第24章 旅路
主の年 1187年10月。
ヒッテーンの戦いはキリスト教軍の惨敗で終わった。
十字軍兵の多くが、「ハッティンの角山」に向けて脱出したことにより、戦力が大きく減ったことも敗戦の要員の一つだった。
それでもギー王は何とか体制を立て直そうと試み、騎士団も十字軍も必死の突撃を数度くり返したが、サラーフ・アッ=ディーン軍の巧妙な戦術によってすべて撃退されてしまった。
多くの十字軍兵士が喉の渇きと傷のため満足に戦うことも出来ずに殺され、捕虜された。
双方で3万人以上の兵が戦死した壮絶な戦いが終わった時、ギー王、ジェラール・ドゥ・リデフォール団長、ガルニエ・ドゥ・ナブルスなど多くの指揮官や騎士が捕虜となっていた。
同じく捕虜となったルノー・ド・シャティヨンは、長年に渡るムスリムの商人隊や巡礼者に対する残虐な行為のため処刑にされた。
さらにエルサレム王が戦いの時いつも携行していた、キリスト教徒にとって最も大事な聖遺物であるヴェラクルースもサラーフ・アッ=ディーンの手に落ちてしまった。
-∞-
サラーフ・アッ=ディーンはヒッテーンでの勝利の余勢を駆って、9月にエルサレムを包囲した。
ヴァランタンたちは、エルサレムを防衛すべく懸命に戦ったが、もはや主力軍を失ったエルサレム軍は防衛のために必要な兵も少なく、町はサラーフ・アッ=ディーン軍から逃れて来た人々でいっぱいで食料なども枯渇しつつあった。
エルサレムの防衛指揮官バリアン・ドゥ・イベリンは、王都に逃れて来た難民まで武装させて戦ったが、これ以上戦っても無駄だと考え、2週間後にサラーフ・アッ=ディーンと交渉して、キリスト教市民を全員無事にエルサレムから脱出させることを条件にエルサレムを明け渡すことを提示した。
サラーフ・アッ=ディーンは、市民が身代金を払うことで脱出を許した。
1099年に十字軍がエルサレムを攻略した時には-
「ソロモンの神殿でもソロモンの玄関でも、騎馬の兵は膝や手綱まで血に浸かって歩いた」
「…(われらの兵は)ソロモンの神殿でも殺して斬っていった。神殿ではあまりにも殺した数が多かったので、われらの兵は足首まで血に浸かって歩いた…」
「多くのムスリム市民が殺され、(十字軍の指導者は)すさまじい悪臭のため、サラセン人の死体をすべて外へ捨てるよう命じた。全市が死体で埋め尽くされていたためである。生き残ったサラセン人は死体を市門の出口の前まで引きずり、馬の死体かのように積み上げた」
と記述されたほどの無差別虐殺が行われたのだが、サラーフ・アッ=ディーンは、キリスト教徒よりも温情があったのか、十字軍が行ったような残虐なことはしなかった。
-∞-
主の年 1187年10月15日。
アッコの港から、キリスト教徒を満載した船が出航した。
船上から遠くなるエルサレムの地を見ている女性がいた。
シャタン・クレールの長い髪、ヴェールの瞳の若い美女だ。
その女性の手をにぎっている少女は、女性と同じシャタン・クレールの髪だが瞳はブルー《青い》だった。甲板の手摺りに掴まって見ている男の子は、シャタン・フォンセの髪と女性と同じヴェールの目をしていた。
「ローランは天国に召されたが、ちゃんと立派な跡継ぎを残したな...」
ヒゲ面の大男- ヴァランタンがグリグリと大きな手で男の子の頭をいじりながら言う。
「おじさん、サセマーリャ!」
男の子は文句を言うが、ヴァランタンは知らん顔だ。
「モナムール、やめたら?ウーゴ嫌がっているじゃない?」
黒髪の若い女性が大男をたしなめる。
「イリニ、気分はどうなの?」
「うん。なんとか落ち着いたわ、セシリア」
「そう。良かったわ。悪阻って、大変ね。それであなた、モンバールに行ったらどうするのよ?」
「さあ。私はヴァランタンと別れるつもりは全然ないから...」
「まあ、彼の家は貴族の資産家って言うしね」
「それより、ミレーヌの方が大へんじゃなくて?」
「うん... 彼女4ヵ月目って言っていたから、デイジョンに着くまで生まれなければいいけどね...」
そう言って、イリニはミレーヌの大きくなったお腹を見た。
「大丈夫。ミレーヌ、神さまとローランに守られている」
後ろにいたウィラームがボソッと言った。
「たしかにそうだな。あの戦いの時、ローランはラシードと戦って勝った時に、仲間を助けてくれってラシードに言ったから、ウィラームたちは捕虜にもされずに無事に帰れたんだからな」
ヴァランタンが大きく頷いている。
「ローランのご両親も、ミレーヌの母親も、こんなに美しくなったフランとローランそっくりのウーゴを見て、きっと大喜びするわね...」
「本当ね。フランはデイジョンに帰ったら、貴族の息子たちが放っておかないわよ!」
イリニ とセシリアが、もうミレーヌとあまり変わらない背の高さになったマリー=フランソワーズを眩しそうに見ている。というか、海面が陽の光を反射しているので眩しいだけなのだが。
12歳になったマリー=フランソワーズはもう一人前の女の子になっていた。
身長はミレーヌとほぼ同じだし、胸も立派に成長している。まだ尻は少し細いが、スラリとした手足を持っており、イラニとセシリアが言っているようにすごく人目を引く美少女に成長していた。
あと2、3年もすれば結婚できる年齢になり、そうなれば引く手あまたとなるだろう。
「あら、おばさまたち、何を私のこと言っているの?」
マリー=フランソワーズが、耳聡く二人のおしゃべりを聞いて訊いて来た。
「ああ。デイジョンに着いたら、侯爵さまか伯爵さまの息子でも紹介してあげようって...」
「あなたの結婚相手の話をしていたのよ!」
「ま、まあ... け、結婚なんて、まだ早すぎるわ!」
マリー=フランソワーズが顔を赤らめる。
「何を言っているの、フラン?ミレーヌは15歳であなたのパパと結婚したんでしょ?」
「ええ...」
「あと2年もしたら、あなたのサンももっと大きくなって、あなたのシェリーが揉みやすい大きさになっているでしょうからね!」
「オシリもね!」
「やめてくださいっ、おばさまたち!」
マリー=フランソワーズは走って船室へ消えてしまった。
甲板ではみんなが大笑いしていた。
エルサレムに、もう思い残すことはない。
“モナムール みんなでデイジョンで幸せに暮らします…”
ミレーヌは、お腹をさすりながら、最後のお別れをした。
-∞-
ヒジュラ歴 583年シャッワール15日。
アル=クドゥスカルアァ
ダビデの塔の西に面したテラスから、ヒンノムの谷の方を見ている若い女がいた。
黒い髪を背中まで伸ばした美女は、黒い髪と白い肌の男の子と手をつないでいた。
「アリックス。どうだ、王宮からの眺めには慣れたか?」
「はい、アブ」
「タキーユは、ここが好きかな?」
黒いアゴ髭と鼻髭を生やした男- ラシード・ウッディーン・ムハンマドは、目を細めて男の子を見た。
「ナゥム! アルジャードゥ!」
男の子は、利発そうな目を祖父に向けて元気よく答える。
「そうか、そうか!」
ラシード・ウッディーン・ムハンマドが、顔をほころばせて笑う。
ファーティマ帝国イマームでさえ恐れたほどのニザールの勇将も、孫の前では、ただのアルジャードゥだ。
「アルジャードゥ、腕が一つないって不便じゃない?」
利発そうな男の子が、黒い長袖の先から見える木の義手を見て訊く。
「そうだな。少しは不便だが、慣れればそうでもない」
「アミール・ムハンマド、プランセス、プラーンス、朝食の用意が出来ました」
黒い髪と青緑の美しい瞳を持つ女性が呼びに来た。
後ろにその女性と同じ黒い髪に青い目の男の子がいる。
「ザフィーラ、もうそんな呼び方しないでって言ったでしょ?」
「ボクもプラーンスじゃないよ。 タキーユ・ッ=ディーンだよ!」
|シャタン》の髪の男の子もふり返って口を尖らせる。
「アリックスの言う通りだ。おまえは私の養女になったのだから。タキーユ・ッ=ディーンをプラーンスと呼ぶなら、サフル=アーキルもプラーンスと呼ばなければね」
ラシードが黒い髪の男の子を見て笑いながら言う。
「ははは。ボクがプラーンスって、何だかおかしいや!」
「二人でプラーンスごっこやろうよ!」
「わーい、それ面白そう!」
二人は手をつないで走って行く。
タキーユ・ッ=ディーンは、アリックスの子どもだ。
年は9歳。名前は“信心深く敬虔なイスラーム教徒”という意味で、父親はローランだ。
そしてサフル=アーキルは、ザフィーラの息子で、こちらもローランとの間に出来た子どもだった。
名前は“サフル”は岩で強さを示し、“アーキル”知性ある者という意味だ。
ラシードはサラーフ・アッ=ディーンと協力関係を結ぶ前はファーティマ帝国と協力関係にあったが、十字軍に聖地アル=クドゥスの攻略を赦してしまうなど、ファーティマ帝国のカリフの無能ぶりに嫌気がさし、協力関係を破棄して、目覚ましい興隆を見せ始めたサラーフ・アッ=ディーンと共闘関係を結んだのだった。
ラシードは、ジザルディ山の戦いでフランク人騎士の強さを経験し、その対抗策を練り、騎士の重装備に対抗するためにニザール軍の防具を強化し、さらにカスケやマイユ《鎖帷子》さえも貫けるウォーピックをニザール兵の正式武器として取り入れた。
サラーフ・アッ=ディーンの才知に長けた戦略により、戦いでフランク人軍-エルサレム軍・十字軍-を相次いで破りはじめ、そしてついにアル=クドゥスを奪還することが出来た。
アリックスとザフィーラは、サラーフ・アッ=ディーン軍によるエルサレム包囲が始まった時、あらかじめそれを予想していたザフィーラは、包囲で血迷ったキリスト教徒たちに残酷なことをされるのを避けるために子ども二人といっしょに秘密のトンネルに潜んだ。秘密のトンネルには、ザフィーラがすでに数ヶ月分の食料と水を保存していて、そこで包囲戦が終わるまでいたのだ。
ラシードは、ニザール軍とともに占領したアル=クドゥスに入城し、宮殿で15年前の戦いでファーティマ軍が敗走した時、しかたなく置き去りにしてしまった妻の娘-アリックスに逢ったのだった。それも可愛い孫といっしょに。
ラシードは、アッラーのおかげだと狂喜し、アリックスをこれまで育て、孫のタキーユ・ッ=ディーンとともに面倒を見てくれたザフィーラを養女にすることを決め、息子のサフル=アーキルもタキーユ・ッ=ディーン同様自分の孫として育てることにしたのだった。
アリックスは、ザフィーラを本当の姉のように慕っていた。
ローランを知り、一目惚れし、愛し合うようになってから、ザフィーラもローランを愛しているということに気がついた。おたがい女同士、それも14年近くもいっしょに暮らしているのだ、それぞれが何を考えているか、どんな気持ちなのかがわかるまでになっていた。
そうなれば話は早い。アリックスは、ローランの愛情をザフィーラにも分け与えることを望み、ザフィーラは生来の慎重な性格もあってためらったが、結局、一生“ヴィユー・フィーレ”として過ごすより、ふつうの女らしく生きることを決意し、ローランに抱かれたのだった。
それからは、下町の二階家でランデヴーの度に二人は抱かれるようになっていた。
そして、ほぼ同時期に二人は妊娠し、同時期に男の子を産んだ。
-∞-
アリックスがミレーヌと会ったのはエルサレム陥落のあとだった。
ミレーヌは、美しい娘に成長したマリー=フランソワーズと5歳になったウーゴとを連れて大きなお腹で宮殿にアリックスたちに会いに来たのだ。
ミレーヌはアリックスとザフィーラのことを知っていた。
二人にローランの子どもがいることも知っていた。
「ローランが愛した女性が、どんな人か見てみたかったの」
そう言ってミレーヌは微笑んだ。
マリー=フランソワーズは、睨みつけるような目でアリックスとザフィーラを見ているだけで、一言もしゃべらなかった。
「ごめんなさい、アッ=サイイダ・ミレーヌ」
「言い訳のしようもありません、アッ=サイイダ・ミレーヌ」
アリックスもザフィーラも目を伏せた。
「ははは。やめてちょうだい。プランセスに頭を下げてもらいたくて来たのじゃないのよ」
「え?」
「?」
「ローランが愛した女性って、どんな女性だろうって思って来たの。やっぱりローランは面食いね。ふふふっ」
二人ともあっけにとられた。
「フランにウーゴ。このの男子たちは、あなたたちのボッフォールなのだから挨拶しなさい。もう二度と会うことはないのよ!」
「ふん。マリー=フランソワーズよ!」
「ウーゴだよ。いっしょに遊びたいな」
「ナゥム!」
「いっしょに遊んでいい、ウン?」
「少しの間ならいいわよ、タキーユ」
「ウン、ウン、ボクも遊んでいい?」
「いいわよ。ウーゴは小さいから気をつけるのよ」
「ナゥム!」
男の子たちが遊んでいる間、三人は部屋でカワワを飲み、ローランの思い出を語り、笑い、泣いた。
マリー=フランソワーズは、最初のうちは弟が二人のボッフォールと遊ぶのを見ていたが、ミレーヌたちが楽しそうにおしゃべりしているのを見て、そろそろとテーブルに近づき、とうとう一緒に座ってしまった。
「アリックスさんも、ザフィーラさんも、パパを愛していたか知らないけど、パパとマモンはとても仲が良かったのよ!マモンは知っていたの。パパにほかにアモールがいるって...クスン...クスン 」
マリー=フランソワーズは涙を流しはじめた。
「でも...でも、マモンは怒らなかったわ。『いいこと、フラン。男っていうのは、ラマンが出来ても、本当に愛している女がいれば、必ず家に帰ってくるのよ』って!」
マリー=フランソワーズは泣きじゃくっていた。
「パパは... エーン マモンを エーン... 心から愛していたんだから エ――ン」
「もういいのよ、フラン... パパが愛した女性たちが、こんなステキな女性たちってわかって、私も安心したわ」
ミレーヌも涙を滂沱と流していた。
だが、それは悲しくて泣いていたのではなかった。
ローランが恋しくて泣いていたのだ。
-∞-
アリックスとザフィーラは、十日前にミレーヌから手紙を受け取っていた。
『エルサレムを無くし、愛する人を亡くした私には、もうここには安住の地はありません。
私は愛する人の忘れ形見・リュックを連れて、私とローランさまの故郷へ帰ります。
アリックスとザフィーラ、あなたたちがタキーユとサフルと末永く、エルサレムの地で幸せに暮らせることを祈っています
ミレーヌ・ドゥサン=ルミー』
ミレーヌがマルセイユへ向かう船に乗るのは、アッコの港だからだと聞いた。
“さようなら、ミレーヌ。ローランさまの故郷デイジョンで、フランとウーゴと生まれて来る子どもと三人で幸せに暮らして...”
アリックスは無言でアッコの方角を見て別れを告げた。
ミレーヌたちを乗せた船は、すでにアッコを出て地中海を航行しているかも知れない。
エルサレムでローランと過ごした幸せな時間を思い出すと、なぜか涙が止まらなかった。
「ウン、ザフィーラおばさんが、早く食べないと料理が冷えますって言っているよ!」
「ウン、アルジャードゥが早くおいでって呼んでいるよ!」
「ありがとう、タキーユにアーキル。さあ、朝食を頂きに行きましょう!」
「タキーユ、駆けっこだ!」
「ナゥム!」
タキーユとアーキルが走って行く。
「タキーユ、アーキル急いで走ったら転ぶわよ!」
アリックスは、涙をぬぐって子どもたちのあとを追う。
時は10月。
エルサレムには再び秋が巡って来ていた。
王都内には、パンクラチューム白い花、サフランやクロッカスの紫色の可憐な花、黄色いステルンベルギアの花などが庭園に花壇に咲き乱れ、アネモネも赤、紫、白、ピンクの花を競うように咲かせていた。
古代より『平和の町』と呼ばれてきたエルサレム。
だが、このムスリムにとっても、ユダヤにとっても、カトリックにとっても“聖なる町”は、
その町に咲く花の数以上に民の命が失われ、兵の血が流され続けてきた。
しかし、エルサレムに咲く花は、そんな血なまぐさい人間の歴史とはまったく関係なく、今日も平穏に咲き、街を彩っていた。
第一部 カナンの地は、この章で完結します。
ご愛読、ありがとうございました。
続編はただいいま一生懸命にプロットを考案中です(;^ω^)
* ヒジュラ歴は正しく計算されていません。(難しすぎます(;^ω^))




