第10章 雪消月
慶安四年雪消月八日。
立春も過ぎたが、まだ寒い。
蓮之輔は、八依と逢引していた。
時刻は暮れ六つを回っている。神田神社の境内社は麹町からも比較的近く、恰好な逢引の場所だった。
「蓮之輔さまったら、志津さまに溺れてしまわれて、ちっとも会ってくださらないんですもの...」
開口一番、恨み言を言われた。
今日の八依は武士の装だった。
例の高祖頭巾を被り袴を履き、大小二刀を腰に差していた。
夜出歩く時は、夜番の見廻りなどに会っても不審がられないように男装をするのだそうだ。
八依は高祖頭巾をとると、蓮之輔を愛おし気な目で見た。
「志津さまと夫婦になられたので、毎晩志津さまのお相手で忙しいんでしょうけど、私も初めてでしたのよ?」
口を尖らせている八依の肩を引き寄せると口を吸った。
「ふぅん...」
乱波だか透波だか知らないが、こうなるとただの女だ。
濃紺の小袖の襟から手を入れ、襦袢の中に潜らせると、八依のふっくらした胸を揉みはじめた。
やがて小袖と襦袢の前を大きく広げ、胸を露わにして片方を揉み、もう一方を胸を吸う。
しばらく胸を楽しんでから、帯を解き、袴を下げる。
志津は女なので褌は絞めてない。小袖を脱がし、襦袢をとると雪のようにまっ白な体が顕われた。
その体を茣蓙の上に横たえると、蓮之輔は上に重なった。
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しばらく経ってしてから、蓮之輔は八依の横にごろんとた。
八依の白い体はうっすらと汗ばみ、息はまだ忙しなかった。
「良かったかい?」
懐紙を渡してやりながら、八依の顔を覗きこんで訊く。
「蓮之輔さまの意地悪っ」
八依が赤くなる。八依はたった今まで、思い返すのも恥ずかしいような声を上げていたのだ。
良くなかったはずはないのを分かっていながら、わざわざ訊くということは、からかっているのだ。
蓮之輔は十八になったばかりで若い。
なので妻の志津にせよ、八依にせよ、色街の女にせよ、一度床に入ったら満足するまでたっぷりと抱く。
暮れ六つ頃に始まった八依との逢瀬も、すでに一刻を過ぎていた。
そろそろ家に帰って、彼の帰りを待ちわびているであろう志津を抱いてやらなければならない。
朝、起きがけに柔肌を抱いてやってはいるのだが、朝は朝、夜は夜だ。
志津もそれを心待ちにして、お化粧をして待っていることだろう。
「蓮之輔さま、もっと繁く会ってください」
袴を履いて帯をきゅっと締めながら、八依が甘えた口調で言う。
「そうだな。考えておくよ。だが、今度、たぶん久能山に行く筈だから、その時は半月ほどいっしょにいられるだろう?」
「はい。毎朝毎晩、蓮之輔さまに抱いていただけると思うと、気分が高まって夜も眠れないくらいです」
高祖頭巾を被り、草履の紐を結んでいる八依が愛おしくなって、また着物を逃がせたくなったが...
その時、八依が袴の帯に手をかけた蓮之輔の手を押さえた。
“何だ。毎朝毎晩抱かれたいなんて言っているくせに、今晩はこれ以上は出来ないってことか?”
そう思って八依の目を見ると...
境内社の外の気配に気を向けているようだった。
「囲まれています... たぶん四人です」
聞こえるか聞こえないかの低い声で言うと、素早く刀を腰に差し、紙入れを取り出し広げると内張りを剥がした。
中には先端の尖った黒い棒状の物が四本入っていた。
長さ六寸ほどの棒手裏剣だ。
それを取り出し手に持つ。
蓮之輔も同田貫と腰刀を帯に差す。
「敵なのか?お前の手下の透波じゃないのか?」
「いえ、手下なら近くにいれば合図をします」
「どんな合図を?」
「敵の虚を突きましょう。蓮之輔さまが扉を開いたら、私が飛び出して、向かいの狛犬の陰にかくれている敵を倒します」
蓮之輔の問いには答えず、てきぱきと策を授ける。
「じゃあ、俺は?」
「その後の敵の動きを見て適当に戦ってください」
「お、おう」
「ひい、ふう、みいで開けてください」
帯に仕込み杖を差した八依は、棒手裏剣を二本ずつ両手に持った。
「ひい、ふう、みいっ!」
静かに息を整えるかのように数えた。
バン!
蓮之輔は思いっきり扉を開けた。
だだだーっと駆けだした八依は、境内社の段を飛んで宙で一回転しながら、狛犬の陰で驚いた顔をしていた黒装束の奴目がけて二本の棒手裏剣を投げた。
急いで後から走り出そうとした蓮之輔は、八依の見の軽さと見事な攻撃に一瞬呆気にとられた。
棒手裏剣は、不審な奴の顔に突き刺さり、「ぐえっ!」と声を出してもんどり打って倒れた。
「!」
「!」
「!」
残った奴らの反応も早かった。
二人が抜刀し、同時に八依に向かって走り出した。
「て――えっ!」
蓮之輔は腰刀を抜くと八依の後から迫る黒装束の奴に向かって投げた。
狙いたがわず、腰刀はそいつの腹に深々と刺さった。
「ぐはっ!」
そいつが腹に手を当てて倒れたのを確認し、ばばばば――っと蓮之輔は走り出しながら抜刀し、倒れた敵に近づき、留めに胸に同田貫を突き刺す。
腰刀を抜き鞘に素早く収め、刀を胸から抜きながらもう一人の敵を探すと、雪の積もった参道を一目散に走って逃げる奴を見つけた。
すぐに雪を蹴散らしながら後を追う。
「ぎゃっ!」
後ろで悲鳴が聞こえたが、男の悲鳴だ。
八依が倒したのだろう。
「蓮之輔さま、少しよけてくださいっ!」
八依の声に蓮之輔は参道の端に寄り、追い続けた。
ひゅん!
何かが近くを通り、十間ほど先を走っていた男の足に突き刺さった。
「くっ!」
前を逃げていた男は足に傷を負い、もはや逃げることが出来なくなった。
覚悟を決めたらしく、男はふり返って抜刀した。
男の刀は、刃渡り一尺三寸ほどの短い直刀だ。
それに比べ蓮之輔の同田貫は、約三尺刃渡りがあり、圧倒的に有利だが油断は出来ない。
蓮之輔の構えを見て、男の目に焦りが見えた。蓮之輔が手練れだとわかったのだ。
たたたた…
八依が蓮之輔の後ろから近づいて来た。
男が動揺するのがわかる。加勢が来れば勝ち目が極端に減るのが目に見えている。
すでに他の仲間たちはすべて殺られている。
男が動揺した機を逃さず、蓮之輔は目も止まらない速さで突きを入れた。
靈瞑新道流では、臑斬りや斬撃に飛び違いを多く使うのだが、これだけだと相手に流派を知られていると対抗策をとられてしまう。
そこで、蓮之輔は必殺技としての“突き”を剣法として習得していた。
男は咄嗟に刀で蓮之輔の刀を払おうとしたが、丸太のような腕をもつ蓮之輔の突き出す刀を払えなかった。同田貫は深々と男の胸に刺さった。
「ぐぇっ」
黒装束の男は目をかっと開いて前のめりに雪の中に倒れた。
「お見事です、蓮之輔さま」
八依が蓮之輔を褒めた。
すぐに刀を胸から抜き、あたりを油断なく見回す。
まだ敵が潜んでいるかも知れないからだ。
「蓮之輔さま、ご安心ください。もうみんな片付きました」
「こいつらは乱波か透波なのか?」
刀の血を懐紙で拭きながら訊く。
「いえ。恐らく伊賀の者か甲賀の者でしょう」
倒れた男の持ち物を探しながら答える。もちろん、その男も素性を明かす物は何も持っていなかった。
「では、公儀の隠密か」
「我々を捉えて調べるつもりだったのでしょう。ですから、突然襲われたので戸惑い、それが勝敗を分けました」
淡々と状況を説明する八依。
「それにしても、八依は身が軽いな!」
先ほど見た曲芸師のような八依の体捌きを思い出していた。
「小さいころより練習していますので」
八依は謙遜して言う。
「伊賀の者... 服部半蔵の手先か...」
まっ白な雪を血で染めて倒れている黒装束の男を見ながら呟く。
「はい。お義父さまから、伊豆守が正雪さまや我々の動きを探らせているから気を付けるように、と知らせて来ましたので、戸田不動信近さまと藤林弥六郎さまにもお知らせしておきました」
戸田不動信近は戸隠流の頭目で、藤林弥六郎は伊賀流大神氏流の頭目だ。
そして伊豆守とは老中松平信綱のことで、寛永十四年の島原の乱の時、総大将であった板倉重昌が討ち死にしたあとで総大将となり、見事に伴天連軍が籠る原城を陥落させる手腕を見せ、幕政の中心人物となっている。“知恵伊豆”と称されるほど頭が切れ、冷酷であると噂される男だ。
「正雪先生の世直しは大丈夫なのか?」
「心配はいりません。それゆえ、道場での講義は取りやめになり、少人数での集まりになっているのですから」
確かに、去年の十月の血判状の日以降、講義はまったく開かれていない。
その代わり、中屋敷で少人数の集まりが度々行われており、これには離れに住んでいる蓮之輔と右馬之丞、それに御用人那珂小右衞門の家臣と見られる武士や、商人、町人、八依たち忍びの者も数名加わって十名から十五名ほどで話し合いが続けられていた。
集まりを取り仕切るのは常に内藤小兵衛で、月一回の集まりの常連は、蓮之輔と右馬之丞と中屋敷に住んでいるらしい侍が五、六人と八依たち忍びの者だけだった。忍びの者は、八依たち軒猿衆だけの時もあれば、戸隠流の者や伊賀の藤林流の者も参加することがあったが、雑貨衆の者は一人も参加しなかった。それぞれ役目があるらしい。
神峰小太郎や保利田権左衛門たちは、他の場所で集まっているとの話しだった。
「では、そろそろ帰りましょう。長居をしていて誰かに見つかると面倒です」
そう言いながら、参道を入口の方に向かって歩き出した。
入口に来ると、そばにあった木の枝に袖から出した朱色の細い紐を結び付けた。
「それは、何の呪いなんだい?」
「仲間に死体を処理するように伝えているのです。結び目の違いによって意味することが違うんです」
「へえ!」
雪が深々と降る中、二人は身を寄せて夜の闇に吸い込まれて行った。
棒手裏剣




