第9章 紀州公
慶安三年霜月三日。
赤坂門の誓いところにある紀州藩上屋敷。
その上屋敷の書院の間で、御用人・那珂小右衞門こと家老・芦川甚五兵衛は主君の徳川頼宣に、張孔堂で起こったことを報告していた。
頼宣は上座で脇息に肘を乗せて聞いている。
下座には芦川甚五兵衛、右側には筆頭家老である安藤 義門、左側には水野重良が座っていた。
内藤小兵衛、宮部兵衞次郎、黒野源三郎、永野藤次郎それに亀山源十郎たちは芦川のずっと後ろの方に控えていた。
徳川頼宣は、徳川家康の十男として元和五年に生まれ、わずか八歳で駿府二十万石の城主となった。
家康は体の弱かった頼宣の家臣団を補強するため、信頼の置ける自らの家臣を頼宣に付けた。
いわゆる「付家老」と呼ばれるもので、安藤直次、水野重仲、三浦為春、久野宗成の四家は、石高・格式で群を抜いていた。
一方、芦川家はもとは武田家の家臣であり、甚五兵衛の代に徳川家康に召し抱えられた。
そして、頼宣の紀州入国に同行して千五百石の知行が与えられ、大番頭-いわゆる警備隊長-を当初勤めていたが、紀州家の家老たちが老齢で次々と亡くなりつつあった間に大目付、参政と昇格し、今は家老務めていた。
頼宣は、紀伊国和歌山・五十五万五千石を所領としてもらった際は、領地入りする前に以前の領主対する領民の不満などを調査させた。
紀州の地は戦国時代より統治する領主がいず、雑賀、根来などの土豪がそれぞれの領地を持ち、威勢を競い合いながら発展を遂げ、他国には見られない富裕さと煌びやかな暮らしをしていた。それゆえに紀州民は独立性が強く、統治されることを嫌う気質があった。
頼宣が新たな紀州の領主となり、紀州藩の礎を磐石のものとするためには、土豪や地侍たちを上手く取り込むことが不可欠だと調査報告を受けた頼宣は考えた。
そこで頼宣は紀州で有力な土豪たち六十人を選び、家臣として取立てることにした。そうすることによって土豪や地侍たちの新領主に対する不満を和らげると同時に、領地統轄の要として彼らを引き立てることによって、領主と領民との間の交渉・連絡・調整などを潤滑に行える橋渡し役とするとともに、新領主に対する領民の不満などへの緩衝材としたのだ。
その時、家臣として取り立てられた者たちは苗字帯刀が許される地士となり、村々をの統治と治安を任せられ、村民たちからの訴状にも対処する地方の代官としての役割も果たし、徳川頼宣の紀州藩新領主としての藩政を大いに助けたのだった。
頼宣は新領主として赴任後は、新しく居城となった和歌山城を改築させるとともに城下町を整備し、紀州藩の繁栄の基礎を築き、名君としての評判の高い“徳川様”となっていた。
「そうか。では、すべて芦川と内藤たちの策の通りに上手く行っているということか?」
「その通りでございます」
「はっはっは!肥後守(保科正之)も伊豆守(松平信綱)も慌てふためいているであろう!」
「伊豆守や壱岐守の回し者を合わせて、これまでに十人ほど始末しておりますので、老中もかなり動揺しているとの報告を受けております」
「うむ。奴等もまさか我々が、これほど大人数の者を動かしているとは想像もしていまい」
「御意」
「それで、『辛卯策』の母衣衆となる紅龍衆の方はどうなっておる?」
「小兵衛、上様にお伝えするがよい」
「はっ!」
家老・芦川甚五兵衛の命で、内藤小兵衛が説明を始めた。
「紅龍衆は、甲組から癸組まで十組が作られましたが、皆、優れた者ばかりが選ばれております。中でも、本日、ご家老様もお会いした戊組の柚良蓮之輔と花房右馬之丞という二名が特に際立っております。この二名に軒猿衆 の透波と乱波の女頭目である八依を付けましたところ、予想以上の働きをしております」
「ほう。軒猿衆の女頭目とな?」
「はっ。八依の母親は、かっての武田信玄に仕えた望月千代女でございます」
「何と。信玄に仕えておったのか?」
「御意」
「それは期待できそうだな?」
「御意」
「紅龍衆には『辛卯策』に賛同してない者はいないのか?」
「はっ。その事に関しましては、亀山源十郎がご報告申し上げます」
芦川の言葉に、今度は亀山が話しはじめる。
「正雪殿が、十月三十日に張孔堂にて集会を開き、世直し策への賛同者を募る誓約書への血判をした折りに、賛同しなかった浪人三名と町人二人はすぐに始末させました。その後でも挙動が怪しい者を六名始末させております」
「そうか。大儀であった」
「痛みいります」
「それで、上様。『彩り』の方は、いかがなっておりますでしょうか?」
今度は、芦川甚五兵衛が訊く。
「うむ」
頼宣は、安藤 義門の顔を見て頷いた。
「『彩り』の方は、『櫻』、『白』、『柿』、『火』、『有』とも、それぞれ某と水野殿で話を進めておりまして、こちらも順調に進んおりまする」
安藤が状況を説明する。
正雪の世直しを後押しすることを決意した徳川頼宣は、策を“極秘事項”とした。
それも当然だ。正雪の世直しとは、政権を甥の家光から取り上げる大陰謀なのだ。
そこで、世直し策に関連する者たちは全て隠語で呼ぶことにした。
世直し策は正雪によって、『辛卯策』と名付けられた。これは皇極大王の時代に起こった乙巳の変-中大兄皇子、藤原鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して、当時の権力者だった蘇我氏を滅ぼした乙巳の変 にちなんだものだった。
正雪の策では、世直しをする時期は明年-慶安4年-となっており、明年の干支が辛卯だったからだ。
そして『辛卯策』(世直し策)に同意した“外様大名”たちは『彩り』と呼ばれ、島津藩は櫻島の『櫻』、毛利藩は特産品である米・塩・紙・蝋が全て白いことから『白』、浅野藩の特産品である牡蠣をもじった『柿』。『火』は阿蘇の山をもつ熊本藩、そして『有』は鍋島藩の特産品である有田焼にちなんだ呼び名となっていた。
ただ、熊本藩の藩主である細川 綱利は、まだ世直し策には加わってない。
加わっているのは、加藤家三傑の一人であった庄林一心の息子・庄林一方と孫・一吉だ。庄林家は、加藤家が改易された後に熊本藩主となった細川氏に八千石で仕えていた。
「という訳で、『辛卯策』が始まる時に向けて、それぞれ準備を進めておりまする」
「すべて滞りなく進んでいると言うことでございまするな」
安藤の説明に、芦川が満足そうな顔をする。
「それで、先ほどの柚良と花房と八依と申す者たちに、俸禄は十分に与えているのであろうな?」
頼宣は、蓮之輔と右馬之丞と八依に大いに興味をもったようだ。
「はっ。月三両を与えております」
「何と、それだけか?紅龍衆は、『辛卯策』では中核をなす者たちではないのか?」
「御意」
「ならば、もうちっと俸禄を与えてもいいのではないか?」
「......」
内藤小兵衛では決めかねることなので、頭を下げたままだ。
芦川がちらりと筆頭家老・安藤 義門を見る。
「こほん。安藤、あの葡萄牙国の新式の火縄銃の話しはどうなっておる?」
「火縄銃ではありません。燧石式銃と申します」
「ほう。葡萄牙国の鉄砲は火縄銃ではないのか?」
頼宣が関心を示す。
「もうちと、上様に分かりやすくご説明するがいい」
「それは亀山源十郎が詳しいので、亀山が説明します。亀山、ご説明申し上げろ」
家老・水野重良の言葉に芦川甚五兵衛が亀山を見る。
「はっ。火縄式銃は、鉄砲兵が密集すると、隣の鉄砲兵の銃の火縄から引火することがありました。それに比べ、燧石式は火種を使いませんので隣りの鉄砲兵の持つ銃に引火する心配がありませんので、鉄砲兵をより密集させること事が出来まする。ですので、集団戦に向いており、より実戦的な鉄砲となっております」
「なるほど。興味深い銃であるな。今度一丁持って来て見せてくれ」
「はっ。入手次第、上様にご披露申し上げます」
「うむ。楽しみにしておる」
「はっ」
ポルトガル船
天文 12 (1543) 年、海商で倭寇でもある汪直の船が種子島に漂着し、ポルトガル人も乗船していたことから始まった南蛮貿易だったが、葡萄牙は日本でのキリスト教布教を貿易との抱き合わせにして進めたため徳川幕府の不興を買い、寛永16年(1639年)に幕府は、鎖国政策のためにポルトガル船の来航を禁止した。
大航海時代の先鞭をつけたスペインとポルトガルは、世界各地に植民地を作った。
太平洋地域においてスペインはフィリピンを植民地として多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にして活発な貿易をしていた。
しかし、その後、英国、オランダ、フランスの台頭と海洋進出によってスペイン・ポルトガルは次第に押され気味となり、海軍力、国力において英国、オランダ、フランスに劣るポルトガルは衰退していき、それにつれて権益も著しく低下しつつあった。
日本との貿易復活を望んでいたポルトガルにとって、状況をさらに悪化させる事件が、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)に渡って続発した。
いわゆる、マカオの朱印船騒擾事件~ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件~岡本大八の贈収賄事件などだ。そして、これらの一連の事件にはキリシタン大名・有馬晴信と幕臣本多正純の重臣でやはりキリシタンであった岡本大八などが関係していた。
この事件により、以前よりキリシタンによる神社仏閣の破壊、ポルトガル人による日本人の海外への奴隷売買などを苦々しく思っていた幕府は、態度を一挙に硬化させ、 徳川家康は慶長19年(1614年)にキリスト教禁止令を発令した。
さらに元和2年(1616年)になると、徳川秀忠は「二港制限令」(平戸・長崎以外の貿易禁止令)を発令、元和5年(1619年)には改めて禁教令を出し、キリシタンへの本格的な宗教弾圧を開始した。
その後、幕府はいわゆる鎖国令と呼ばれる“外国との通交・貿易を禁止する一連の法令”を5回にわたって発令した。
◇ 寛永10年(1633年)に第一回鎖国令と呼ばれる“奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国禁止等”を発令。
◇ 寛永11年(1634年)には第二回の鎖国令で“第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始”した。
◇ 寛永12 年(1635年)になると第三回目の鎖国令で“東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止”。
◇ 寛永13 年(1636年)には、第四回鎖国令で“貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移した”。
◇ そして、寛永18年(1641年)の平戸オランダ商館の出島移転によって鎖国体制を整えた。
これにより、キリシタン教国であるスペイン人とポルトガル人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した鎖国政策が実施されることになった。
当時、朱印船は頻繁に東南アジアの国々と交易をしていて日本人の往来も大きく、これらの国には日本人町ができていた。交趾(ベトナム北部のホン川流域)のフェフォとツーラン、柬埔寨のプノンペンとピニヤール、暹羅(タイ)のアユタヤ、呂宋島マニラ城外のサン・ミゲルとディラオなど七か所で、最盛期には呂宋の日本人町は3千人、アユタに千5百人、そのほかの町に3百~350人ほどの日本人が在住し、その総数は5千人以上に達していた。
ポルトガルは、スペインと合わせて、日本との貿易を完全にシャットアウトされたわけだが、それで諦めるポルトガルではなかった。ポルトガル王ジョアン4世は、「いかなる手段を用いようとも、日本との貿易を再開せよ」と厳命していた。
そして、ポルトガル領インド副王であるリンニャレス伯爵 ミゲール・デ・ノロンニャを特使として秘かに薩摩に送りこんだ。そして、リンニャレス伯爵はジョアン4世王の親書を島津 綱貴に渡した。
親書には、『わがポルトガル国との貿易を再開できるのであれば、どのような条件でも前向きに検討しよう。最新式の銃や大砲を望むのであれば、それも提供しよう』と書かれてあったのだ。
リンニャレス伯爵家紋章
『辛卯策』に加盟していた薩摩藩は、すぐその旨を頼宣に伝えた。
頼宣は、それを芦川甚五兵衛通して正雪に伝えさせ、正雪は「是非とも三千丁は用意していただきたい」返答をしていたのだ。
「三千丁とは多すぎるし、高すぎる!」
筆頭家老の安藤 義門は、それを芦川甚五兵衛から聞いた時に即座に三千丁の銃の購入を否定する言葉を口にしようとした。
「大量に買うのであれば、最新式の銃を一丁五両で用意できるとミゲール・デ・ノロンニャは申しておるそうです」
「な、なんとっ?!」
安藤 義門は目を見開いた。
当時の銃はすべて火縄銃で、価格は一丁が四十両ほどとたいへん高価だったのだ。
それを最新式の銃を火縄銃の十分の一ほどの値段で提供すると言っているのだ。
銃のことには疎い安藤でも、値段のことは詳しかった。
それでも三千丁ともなれば一万五千両いるし、それに弾薬を加えれば十万両は下らないだろう。
だが、『辛卯策』は、紀州藩だけが支援するわけではない。
薩摩藩(島津 綱貴)、長州藩(毛利秀就)、津藩(藤堂 長正)、安芸国広島藩(浅野綱晟)などの外様大名諸藩も由井正雪の世直し策を支援しているし、それに朱印船貿易で巨額の財を成した豪商たちも財政支援を約束している。
彼らは、幕府がふたたび南蛮貿易を許可することを望んでおり、そのために必要なら“世直し”に参加することも厭わない。
「そうそう。それでその新式銃の購入については、島津久光公の考えも聞かなければならぬ」
「御意。薩摩藩の島津図書殿からは、西班牙からも同様な申し入れがあったと申して来ております」
「ほう。それは初耳だ。つまり、我々としては、葡萄牙、西班牙の両国を天秤にかけ、我々にとってもっとも好都合な条件を提示する国と交渉すれば良いのだな?」
「御意」
「とにかく、これで肝心の銃の購入先は、薩摩や長州と話し合って決めるとして、どちみち購入資金も必要となるので、纏まった金が要ることになる。それから先ほどの紅龍衆の俸禄も加増してやるがいい」
「承知仕りました」
「かたじけのうございます」
安藤 義門が、頼宣に答え、芦川甚五兵衛が礼を述べる。
フリントロック式銃
徳川頼宣は、幼少時より気が荒いことで有名だった。
気に入らないことがあると、側近を刀の鞘で叩くほどだったと言う。
慶長20年の大坂夏の陣では、先陣を望んだが、わずか14歳という若さであったため、頼宣の望みは家康の受け入れられなかった。
このとき、家康の側近であった松平正綱に、「これからいくらでも先陣に立つ機会はあります」と宥められたが、頼宣は「十四歳が二度あるのか!」と激昂したという。
それを聞いた父・家康は「今の一言が槍(手柄の意味)である」と、頼宣の闘志を褒め称えたという。
徳川家康に気にいられていた頼宣は、最初駿府藩主となったが、家康が亡くなった後で江戸から遠い紀州に移封された。これには、二代将軍徳川秀忠の思惑があった。徳川秀忠は、父・家康が大事に育てた塩にかけて育てた頼宣を駿府から遠くに追いやることで、自分の威厳を強める狙いがあったのだ。
その証拠に、駿府から出た頼宣に代わって、徳川秀忠の次男の徳川忠長が入城しており、ここにも徳川秀忠の策略が見られる。
徳川頼宣は、秀忠によって命じられた紀州移封には内心不満であった。
父・徳川家康によって“将軍学”を受けた頼宣は、兄で九男の義直、弟で十一男の頼房より優れ、兄で三男の将軍秀忠より優れているとの自負があった。
自分がただ十番目に生まれたというだけで、自分の才能と有能さを活かせないのは不公平だと常に考えていた。
そして、正雪の講義を聴いた内藤小兵衛が芦川甚五兵衛へ報告し、芦川が正雪についてさらに詳しく調べさせ、芦川自身も正雪に直接会って話して見たところ、正雪の“世直し策”に感銘を受け、それを頼宣に報告したのだ。
頼宣は、由井正雪の世直し策を芦川から聴かされた時、これぞ“天命”だと思った。




