第21章 将星落つ
主の年 1185年3月16日 土曜日。
ボードワン4世が崩御した。
僅か23歳という若さだった。
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サラーフ・アッ=ディーンとの停戦はわずか2年間しか続かなかった。
アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンが、自分の領地ケラックを通過したムスリムの隊商を攻撃したことで停戦協定は破られたのだ。
ルノー・ド・シャティヨンは、強引なやり方で味方だけでなく敵からも嫌悪される男だった。
アンティオキアの総大司教であったエムリー・ド・リモージュに軍費の負担を要求し、それを拒んだエムリー総大司教を監禁して拷問にかけて軍費を獲得。キプロス島を自分の部隊に襲撃させた際には田畑と建物を破壊させ、島の住民を暴行、誘拐、殺害し、さらにルノーはキプロス島の正教会の聖職者をすべて集めて彼らの鼻を削ぎ落とし、コンスタンティノープルに送り返しという非道までやってのけた“鼻つまみ”の嫌われ者だったのだ。そんなルノーにとって、訂正ん協定を破ることなど、聖職者の鼻を削ぐよりたやすいことだった。
不埒なルノー・ド・シャティヨンの暴挙に怒ったサラーフ・アッ=ディーンは部隊を送り、ムスリム隊商を攻撃したルノーの兵たちを皆殺しにし、それをきっかけに軍事行動を再開した。不確かな情報だが、ルノー・ド・シャティヨンが襲わせた隊商の中にはサラーフ・アッ=ディーンの妹がいたという。サラーフ・アッ=ディーンが激怒したのも当然だ。
ローランたち、テンプル騎士団にとっても、また修羅の日々が再開することになった。
主の年1182年7月のベルヴォア要塞の戦いには辛うじて勝利したものの、その後もサラーフ・アッ=ディーンはシリア、メソポタミアと軍事作戦を続け、アレッポや他の多くの都市を支配下に治めた。
主の年1183年になると、ボードワン王の病状はさらに悪化し、支えなしに歩くことも手を使うことも出来なくなった。さらに瞬きさえも出来なくなっため角膜が乾燥し、失明してしまった。
余命いくばくもないと知ったボードワン王は、早急に王位継承問題を解決する必要があった。
最有力候補はトリポリ伯レーモン3世だった。レーモン3世は聡明で良識があり、サラーフ・アッ=ディーンとも個人的に親しく、ボードワン王に最も近い血縁であった。
しかし、男子継承より近親継承を優先する風習を重視したボードワン王は、1183年11月にわずか8歳のシビーユの息子ボードワン5世を後継者とすることを決定し、レーモン3世に摂政を委譲すると3月16日に従容として亡くなった。
聖墓教会でオーヴェルニュ大司教の司祭で行われたミサには、エルサレムの市民が多く参加したが、あまりにも人数が多すぎて大礼拝室には入り切れず、神殿の丘は王の死を悼む市民でいっぱいになった。
病身ながらも何とかエルサレム王国を纏めていたボードワン4世の死により、エルサレム王国は大きな支柱を失った。悪いことは重なり、翌年、ボードワン5世が夭逝した。9歳になったばかりの若すぎる王の死は、まるでエルサレム王国の将来を暗示するかのようだった。
ボードワン5世の死により、宮殿ではまた醜い権力争いが始まったが、エルサレム王国の内部抗争を嘲笑うかのようにサラーフ・アッ=ディーンはエルサレム王国への侵略と略奪を続けた。
サラーフ・アッ=ディーンの狙いは、エルサレム王国の弱体化だった。
サラーフ・アッ=ディーンの兵たちの絶え間ない襲撃と略奪は、エルサレムの農民たちに大きな損害をあたえた。農民が収穫をすることが出来なければ税を納めることは出来ず、エルサレム王国の財政は悪化し、金がなければ兵に支払うことも出来なくなる。農村の荒廃は、最終的にエルサレム王国を非力にしつつあった。
主の年1186年、ボードワン5世が亡くなったあとで、シビーユは夫のギー・ド・リュジニャンと離婚することを条件にエルサレム女王に即位した。
だが、シビーユは即位後、すぐにギーを国王に戴冠させた。
シビーユは、ギーの反対勢力が出したギーとの離婚条件を飲む代わりに、新しい夫は自分が決めるということを交換条件として要求していたのだ。そして、エルサレム女王となった彼女が新たに夫として選んだのがギーと言う、反対勢力を見事に欺いた企みだった。
こうして、エルサレム王国の運命は二枚目というだけで能無しのギーと浅はかな考えしかできないシビーユの手に委ねられることになってしまった。
ボードワン4世家系図
主の年 1187年7月2日。
サラーフ・アッ=ディーンは軍を率いてダルブ・アル=ハワルナフ街道を東に進軍し、ガリラヤ湖西岸にあるティベリアをほぼ制圧し、さらにトリポリ伯爵レーモン3世の妻エスティヴァが住んでいたティベリアの城を包囲した。ダルブ・アル=ハワルナフ街道は、ローマ人により建設された街道で、地中海沿岸よりガリラヤ湖を経てヨルダンの浅瀬へと東西に通じる主要道路だった。
エルサレム王ギー・ド・リュジニャンとトリポリ伯爵レーモン3世は、エルサレム軍と十字軍からなる主力部隊を伴ってアッコン要塞に滞在していた。
テンプル騎士団もウード・ドゥ・サン・アマンに代わってテンプル騎士団団長となったジェラール・ドゥ・リデフォールに率いられて十字軍とともにいた。
テンプル騎士団に入って10年になるローランは歴戦のベテランになっていた。
年は30歳、幹部候補となって、ウィラームとともにギョームを補佐していた。
エルサレム王国の主力部隊は、テンプル騎士団、ホスピタル騎士団、聖ラザロ騎士団、モンテ・ガウジョ騎士団などからなる1200人の騎士とエルサレム兵3000人、そのほかにイングランド王ヘンリー2世がエルサレム王国支援のために雇って送りこんで来た数千人の傭兵。ターコポール(トルコ)弓騎兵と軽騎兵 500人に歩兵1万5000人。それらを合わせると総勢約2万人以上という大軍だった。
キリスト教軍の目的は、聖地を守るエルサレム王国の存続を脅かすサラーフ・アッ=ディーン軍を壊滅させることだった。
軍の編成が多岐であれば、その分、司令官も多かった。
エルサレム王国のギー・ド・リュジニャン王、トリポリ伯レーモン3世、イベリンのバリアン、ルノー・ド・シャティヨン、テンプル騎士団団長ジェラール・ド・リデフォール、ホスピタル騎士団団長ガルニエ・ドゥ・ナブルス、オンフロワ4世・ドゥ・トロン、キプロス王エメリー・ド・リュジニャン2世、ルノー・ドゥ・シドン、エデッサ伯ジョスラン3世など多彩な指揮官が集合していた。
「いやあ、作戦会議は侃侃諤諤だってさ!」
ギョームがうんざりしたような顔でもどって来た。
ギー王は主だった指揮官を集めて、アッコン要塞の中でティベリアで十字軍を待ちかねているであろうサラーフッディーン軍にどう対処するかが話し合っているのだが、騎士団の幹部であるギョームもそれには参加できないので、会議室の近くにほかの幹部たちといっしょに待機して、時たま会議室から出て来る団長を通路でつかまえて話しを聞いて情報を得ているらしい。
ローランたちテンプル騎士団は、ほかの騎士団や十字軍などとともに要塞の外にテントを張って野営していた。人口が3万人にもたらないアッコの町の中に2万人を超える軍が駐留することは無理なので、エルサレム王など主だった指揮官や高級貴族だけが要塞の城壁内で過ごしていた。
「それで、どんな作戦になるんですか?」
「トリポリ伯爵がだな、守るのに有利なセフォリアに向かう方がいいとかなり強く言ったらしいんだがな... 強硬派のルノー・ド・シャティヨンが、「そんな弱腰では、みんなからギー王は臆病者だと謗られる!」と言ったらしいんだ」
「臆病者... 新王が、一番気にしそうな言葉ですね」
「だよな?あのルノー・ド・シャティヨンのヤツ、うまいことギー王を焚きつけやがって!」
「じゃあ、我々はティベリアを救援するために行くんですか?」
「そうなるだろう... ほら、見ろ、ゲートを。みんな続々と出て来たぞ!」
たしかアッコン要塞のメーンゲートから、指揮官たちや高級貴族たちが小走りで出て来るのが見えた。
7月2日の午後、十字軍はセフォリスに到着した。
セフォリスで水を補給した軍は、ティベリア目指して行軍を開始したが、十字軍の殿を務めていたテンプル騎士団は、早々にサラーフ・アッ=ディーン軍の小部隊による奇襲、待ち伏せ攻撃に遭遇した。
弓騎兵による攻撃ほどやっかいなものはない。敵はアーク・コンポジティを使って、300トワーズの距離から矢を放って来るのだ。
重装備のテンプル騎士は、ほとんど被害を受けないが、従者がやられるし、馬もやられる。
テンプル騎士は代えの馬を3頭ほど持っているが、セルジャンは一頭しか持ってないので、馬が倒されたら徒歩で行軍するしかない。従者が倒されれば、テンプル騎士といえどその活動がかなり制限されてしまう。
襲撃を受けるとテンプル騎士たちは隊列を作って弓騎兵部隊を追うが、すると隠れていた別の敵部隊に奇襲される。方向転換して奇襲部隊と対峙すると、今度は逃げて行った弓騎兵部隊がもどって来て攻撃する... といった、進軍速度を著しく損ない、十字軍に絶え間ない緊張を強いることになった。
「クソっ、忌々しい奴らだ!」
ティボーが、毒づく。
彼も馬が二頭とも矢でやられ、従者を一人すでに失っている。
「それにこの暑さだ。こんなにチンタラ行軍していたら、すぐに水が亡くなるぞ」
リシャールがヒツジの皮袋にはいった水を飲みながら言う。
その皮袋はもうかなりしぼんでいる。
気温は35度を超し、乾ききった風が砂塵を巻き上げながら隊列を襲う。
ローランの顔は密封されたカスケ中でも砂だらけになっていた。
細かい砂塵は、どんな隙間からでも入ってくるのだ。唇は渇き切って、いくら水を飲んでもまだ飲み足りない感じがするが、行軍は遅れており、いつティベリアに到着できるか予想もつかないので、水は倹約しなければならない。
前方を行くターコポール兵たちは、暑さに慣れているようだが、アラゴン王国から遠征して来たモンテ・ガウジョ騎士団などは、すでに水を飲み干した従者や馬を失くした騎士たちが、隊列を離れ、砂地の上に倒れたり、座りこんだりしている。
それを見たテンプル騎士の従者たちが水を飲ませたりしているが、その水もいつまで持つかわかならない。
「おおい!我々は水を補給するためにヒッティーンの泉に向かうそうだーっ!」
ギョームが団長からの知らせを伝えに来た。
カスケを外してる彼の顔にも疲労が見える。
「おお、ギー王さんは、ようやく俺たちを脱水症状から救う気になったか」
「暑い... だが、ヒッティーンの泉は大丈夫なのか?」
ウィラームがローランの横に馬を進めて来てボソっとつぶやいた。
ローランとウィラームの装備は、ほかの騎士たちよりも鉄板が多い分、暑さもよけいに感じる。
だが、これまでの経験で、この重装備が何度も命を救ってくれたのだ。
暑いからと言って外すわけにはいかない。
ウィラームが心配しているのは、十字軍の行動を逐一監視しているサラーフ・アッ=ディーンは、十字軍がヒッティーンの泉にルートを変針したことを知って、必ず何か仕掛けて来るだろうということだ。
「今度ばかりは、神に祈るしかないかも知れませんね...」
めずらしく弱気っぽいローランを見て、ウィラームがカスケの目の隙間から見ている目が大きく見開かれた。
あまりの暑さで頭がクラクラする...
サラーフ・アッ=ディーン軍の奇襲部隊の攻撃の度に、数キロ走っては隊列にもどる。
もどったと思ったら、今度は反対側から奇襲される。そんなくり返しでローランもみんなも疲れ切っていた。
時刻は午後4時ころか。このままではヒッティーンの泉に到着する前に夜になってしまい、水もないところで野営するハメになってしまう...
“あの夜、オレがシビーユを殺さなかったのは間違いだったのか?...”




