第6章 血判状
それは奇妙な夢だった。
その奇妙な夢の中では、蓮之輔は、どういう訳か伴天連の神を信じていた。
そして、伴天連を信奉する紅毛人の民が住む国- 海辺のように砂が多いが海はなく、川も少なく、薩摩の暑さなど雪国の暑さと感じられるくらい猛暑の国・耶路撒冷で、伴天連とは違う安拉という異教の神を信じる民と戦っていたのだ。
夢の中では、蓮之輔は「ろーらん」と言う名前だった。
「ろーらん」が住んでいたのは仏蘭西国だった。
仏蘭西では、冬になると江戸のように雪が降った。仏蘭西の民は、花を愛でる民らしく、鈴蘭、雛菊、雛罌粟、百合、薔薇など蓮之輔も知っている花や、江戸あたりでは見たこともない美しい花が庭や野山に咲いていた。
夢の中の風景
彼には「みれーぬ」と言う緑色の目と明るい栗色の髪を持つ美しい妻、それに「まりーふらんそわず」という可愛い娘と「うーご」と言う小さな息子がいた。
ろーらんには、親のように親身になって彼を支え、西洋剣での戦い方を教えてくれた、「ばらんたん」と言う頼り甲斐のある伯父がいた。細かいことは気にせず、楽天的だが面倒見がいい「ばらんたん」は、なぜか親友の右馬之丞の大きな顔と重なって見えた。
平和な仏蘭西の国から、ろーらんは「みれーぬ」を連れて、「ばらんたん」の後を追うかのように遠く離れた砂地と灼熱の国・耶路撒冷に行った。耶路撒冷の国を守るために。
血みどろの戦いの毎日だった。遠い国からやって来た仲間たちも次々に戦いで死んで行った。
そして... 『ひっていーんの合戦』で耶路撒冷軍は大敗し、ろーらんは果敢に戦ったが、武運が尽きて戦死した...
「みれーぬっ!」
蓮之輔は突如叫んで、がばっと布団から起き上がった。
「旦那さまっ?」
志津が、驚いて裏の方から駆けて来た。
「みれーぬ... お前は、みれーぬなのか?」
「「はい、ローランさま... いえ、旦那さま。旦那さまも、私と同じ夢を見られたのですね...」
そう言って、志津は肌身離さず持っている小さな十字架のついた念珠を握りしめた。
志津が伴天連を信奉していると言うことは、祝言を挙げる前に告げられていた。
「異教の神を信じる私を妻とするのが嫌でしたら、祝言は取り止めていただいても構いません」
しかし、蓮之輔は、伴天連と言えどそう悪い信仰ではないと考えていたので、人目につかないように志津一人だけで信奉するという条件で良いのなら、俺はまったく問題はないと言って受け入れていた。
ミレーヌなのか?という蓮之輔の問いに、そうだと答えた志津。
志津の目の色は緑ではなく、髪の毛も明るい栗色ではない。
しかし、その目の奥にあるのは、ミレーヌだと確信した。
彼への愛のあまり、彼を想い続けて一生を終えた愛しいミレーヌ。
そう思うと、志津がさらに愛おしくなり、ぎゅっとその躰を抱きしめた。
「旦那さまが見られた夢、夢と言うか、あれはきっと私と旦那さまが、前世で異国で夫婦として暮らしていたという事なのだと思います...」
「輪廻転生か」
「はい。ろーらんと言うお名前の仏蘭西の侍であった蓮之輔が、耶路撒冷国で戦いでお亡くなりになられた後で、私は娘のみれーぬと息子のうーごを連れて故郷である仏蘭西の「でぃじょん」に帰りました。一緒に帰国された「ばらんたん叔父」さまのおかげもあり、お義父さま、お義母さまの支援も受け、子どもたちが成長し、それぞれ結婚し、孫たちが大きくなるのを見て一生を終えました...」
「そうか。マリー=フランソワーズもユーゴ・ガエタンも立派に成長して幸せな家族をもったんだな」
懐かしい名前が明確に脳裡に浮かぶと同時に、仏蘭西語の発音で名前を言えた。
「はい。おかげさまで子どもたちは、幸せな家庭を築きました。でも... 私は... 私は ローランさまを失った私は... うっ うっ うっ...」
蓮之輔の胸に縋りついて泣く志津の髪をやさしくなでた。
ローランは30歳と言う若さで『ヒッティーンの戦い』で死んだ。その時、ミレーヌはまだ27歳だったはずだ。
志津の話を聞く限り、再婚したようには見えない。
まだ若く、美しかったミレーヌは、デイジョンに帰ってから再婚の申し入れが後を絶たなかったであろうことは想像できる。だが、ミレーヌは再婚しなかった。
子どもたちの成長を楽しみに暮らし、子どもたちが結婚してからは孫の成長を楽しみに余生を送ったのだ。生涯、彼女の心の中から、夫・ローランの面影が消えることはなかった。
慶安三年神無月三十日。
宵五ツ過ぎ。
張孔堂では、厳重な警戒のもとある集会が行われていた。
正雪は百人ばかりの門下生を前に、近年立て続けに起こっている災害とそれによって苦しんでいる民のことを延々と話し、それなのに将軍家は民の苦しみには一顧だにせず浪費を続けていると厳しく指摘した。
そして、救いようのない現状を変えるためには“世直しが必要”という答えを門下生たちから引き出した。
「正雪先生、我々をその集団にしようとお考えなのですか?」
門下生の中でも、優等生の神峰小太郎が、正雪に真意を質した。
「その通りです」
正雪は、“それこそ私が待っていた答えです”と言わんばかりに満足そうな顔をした。
「し、しかし... ここにいるのは、僅か百名ほど...」
「いえ、心配する必要はありません。そのために、今日、那珂殿にわざわざご足労願ったのです」
山岡頭巾を被った男が鷹揚に頷いた。
「不足する兵は那珂殿が調達されます」
「!」
「何と!」
「!」
「八万騎に対抗できる兵を?」
「江戸で大戦が始まるのか?」
わいわいがやがや
とたんに道場内が騒がしくなる。
「静粛に。江戸の城下で戦を始める必要はありません」
「そうとも。ボンクラどもには考えもつかないことを正雪は考えておるのだ!」
正雪の言葉に丸橋忠弥が、まるで自分が名策を考えだした兵法家であるかのように威張って言う。
「そういう訳で、今日諸君に集まっていただいたのは、我々といっしょに世直しをするために行動して頂くためです」
「!」
「いっしょに世直しを!?」
「正雪先生と...?」
「本当に出来るのか?」
「それにしても、僅か、これだけの人数じゃ...」
神峰小太郎が、那珂殿と正雪が呼んだ山岡頭巾の男を見て小さな声で言った。
「数が足らんのではないか?」
「八万のお旗本様が守っておられる将軍様と対等に話せるだけの兵が背後にいなきゃ無理じゃないか?」
「どう考えても無理っぽいぜ!」
浪人が言えば、町人も頷いて答えている。
参加者たちがヒソヒソと小声で言っているのを聞いた正雪が、ふたたび口を開いた。
「諸君。桶狭間の戦いと川中島の戦いを知っていますか?」
「知っています」
「誰でも知っているんじゃないですか?」
「有名な戦いですからね」
由井正雪の門下生たちは、口々に答える。
講義でも、兵法の例として取り上げられたことがあるのだ。
「桶狭間は奇襲、川中島は武田軍の裏を突く策と話しましたね?」
「はい」
「その通りです」
「そう教えていただきました」
「永禄三年五月、織田信長公がわずか五千の兵で二万五千の兵を擁する今川軍を破り、義元殿の首をとったのも、越後の上杉謙信殿が八千の兵で川中島において、一万三千の兵を持つ甲斐の武田信玄殿の軍と互角以上に戦ったのも、どちらの勝者も「乱波」と「透波」を使ったから兵力で劣っていても勝てたのです...」
参加者たちは、後々まで語り継がれることになった有名な戦いにの裏に“乱波と透波”という名も知れぬ者たちの暗躍があったことを初めて知った。乱波にせよ透波にせよ、耳にしたことはあるが、実際どんなことをするのか知らなかったのだ。
「乱波、透波の役目は、密偵、探り、物見、後方攪乱、刺客です。これらを適切に適時に使えば、兵力は少なくとも倍する敵と互角に戦えるのです」
皆が頷いている。納得が行った顔だ。
「我々の成す世直し策に参加することを、戸隠流の戸田不動信近殿、伊賀流の藤林弥六郎殿、雑賀衆の鈴木孫三郎殿、軒猿衆の望月八依殿もご賛同し、加勢してくださることになっています」
正雪が名前を言うと、道場の四隅にいた者たちが黒頭巾を取って、それぞれ「戸田でござる」「藤林でござる」「鈴木でござる」と次々に名乗った。最後に「望月八依でございます」と名乗ったのは...
女だった!
「女?」「女の乱波か?」「いや、透波だろう!」
道場内が騒がしくなった。
「いかにも、私は女ですが、戸隠流にも伊賀流にも雑賀衆にも引けはとりません!」
きっと皆を見据えて言った望月八依の言葉に道場内は一瞬で静まり返った。
蓮之輔は、そんな八依の顔を美しいと思った。
「それでは、皆の衆、これより順番に世直し策の同意書に署名し、血判をしていただく!」
頃合いは良しと見たのか、熊谷三郎兵衛が言うと、その言葉を待っていたかのように横の入口から二人の男が筆具と紙が乗った経机を運んで来た。
参加者たちが次々に署名し、指先を切って血で捺印する。
みんな神妙な顔をしている。神峰小太郎の顔は白くなっていたが、逃げ出すこともなく署名し、血判を押した。保利田権左衛門は平然とした顔で誇らしげに血判を押した。
「このことのために、今までの講義があったんだな...」
いつもになく神妙な顔で右馬之丞が言い、ちょっとしかめっ面をして指先を切って捺印をした。
蓮太郎の番になった。
同意書には『我々は、由井 民部之助 橘正雪の世直し策に同意し、その成就のためには身命を惜しまぬことをここに誓う。又、我々の集まり及び策のことについては誰人であろうとこれを明かさないことを命を懸けて約束する。 慶安参年神無月参拾日』と趣旨が書かれてあった。
指先を切ると痛み、事の重大さを感じさせられた。
蓮之輔の後にも門下生たちは続き、黙々と血判を押した。
血判を押した者は元の場所に帰らず、立ったままで残りの者が血判を押すのを見ていた。
「中島殿、村山殿、熊谷殿、為五郎殿、それに又吉殿は、正雪殿の世直し策に参加されないのかな?」
血判状に署名・捺印する者の列が終わった時、熊谷三郎兵衛が後ろの方に座ったままの五人を見て訊いた。
「拙者は、もう少し考えさせてほしい」
浪人風の男が言うと、同じような浪人が二人頷いた。
「拙者もだ」
「拙者も同じだ。話しが急すぎる」
「俺らぁ、嬶と相談してみる」
「あんまり物事が大きくなりすぎたからよ。ここらで身を引かせてもらうよ」
町人二人も浮かない顔をしている。
「為五郎の奴...」
「又吉は怖気づいたか!」
町人仲間らしい者たちが、土壇場になって血判状に署名・捺印するのを止めた二人の町人を見て軽蔑したような口調で言っている。
「お前たち!」
丸橋忠弥が、顔色を変えて立ち上がろうとしたが、正雪がその肩に手を置いてまた座らせた。
五人は丸橋が声を上げた時、ビクッとしたが、丸橋が正雪になだめられてまた座ったのを見て安心したっようだ。
「よろしいでしょう。それぞれ事情があるのでしょうから」
「しかし...」
丸橋が何かを言うとしたが、正雪はそれを遮って続けた。
「気が変わったら、あとで私か丸橋殿、または熊谷殿と話してください」
「けっ!」
丸橋が唾でも吐きそうな顔で五人を睨んだ。
「ただ、今夜、ここで見たこと、聞いたことは他言無用です。よろしいですね?」
正雪が他言無用の念を押す。
「勿論でござる」
「承知仕った」
「うむ」
浪人たちが返事をし
「へい」
「わかりやした」
町人二人も頷いて立ち上がった。
亀山源十郎が彼らのところに近づいて行った。
何か話でもあるのだろう。
とにかく、血判は終わった。
みんなほっと安堵したような顔になり、数人ずつ集まって静かに話をしはじめた。
おそらく正雪の“世直し”とやらについて空想を逞しくしているのだろう。
「それでは、諸君。新たに連絡があるまでは今まで通りにしてください。講義に参加していた者も、変わりなく講義に参加して頂きたい。今日はこれまでです」
正雪の言葉に、みんなはがやがやと話しながら道場から出て行きはじめた。
蓮之輔と右馬之丞も何だか、もう世直しを成し遂げたような高揚感に包まれていた。
「うむ。確かに世直しはしなきゃならんな!」
「そうだな。足利義昭から織田信長、織田信長から豊臣。そして徳川様の世になったが...」
「将軍が変わっただけで、あとは何にも変わっちゃいねえ」
「柚良君に花房君。悪いが、少し残ってもらえますか?」
「あ、はい」
「はい」
刀を手にして玄関へ向かおうとしていた蓮之輔と右馬之丞が驚いて正雪を見た。
* 戦国武将の兵力の計算は、100石あたり兵3人で計算しています。




