第4章 憂う事
慶安三年 長月。
九月になり、朝夕が涼しく感じられるようになった。
あちこちの庭や野には、曼珠沙華の赤い花や金木犀の橙色の花が見られるようになった。
今日も張孔堂では、門下生や聴講をする者で満員となった道場で正雪の講義が行われていた。
「関が原の合戦で豊臣方が負けた結果、豊臣側について戦った大名八十七家がお取り潰しになった。どちら側にも付かなかった大名が五家。これでしめて五百八十七万石」
おおおお...
正雪の挙げた石数に、門下生たちが驚く。
「さらに、関が原以降、改易になった大名家は九十九家、石高千万石を超える」
おおおおおお......
千万石以上!
九十九家とは!
門下生たちがざわめつく。
「これらを全て合算すると、百九十を超える大名がお取り潰しならび改易に遭い、その総石高は千六百七十石を超えています」
おおおおおおお―――……
わいわいがやがや……
どよめきが止まらない。
「戦乱の世の中、下剋上がまかり通る世の中、戦があり、負けた方が所領を失くすのは仕方がないとは言え、徳川殿の治世となり、戦いが無くなった今、上がしなければならないのは日の本中に溢れている浪人に職を与えることです。それも武士に相応しい職を急いで与えなけえばならないのです」
その通りだ!
由井先生の言われる通りだ!
先生は、よくわかっておられる!
わいわいがやがや……
道場が騒がしくなる。
- ∞ -
「たしかにそうだよな。浪人、凄く多いもんな!」
神田川沿いにある行きつけの茶屋『孫次郎』で蕎麦を啜りながら、右馬之丞が今日の講義について感想を言っていた。
「たしかに、日の本中で百万人の浪人がいるってのは、大変なことだ」
「お取り潰しや改易に遭って所領を取り上げられた大名の所領のほとんどは、徳川側の大名にバラ撒かれたり、徳川様の所領になっちまったんだな...」
「それで、主君を失い、所領を失い、扶持を失くした浪人が増えたってわけだ」
「私たちは、まだ恵まれている方なんですね」
上品に蕎麦を啜りながら志津が言う。
「だよな!俺も入り婿になるんだけど、まあまあの暮らしが約束されているしな!」
「うーん... となると、俺が一番貧乏侍にになるな...」
「そんなことはありません。私も一生懸命に内職をいたします」
志津が、健気な妻になる覚悟を示す。
蓮之輔は、長兄の蓮太郎が靈瞑新道流の龍野師範へ、口添えと心付けをしたこともあって、次席師範代として月に七千文の謝儀をもらえるようになったが-
これは大工が月に九千文近く稼ぎ、職人が五千文ほど稼ぐので、その中間くらいしかない。
もちろん、この程度の稼ぎでは下女か下男を一人雇うくらいが精一杯だ。
それで志津も内職をして家計を助けると言っているのだ。
ちなみに、志津の義父である悠左衛門は内職で写本をやっているが、志津も書道はかなりの腕前で悠左衛門を手伝っていたそうだ。
『孫次郎』を出ると、右馬之丞は日本橋に用事があると言って別れた。
蓮太郎と並んで歩く志津は、習い事の事などを話し、蓮之輔は道場の稽古のことや、正雪先生の講義の事などを熱っぽく話した。
そんな蓮之輔を志津は頼もしそうに、尊敬の目で見ながら歩いていた。
蓮之輔が手振りで稽古の様子を見せようとして、大きく手を広げた時、手の先が志津の胸に当たってしまった。
「痛っ!」
「ご免!痛かった?」
痛いと言っているのに、痛かったもないものだが、男とは得てしてそんなものだ。
「だいじょうぶです」
そう答えたが、胸は女性の急所なのでかなり痛い。
「本当にご免」
しばらく黙って歩く。
蓮之輔も決まりが悪いのか、何も言いださない。
「もう、大丈夫です」
そう言うと少し安心した顔をした。
胸の痛みで、志津は深川八幡祭りに行った帰りに神社の境内で、蓮之輔に胸を触られたことを思い出していた。思い返すだけでも顔が火照って来て、それを蓮之輔に見られないようにと俯いてしまった。
あの夜、小袖の合わせから手を入れて来た蓮之輔は、しばらく志津の胸を揉んでいた。
次第に蓮之輔の息は荒くなった。そして、一度手を抜くと... 今度は襦袢の中に侵入して来たのだ。
志津はもうどうしていいのかわからなかった。胸を揉まれた時は、すごく驚いたし、恥ずかしかったが、妙なことに次第に心地よくなって来た。
そんな自分にも驚いたが、今度はじかに柔肌に触れて来たのだ。
頭が混乱して、どうしたらいいのかまったくわからなかった。
“俺たち夫婦になるんだろ?”と言った蓮之輔の言葉が、木霊のように頭の中に響いていた。
「むぎゅっ」
境内の暗がりで、蓮之輔は志津の口を吸った。
口吸いに応えていると、蓮之輔は小袖の前を広げ、その下の襦袢の前も広げて志津の肩を露わにしてしまった。反射的に前を合わせて胸を隠そうとしたが、その手を蓮之輔に押さえられた。
それから起こったことは、親しくなった栞代にも言ってないし、実の母のように可愛がって面倒を見てくれる塁にさえ話してない。
たっぷりと胸を触られた。
そして、志津はそれが言葉で言い表せないほど心地よかった。
境内社
そして-
その夜は それだけで 終わらなかった。
何と境内社の中に連れこまれ、茣蓙の上に寝かせられたのだ。
境内社は狭い社で、金目の物も何もないため錠は掛けておられず、隅に立てかけてあった茣蓙を蓮之輔が敷いて、そこに志津を寝かせたのだ。
志津とてまるっきりの“おぼこ”ではない。
男と女が夜にこんなところで逢引をすれば、どういうことが起こるかくらいは知っていた。
しかし、もう上半身は剥かれてしまっていた。
恥ずかしいも何もあったものではない。
蓮之輔は横に寝ると、すぐにまた口を吸い、胸を揉みはじめた。
志津は観念した。
“夫婦になるんですもの。求められたら断るわけにはいかないわ”
そう思って、心地よさもあって口吸いに応えていたが...
あまりの心地よさに、知らず知らずのうちに声が出ていた。
それを見た蓮之輔は、小袖の下を開き、裾除けを捲り、襦袢を開くと湯文字の中に手を入れた。
“来た...”
志津は覚悟をした。
“蓮之輔さま、祝言まで待てなかったのね”
そう思って、すべてを捧げる覚悟をした。
蓮之輔の手は湯文字の中に侵入すると-
志津にとってもっとも恥ずかしいところに触れた。
しかし―
それ以上、何もしなかった。
蓮之輔はすぐに手を引いてしまった。
今晩、“操を捧げる”と覚悟までしていた志津は、何だか拍子抜けした気分になった。
しかし、ほっと安堵したのも正直な気持ちだった。
蓮之輔は、両の胸をちゅっ、ちゅっと吸ったあとで、
志津の着物を直してくれた。
「さあ、帰ろうか!」
にっこり白い歯を見せて言った。
「あ... は、はい」
慌てて立ち上がろうとする志津に手を差し伸べて引き起こしてくれた。
「俺は、志津ちゃんの大事なものは、祝言を挙げるまでとっておきたいんだ」
「... 嬉しい!」
志津は蓮之輔に抱きつき、また口を吸われた。
- ∞ -
「私、蓮之輔さんと出逢う事ができて、とても幸せです」
「え?」
それまで黙って歩いていた志津が、突然、突拍子もないことを言ったので面食らっている。
「だって... 蓮之輔さんって とっても優しいんですもの」
頬を赤めて言う志津。
「あんまり褒めていると...」
そう言って、蓮之輔は志津の耳元に口を寄せて囁いた。
「また神社に連れて行って、脱がせちゃうぜ?」
「ええ―――っ!」
突然、志津が大声を上げたので、歩いている者たちが興味津々に見る。
蓮之輔が言ったことが恥ずかしくて赤くなったが、自分の声がみんなの注目を引いたということで、志津はさらに赤くなった。
“これも「まりあ様」のおかげね”
と真っ赤になりながらも、左胸を押さえた。そこは、襦袢の襟の隠し袋に「まりあ様」の小さな像をしまってあったのだ。
「まだ痛むか?」
蓮之輔がちょっと心配そうな顔で志津の顔を覗く。
「あ、うん、大丈夫よ。もう痛くないわ」
「そうか?おっぱいは、生まれて来る赤ん坊にも大事だけど、俺にも大事だからな!」
「もうっ、蓮之輔さまったら!」
志津が、また真っ赤になって蓮之輔を叩こうとする。
「おお、怖っ。こりゃ嫁の尻に敷かれるのは、ウマさんだけじゃなさそうだ!」
「蓮之輔さんの意地悪!」
プンプンと怒る志津。
だが、本心はちっとも怒ってない。
志津を送り届け、家に帰ると客が来ていた。
「蓮之輔さま、お客人が待っております」
門の外で待っていた中間の又六が告げ、急いで中に入って行った。
蓮之輔が帰ったことを家の者に知らせに行ったのだろう。
すぐに兄嫁の玲が玄関に現れた。
「紀州様の御用人の使いという方が見えられています。早くお風呂で汗を流して着替えてから座敷にいらしてください」
いつも落ち着いている玲が、何だか慌てている。
それもそうだろう。紀州様-徳川頼宣は家康公の十男で、知行高五十五万石の“大”大名さまなのだから。
その“大”大名の御用人の使いが来ているのだ、八百石取りの柚良家で上を下への大騒ぎになっているのも当然だ。
手早く風呂で汗を流し、着替えてから座敷に行くと、床の間を背に三十路と見える者が座っていた。
長兄の蓮太郎と玲は右側に並んで座っている。
「お待たせ致しました。柚良蓮之輔でございます」
下座に正座し、名を名乗り頭を深く下げた。
「なんのなんの。こちらから参ったのであって、却ってお騒がせして申し訳ござらん。拙者は紀伊様にお仕えする御用人・那珂小右衞門殿の家来の内藤小兵衛と申す者でござる」
内藤小兵衛と名乗った男は頭の切れそうな男で、流暢に話しはじめた。
「こちらに参る前に、龍野師範殿にお会いして話を聞きましたが、蓮之輔殿は若いのに大へん非凡だと褒めておられましたぞ」
「いえいえ。それはわが師の過褒でございます」
蓮之輔が謙遜する。
「いやいや。師範殿は、年輩の高弟子がいるので師範代にしてやることが出来ないのが残念だと言っておられましたぞ」
「ほう...」
長兄の蓮太郎が初耳らしく驚いている。
「張孔堂の由井民部之助先生も、柚良蓮之輔君は大へん俊秀な門下生ですと褒めておられました」
「それも正雪先生の過褒でございます」
「若いのに中々出来た方ですな?」
内藤小兵衛がそう言って蓮太郎を見る。
「恐れ多い事でございます」
長兄の蓮太郎も嫂の玲も頭を下げながらも、末弟の評判がいいので気分を良くしている。
「今日、突然参ったのは、那珂小右衞門殿に仕える気はござらんかを訊くためでござる」
内藤小兵衛が、急な訪問の理由を言うと蓮太郎の顔つきが変わった。
玲も目を大きく開けて凍りついたようになって驚いている。
「え?御用人の那珂殿に?」
「さよう。那珂殿は才能のある若い者を探しておりましてな。これは、と思った者を召し抱えているのでござる」
「それは... つまり... 那珂殿の家来になると言うことですか?」
「その通りでござる」
蓮之輔は夢ではないかと目をこすりたくなった。
だが、それは夢ではなかった。実際に起こっていることだった。
「分かりました。このような俺でも紀州様のお役に立てるのであれば...」
「いや、そこのところは勘違いしないで頂きたい。紀州様にお仕えするのではなく、御用人である那珂殿に仕えるのでござる」
「どちらでも結構です。有難く承わせていただきます」
蓮之輔は深く頭を下げた。
仕官が出来るのであれば、どこでも構わなかった。
ましてや、仕官先は紀州殿の御用人と言うではないか。断る馬鹿はいない。
兄の蓮太郎も嫂の玲も深々と頭を下げた。
蓮之輔は、紀州藩の御用人の芦川甚五兵衛殿に仕えることになった。
「現米取り」でもなく「扶持米取り」でもない「給金」という、少し変わった俸禄だったが、“差上金”なしの丸取りという好条件なので文句はない。
後日、給金を渡すために再びやって来た内藤小兵衛は、小判の包みを渡しながら言った。
「月三両で前払いとして一年分で三十六両です。それと二十両は支度金。合わせて五十六両でござる。どうぞお納めくだされ」
内藤小兵衛の言葉に長兄の蓮太郎が少し驚き、兄嫁の玲の顔が輝いたように見えた。
旗本とは言え、祝言は金がかかる。蓮之輔がもらう金は多ければ多いほどいいに決まっている。
住居も麹町にある紀州藩の中屋敷内にある長屋に住んでよいことになった。
「なあに、殿さまは江戸に四つも屋敷をもっておりましてな。それぞれの屋敷には家臣用の長屋がいくつもありまして、鼠の巣にしておくよりも人が住んだ方が良いと那珂殿が申されましてな」
そう言うことで、借家をして家賃を払う必要もなくなった。
志津にそのことを伝えると小躍りせんばかりに喜んだ。
そして、何と右馬之丞も、神峰小太郎も、蓮之輔と同しく、内藤小兵衛から話しを受け、この二人も蓮之輔と同じく、仕官することになっていたことを知った。
ほかにも、張孔堂で正雪先生の講義を受けている門下生の中で、同じような経緯で紀州藩の御用人 那珂小右衞門の家来に取り立てられた者がかなりいることを知った。
右馬之丞は、正式に栞代と祝言をしてから仕えはじめることになった。




