が悪くなって死んでしまうかも知れない。それなら、五十両払った芳を倍の百両で辰蔵に譲った方が得だと考えたのだ。
芳の子どもは、当時一歳で寅吉と言った。
辰蔵は、親子のために小さい家を深川に借りてやり、婆さんを雇って芳と寅吉の世話をさせるとともに芳を医者に見せて体調を回復する薬を処方させた。
栄養のある食べ物と医師の薬が効果を出し、一年後に芳は健康を取りもどした。
もとより、辰蔵は芳を自分の女にするために身請けしたのではなかった。
女衒業をやっている辰蔵は女に不足したことがなく、その時も遊女上がりの器量のいい女を囲っていた。
それから、一年半後。
久しぶり辰蔵は芳と寅吉の様子を見るために、二人のために借りてやったいた家を訪れた。
芳は辰蔵が訪れたのを喜び、通いの婆さんに四文銭を数枚手渡すと言った。
「ウメさん、寅吉をちょっとそこら辺まで遊びに連れて行ってくれませんか?これで何か美味しいものでも食べてください」
「あいよ。寅吉、おっかさんが銭くれたから、団子でも食べるかい?」
「だんご だんご!」
婆さんは、“わかりましたよ”と言う顔で、久しぶりにに団子が食えるとほくほく顔で寅吉の手を引いて出て行った。
辰蔵は、芳がお茶を淹れるのを見ていた。
さすがに貧乏旗本の娘とは言え、武士の娘としてしっかりと教養をつけているだけあって、手前も美しかった。
辰蔵のお気に入りの湯呑に茶を入れた芳は、両手をつき頭を深く下げた。
「辰蔵の親分さま。これまで、わたくしと寅吉を実の親にも勝るほど親身になって面倒を見てくださり、どれほどお礼を申し上げても申し上げ足りません」
「芳さん。困ったもんを助けるのが人の道ってえもんだ。なんも礼をいわれるようなことはやっちゃあいねえよ」
「いえ、親分さま。それはなりません。親分さまもご存じの通り、わたくしは廓でお客を取ることしか知らない女です。せめて、この体で千分の一、万分の一でも恩返しをさせてくださいませ」
「いや、俺はそんなつもりで身請けしたんじゃねえ。どうしてもお礼をしたいってえなら、俺のやっている見世の方を手伝ってくれればいい。ただし、客取りじゃねえ、揚代でだ」
「えっ、揚代?」芳がおどろく。
芳が驚くのも無理はない。揚代は廓の清算所で、通常その場所には“花車”と呼ばれる楼主の妻の場所なのだ。そのような特別な仕事を辰蔵の内儀でもない芳にやらせようとしているのだ。驚かない方が無理というものだ。
「揚代なんて... わたくしは、まだ若いですし、客をとらせてもらっても...」
「いや、そりゃなんねえ!」
びしっと強く言われて芳はふたたび驚いた。
「芳さんを身請けしてから、体が元気になったら客を取らせ始めたってなったら、元からそれが目当てで身請けをしたみてえじゃないか?」
「......」
たしかに言われてみればそうだ。
芳は何も言えなくなってしまった。
「俺はな... 幼子を抱えた芳さんが困っているから助けたんだ。助けたから、どうこうしようと言うつもりはねえ」
辰蔵の真摯な眼差しを見て、芳は涙を流した。
「親分さんの気持ちはよくわかりました。でも... でも、このままでは、わたくしの気持ちが収まりません」
「そうか...」
辰蔵はお茶を啜るとしばらく芳を見ていた。
「芳さん」
「はい」
「じゃあ、いっそのこと、俺と所帯をもたねえか?」
「え?」
芳の目が丸くなった。
「はっはっはっ!」
滅多に見たことのない芳の反応に辰は大笑いした。
「冗談だったのですね...」
これも滅多に見たことのない、少し拗ねた顔をした。
「冗談じゃねえよ」
そう言うと、辰蔵は芳ににじり寄るとその白い手をにぎった。
「ほ、本気なんですか... ふぎゅっ!」
力強く芳を引き寄せ、自分の膝の上に芳の上半身を寝かせると紅い口を吸った。
辰蔵は、しばらくしてから芳の口から離れた。
「俺は本気だよ、芳さん。どうせ俺は子種がないらしく子どももいねえ。お前さんを女房にして、寅吉を俺の息子として一人前になるまで面倒を見るぜ」
「う...うれしい ふぎゅっ!」
また紅い口を吸われた。
辰蔵の手は、芳の小袖の胸元から入り、襦袢の下の胸をさわっていた。
片手で芳の胸を揉みながら、もう片手は小袖の裾を開き、蹴出しを捲り、
湯文字の中に入り、芳の御帆戸に触れていた。
そこは、すでに辰蔵を受け入れる準備ができていた。
それを確かめると、辰蔵はすぐに芳の小袖の帯を解き、襦袢を脱がした。
蹴出しを外し、湯文字を剥ぐと、二十歳になったばかりの芳の白い体が露わになった。
輝くばかりの肌理細かい白い体、豊かな白い胸、子どもを一人産んだとは見えない締まった腰。
下腹の黒々とした陰が、芳が女であることを主張していた。
辰蔵は芳を横たえると、自分も素早く着物を脱ぐと芳の上に重なった。
こうして芳は辰蔵の妻になり、寅吉は養父である辰蔵の名前をもらって寅蔵と名前を変え、物心が付き始めた頃から辰蔵について香具師の仕事を習い、十五歳で前髪をおろして月代を剃ってからは、下っ引きとしても辰蔵を手伝うようになっていた。
そして、寅蔵が二十三歳になった時、辰蔵は岡っ引き稼業を引退し、寅蔵がその後を継いだのだった。
*小判の切り餅は、資料によると「一分銀100枚(小判にして25両相当)を重ね紙で包んだもの」となっていますが、重量が1KG程度と重いし、かさ張るので作品の都合上、小判ということにしています。




