第3章 云納
志津と知り合ってからは、毎日がより楽しくなった。
午前中は靈瞑新道流に通って、右馬之丞とともに朝五つから昼九つまでみっちり稽古をし、汗を流す。
それから家に帰って昼飯を急いで食ってから、右馬之丞といっしょに榎町の正雪先生の道場に講義を聴きに行く。七つ下がりに講義が終わると、志津が茶道のお師匠様のところに通う日であれば、例の神田川沿いの茶屋でむぎ湯を飲んだり、心太を啜ったり、甘酒を飲んだりして麴町の志津の家まで送って行き、それから家に帰って風呂で汗を流してから、志津を迎えに行って二人そろって歩くのだ。
そして、夜五つになると家まで送り届けるという健全なお付き合いだ。
とは言っても若い二人だ。人気のない暗がりでは熱く口を吸い合い、蓮之輔は男でもあるので、それ以上進みたい気持ちもあるのだが、やはり結婚する前に孕ませたりするのは無茶苦茶に拙いということくらいは、蓮之輔にもわかる。
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しかし、蓮之輔と志津の“健全なお付き合い”は、とんでもない結末になってしまった。
と言っても悪い結末ではなかったが。右馬之丞は、単に蓮之輔と志津がおたがい好きあっているのなら、つき合えばいいと思って志津の両親に会って二人のつき合いの許しを得たのだが。
だが、右馬之丞が、そのことを商人の家に婿入りして町人となっていたのすぐ上の兄である右馬三郎がたまたま家に来ていたので、蓮之輔と志津のことを右馬之丞が得意満面に話したら...
こっぴどく叱られた。
「右馬之丞、お前何を考えているんだ?町人じゃあるまいし、武士の娘が、縁日で見初めた男と親に隠れて逢引するような訳にはいかんだろう!?」
けんもほろろに言われて夕飯を食べるどころではなくなり、走って蓮之輔の家に行って事の次第を話したら...
当然、柚良家でも上を下への大騒ぎになった。
さっそく、翌日、柚良家当主である長兄の蓮太郎は、用人を伊桐家へ遣わせて蓮之輔が無作法なことをしたことを謝り、あらためて正式に蓮之輔と志津の縁談を云納した。
伊桐家は二百石取りの旗本で八百石取りの柚良家より格下だが、蓮之輔は四男坊なので伊桐悠左衛門にとっても、まったく問題はない。
悠左衛門は、すでに志津と蓮之輔のつき合いを承認していたので、悠左衛門も用人を立て柚良家からの云納の申し入れを正式に了承する旨を伝えさせ、両家で結納の日取りが検討されることになった。
云納は、当然、当人たちの参加なしに行われたので、志津は奥の自分の部屋でどきどきしながら無事に終わるのを神さまに祈っていたし、蓮之輔もその日は剣術の稽古も手につかず、午後からの正雪先生の講義も上の空で、講義が終わると走るようにして帰宅し、兄の蓮太郎から結納が無事に済んだことを伝えられ、飛び上がって喜んで蓮太郎から呆れた顔をされ、諫められた。
「こういう事は、きちんと手順を踏まんといかん。いくら器量よしで、惚れたと言っても相手は旗本の娘だぞ?」
「申し訳ございません、兄上」
「婚礼は、十月の大安吉日にすることに決まりましたよ、蓮之輔さん」
兄嫁の玲が、“これで厄介払いが出来るわ”みたいな顔で蓮之輔に言った。
「ありがとうございます、義姉上」
「まあ、靈瞑新道流の道場の龍野さまが、次席師範代の仕事を用意してくださるそうだから、所帯を持っても何とかやって行けるだろう」
「兄上、何から何までかたじけのうございます」
「所帯を持ったら、お志津さんも、家計を助けるために何か内職をやられたらよろしいですわ」
「義姉上にも、色々とお手を煩わせ、申し訳ございませんでした」
「それは大丈夫ですわ。私も柚良家の人間なのですから」
長兄の蓮太郎は、勘定組頭へ蓮之輔と志津の縁組願いを提出した。
旗本の婚姻には、幕府の承認が不可欠なのだ。それから両家は仲人を正式に立てて、形式に則って縁談を進めた。
間もなくして勘定組頭から縁組願いの承認があり、それから伊桐家より持参金二十両と干鯛一折が用人を通して柚良家に送られ、柚良家からは、昆布、するめ、鰹節、柳多留と帯代として金二両二分という定番の結納の品が贈られた。
持参金二十両は少ないようだが、伊桐家は二百石取りの下級旗本なので、これでも大金だ。
それに対して柚良家は八百石取りの上級旗本だが、蓮之輔は四男であり、分家と言う形になるのでこれでも十分だった、
縁組披露が両家でそれぞれ行われ、蓮之輔と志津は正式に許嫁となった。
これもしきたりに則って、新居となる中屋敷の長屋に簞笥、長持、忍乗物、それに数々の花嫁道具が釣台に乗せて運ばれた。忍乗物など志津は金輪際使わないので、あとで処分(売る)することになるのだが。
慶安三年葉月。
八月十五日-
蓮之輔は志津と深川に来ていた。
今日は深川八幡祭りの日だ。
もちろん、右馬之丞も栞代といっしょに来ていた。
ワッショイ! ワッシヨイ!
ワッショイ! ワッシヨイ!
ワッショイ! ワッシヨイ!
二代将軍家光が、嫡子家綱の世継ぎ祝賀を祝うために始めた祭りは、もの凄い人混みだった。
神輿を担ぐ男たちの勇ましい掛け声に観衆たちが声を合わせ、担ぎ手に清めの水が浴びせかけられ、担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がっている。凄まじい響きですべてが揺れているようだ。
「すごい人ですね」
「天下の将軍さまのお祭りだからな!」
「おい、蓮の字、どこかもうちょっと人の少ないところで何か飲もうぜ!」
許嫁の栞代を連れて、蓮之輔たちといっしょに来た右馬之丞が蓮之輔を突いて言う。
「おう、そうだな。茶屋か屋台でも探すか!」
それから、人混みをかき分け、押しのけ、四半刻もかかってようやく雑踏から抜けだし、屋台がずらーっと並んでいる裏通りに出た。
「さあさあ お立ちあい、御用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで!」
ガマの油をたくみな口上と演技で売るガマの油売りがいた。
志津と栞代が物珍しそうに、立ち止まってしまったので、蓮之輔も右馬之丞もしかたなしにガマ油売りの口上と演技を見ることになった。
「ガマの油の膏薬、何に効くかと云いうなれば、先ずは 疾しつに癌がん瘡がさ、火傷に効く。
瘍よう・梅毒・皹に霜焼け、皹だ。
槍傷・刀傷・鉄砲傷・擦り傷・掠り傷すりきず・外傷一切...
こんなに効く蝦蟇の油だけれども、残念ながら 効かねいものが 四つあるよ。
先ずは 恋いの病と浮気の虫。あと二つが 禿はげと白髪に効かねえよ。
も一つ大事なものが残っておるりまする。
刃物の切れ味をば 止めてご覧に入れる。
ハイッ。手前 ここに取出したるは、これぞ当家に伝わる家宝にて
正宗が暇ひまに飽あかして 鍛えた天下の名刀、実に良く切れる。
さわっただけで 赤い血が タラリ タラーリと出る。
しからば、我が二の腕をば 切ってご覧に入れる。
ハイッ。これ この通り。
赤い血が 出ましてござりまするで。
だが、お立ち会い、血が出ても心配はいらない。
なんとなれば、ここに ガマの油の膏薬がござりまするから、
この膏薬をば 此の傷口に ぐっと 塗りまするというと、タバコ一服吸わぬ間に
ピタリと止まる 血止めの薬とござりまする。
さあて、お立ち会い。
此のガマの油、本来は一貝が二百文ではありまするけれども、
筑波山の天辺てっぺんから 真逆様まつさかさまにドカンと飛び降りたと思って、
その半額の百文、二百文が百文だよ。
さあ、安いと思ったら買ってきな。
効能こうのうが分かったら ドンドンと買ったり、買ったり!」
「すごいわ。お父さまに買って持って帰りたいわ」
「私も!蓮之輔さまの稽古の打ち傷によさそうですわ」
二人の許嫁が買いたいと言うので、蓮之輔も右馬之丞も買うハメになってしまった。
「それにしても、深川八幡さまのお祭りって、すごいものですね!」
「ほんと。私もずっと江戸に住んでいるけど来たことありませんでしたもの」
「えっ、じゃあ志津ちゃんは深川八幡祭りは初めてなのかい?」
「はい。私は丹後で生まれて、八歳の時に養女として伊桐家に引き取られました」
「八歳の時って...寛永二十年じゃないか?」
「はい」
志津の話しでは、彼女の母親は細川家に所縁のある者で、諸事情から京に住む親戚に預けられ、その親戚が江戸の伊桐家の親戚で、塁に子どもがいないことを知り、志津を養女として迎えたらどうかと言う話しになり、悠左衛門と塁は受け入れることになったのだという。なお、その後、伊桐家では家を継がせるために男の子を養子としているそうだが、まだ十歳の子どもだそうだ。
「でも、お義父さまもお義母さまからも、とてもよく可愛がっていただいています」
志津は嬉しそうに言った。
まあ、内職までして、色々な習い事をさせるなどというのは、たしかに可愛がってなければしないだろう。
「そうか。それで深川八幡祭りを知らなかったんだな」
「お義父さまもお義母さまも、お祭りには連れて行ってくれなかったんです」
「志津ちゃんは、箱入り娘だったんだな!」
「ち、違います、ウマさん。私も内職手伝っているんですよ!」
ムキになって否定するのが可愛くて、蓮之輔は思わずその肩を抱き寄せてしまった。
「!」
蓮之輔を見る志津の顔が真っ赤になる。
「おう、おう。お二人さん、熱いね!」
そう言いながら、栞代の肩を抱き寄せる右馬之丞。
「あら、人のことを言って、自分も同じことやってから!」
そう言う栞代も満更でもない顔をして頬を染めている。
裏通り辺りは、祭りを見に来た者たちで稼ごうと、細工飴師、団子屋、天婦羅屋、そば屋など食い物の屋台もあれば、農具、鋳掛屋、神具屋などもあり、大道芸人が芸をして子どもたちや見物人を集め、占い師の屋台には娘たちが数人並んでいた。
「あ、私も占ってもらいたいです」
「私も占ってもらおうかな。ウマさんの嫁になるのが吉と出るか凶と出るかを!」
志津と栞代が、早速興味を示す。
古来より、女というものはこういった占いが好きなのだ。
「ふーむ。寛永十二年の六月の二十一1日生まれじゃとな?」
「はい」
志津は興味津々だ。
「干支は乙亥、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生は水生木じゃな」
「はあ...」
志津にもそばで聞いている栞代にちんぷんかんぷんだ。
「娘さんは、器が大きく、いつも大らかな性格じゃ。禍があっても、どっしりと構えておるので、周りの者に安心を感える人じゃな」
「ほう!」
後ろで聞いていた蓮之輔が驚き、
「蓮之輔、お前、凄くいい嫁さんをもらうじゃないか!」
右馬之丞が、蓮之輔の肩をバンバン叩いた。
「じゃが... ふうむ 奇妙な運命をもっておるの...」
「奇妙な運命?」
「うむ。緑色の目と茶色の毛を持つ、毛唐の美しい女人が娘さんに重なって見える... 不思議なことじゃ」
白く長いあご髭を生やした占い師は、筮竹を目の前で広げ、筮竹越しに志津を見ながら呟くように言った。
「娘さんが隠している物。それを信じることじゃ。そうすれば道は開かれる... そして、全てうまく行くじゃろう」
「!...」
“隠している物”と占い師が言った時、志津は反射的に胸を押さえた。
次の 栞代の占いは、「ほう。娘さんは恵まれた運命を持っておるの。大きな男と夫婦になれば、さらに運は開けると出ておる... ん? その男じゃ、間違いない!」
右馬之丞を筮竹越しに見て確信をこめて言った。
「うおっほ!爺さん、よく占ってくれた。ほれ、代金だ。いい事を言ったから倍払ってやるぜ!」
「おお、かたじけない!」
「ウマさん、料金は料金よ。ちゃんと五十文だけ払いなさい」
栞代が、気前の良すぎる右馬之丞が出した金を取り上げ、半分の五十文を渡した。
「おうおう。この娘さんなら、良妻賢母でお侍さんも運が開けると言うもんじゃ」
苦笑して栞代から料金を受け取り、蓮之輔が出した料金も受け取る。
「うん?お侍さん、見たところ先に占った娘さんの亭主になる方のようじゃが」
「その通りだ、爺さん」
「占って見る気はないかな?やはり少し奇妙な...」
「いやあ、俺はやめとくよ。当たるも八卦当たらぬも八卦というのが占いだろ?あんまり信じないんだよ」
「そうか... そりゃちと惜しいが、仕方ありませんな。ま、とにかく、この娘さんと所帯を持つのは当たる八卦じゃ。安心して夫婦になるがいい!」
「それだけ聞きゃ安心だ。さあ、今度は何か食おうぜ!」
占い師の屋台から離れると、蓮之輔も右馬之丞も大笑いした。
「がっはっはっは!あの占い師の爺さん、客が喜ぶことばかり言って...」
「悪い事じゃないから、みんな喜ぶよな。はーっはっは!」
一方、志津と栞代は、占い師の言葉に大喜びだった。
「うふふ。私、ウマさんといっしょなら幸せになれるって!」
「良かったですね、栞代さん。私も蓮之輔さんとならうまく行くって言われて嬉しかったわ」
「それはそうと、あの爺さんが言っていた、“隠している物”って何よ?」
「えっ、それは... その...」
「あ、わかった!」
「え?」
「あれでしょう、枕絵。ね?」
ぼそぼそと蓮之輔と右馬之丞に聴こえないように、志津の耳元に口を寄せて言う。
「えーっ、そんなんじゃ...」
そう言おうとして、途中で思い直した。
「そうなの。母上が、云納があってから、すぐに買ってくれたの...」
「えーっ、ほんと?ほんとに?じゃ、今度見せてよ!」
「えっ... えっ...!」
にっちもさっちも行かなくなってしまった志津だった。
屋台で天婦羅、蕎麦を食べ、最後に女子衆のご要望に応えて甘酒を飲んでから引き上げた。
二番町に住む栞代を送って行く右馬之丞と別れて、麴町へ向かった蓮之輔と志津。
まだ、宵五ツ前で少し時間は早い。
「神社に寄って行こうか」
「はい」
蓮之輔の言葉に素直に従う志津。
この時間に、人気のない神社に行くと言うことは、神社に参拝に行くのではないことは百も承知だ。
昼間は子どもたちが遊んでいる神社の境内も、この時間になると野良猫くらいしか見当たらない。
参道にある狛犬の陰に二人は入った。
蓮之輔は、志津の肩を抱いて口を吸った。
志津ももう慣れているので、目を瞑って人目につかない逢引を楽しむようになっていた。
もう婚礼の日も決まっている蓮之輔と逢引しても、何も気が咎めることはないのだ。
口吸いは、あまりにも心地よくて、頭がぼーっとなっていた。
そして息も少し乱れていた。
その時、蓮之輔の手が小袖の合わせから入って来た。
「!」
びっくりして、蓮之輔の手を押さえると
「俺たち夫婦になるんだろ?」
「...」
志津が黙っていると、承諾したと考えた蓮之輔は、
襦袢の上から志津の胸を揉みはじめた。
* 結納(作中では云納としている)自体も、現在の結納に近い形式になったのは江戸時代後期とされていますので、ここではネットなどで調べて、“まあ、こんなものだったのだろう”と考えた形式にしています。
* 作中のガマの油売り口上は、『伝承芸能 筑波山ガマの油売り口上』より引用させていただいています。長いのでかなり省略していますので全文を知りたい方は↑を検索して読んでください。




