第20章 オラクル
主の年1180年 5月14日 午後。
エルサレム宮殿
ローランは、淹れたての熱いカワワをゆっくりと味わった。
「ふぅ~っ、目がいっぺんで覚めたわ」
シーツを体に巻いただけのアリックスが、飲み干したカップをザフィーラに渡しながら嬉しそうに言う。
「それはようございました」
ザフィーラがカップを銀のトレーに置きながら、無言のローランを見る。
ローランは、先ほど淹れたてのカワワが入ったカップを渡した時に「メルシー」と言ったきり、黙ってカワワを飲み、すでに空になったカップを手に持ったままで椅子に座っている。
さすがに騎士なのでザフィーラの前で裸ではなく、リネンのブレー姿だ。
「ムッシュ・バロン、カワワ、お代わりしましょうか?」
「ウイ。お願いするよ」
ザフィーラがカップを受け取り、カワワを注いで渡すと、一口飲んでからまた下を見る。
「ローランさま。何か心配事でもおありなのですか?」
アリックスも気がついて訊く。
「... 実は、ある事をしなければならないんです」
「ある事?」
「男爵さまがお悩みになられるほどの事なのですか?」
アリックスが、新しく注いでもらったカワワのカップを手にしたままでローランを見る。
「ウイ。実は... シビーユさまにお会いしなければならないんだ」
「え? シビーユさまに?」
アリックスが目を大きく開けた。
シビーユは、先王アーモリー1世とムスリム人愛妾の娘なので、年は離れているがシビーユとは異母姉妹という間柄になるのだ。それはザフィーラもいっしょなのだが、ザフィーラの方はやはり驚いているが、アリックスのように大げさではない。
「シビーユさまにお会いして、何を話されるのですか?」
「それは、あなたたちには言えない。巻きこみたくないから」
「ああ...」
アリックスもザフィーラも、ローランの言葉の意味を理解した。
王宮ほど欲と利害が絡み合った権謀術数の渦巻くところはない。
十字軍勢力をバックとする宮廷派とトリポリ伯レーモン3世、アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンなど有力貴族をバックにする現地貴族派の勢力争いが絶え間ないことは、王宮に関係のある者なら誰でも知っていた。
そして、そんな世界で無事に長生きする秘訣は、自分に関係のない事には首を突っ込まないことだった。
「つまり、ムッシュ・バロンは、シビーユさまにお会いしたいけど、どうやって近づいたらいいか、わからないと言うのですね?」
さすがザフィーラ、ヴィユー・フィーレだけあって、だてに年をとってない。
「オゥ、ウイ。それで悩んでいたのね?」
アリックスも、ようやくローランが何を考え悩んでいたかがわかったらしい。
「まさか、バロン・ローランさまは、シビーユさまを抱きたいなんて思っていませんわね?」
アリックスが、とんでもないことを訊く。
「プランセスっ!?」
ザフィーラが、アリックスをたしなめる。
「パルドン。だって、シビーユさま、とてもお美しいんですもの...」
「オレは、30過ぎのシビーユさまを抱くよりも、17歳の若い子の方がいいな!」
「ジュテーム、ムッシュ・バロン...」
アリックスが頬を赤くする。
「シビーユさまは、29歳です。30過ぎではありません」
どういうわけか、ザフィーラがシビーユの年齢を訂正した。
「24歳のマドモーゼレでもいいけどな!」
「ム、ムッシュ・バロン?...」
めったに動じないザフィーラが赤くなった。
それがめずらしいので、ローランが見ていると、後ろを向いてしまった。
「そうねぇ。ザフィーラなら、バロンさまに抱いていただいてもよろしくてよ?」
からかいに関してはアリックスも頭の回転が速いらしい。
「な、何をおっしゃっているのですか、プランセス!?」
さすがのザフィーラも当惑顔だ。
「秘密のトンネルしかありませんね...」
ザフィーラが、話題を変えた。
「あ、そうね、秘密のトンネルなら、衛兵に見つからずに王宮に入れるわね?」
.........
.........
秘密のトンネルは、地上の通りに沿ってくねくね曲がって進んでいた。
あれからローランは一度家に帰ってから出直して来た。やっぱりまだ明るいうちは発見されやすいし、シビーユも宮殿のどこにいるかわからないし、運よく見つけることが出来たとしても、侍女とかほかの者がいるので発見される可能性が高い。
もし、見つかれば、いくらテンプル騎士といえど、許可もなく宮殿の中を歩き回っていれば不審者として衛兵に掴まってしまうので、夜になってから忍びこむことにしたのだ。
秘密のトンネルは、ところどころに排水口のような鉄格子がはまった明り取りが天井にあるので、ランプなしでも歩ける。このトンネルの上を毎日エルサレムの市民が、何も知らずに歩いていると思うと、ローランは奇妙な感じがした。
いや、それどころか、彼自身歩いたかも知れないし、ミレーヌがフランといっしょに買い物かごを下げて歩いたかも知れないのだ。
秘密のトンネルは、かなり古かった。そして長かった。
どうやら、十字軍によってエルサレムがイスラム教徒たちから奪還されるよりもずっと昔から存在していたようだ。石造りのトンネルの壁には、ところどころにヘブライ語で書かれた落書きだか、祈りの言葉だかわからない言葉が刻まれている。
「もう少しです、ローランさま」
前を行くアリックスが、後ろをふり返って元気づけるかのように言う。
「それにしても、よくこんな抜け穴見つけたものだな」
「ふふふっ。このトンネル、ボードワン王陛下もシビーユさまもご存じないのですよ」
「え?じゃあ...」
「そう。私たちだけが知っているの!」
「宮殿でも、限られたムスリムしか知りません」
アリックスの母親はどうやらセルジューク軍の貴族、それも将軍クラスの貴族の妻だったらしい。
敗走したセルジューク軍のその貴族に置き去りにされた母親は、見目麗しく若かったこともあって、エルサレム城に捕虜として連れて来られ、アーモリー王の愛妾となった。
そんなアリックスの母親の素性を知ったムスリムの女奴隷が、宮殿から逃げ出せるようにとごくわずかなムスリムだけしか知らなかった秘密のトンネルの存在を教えたのだそうだ。
結局、アリックスの母親はアーモリー1世の元から逃げ出すこともなく、アリックスを産んだのちに産後の肥立ちが悪くなって死んでしまった。
「まあ、死ななかったとしても、ウンは逃げ出さなかったでしょうけど」
「え、どうしてだい、アリックス?」
「だって、ウンは、アーモリー王陛下を愛していましたもの」
アリックスは誇らしげに言った。
「着きましたわ」
トンネルは勾配になっていて、そこをかなり歩いたところ-たぶん、神殿の丘だ-は行き止まりになっていて、上へ上がる石の階段となっていた。
石段を3階分ほど上がると石で塞がれた壁に出たが、ザフィーラが端についている鉄の取っ手を引っ張ると、内側に開いた。
そこは衣料室だった。
壁一面に数えきれないほどの色とりどりのブリオーやチュニックが壁にそって吊るされている。
美しい刺繍が袖口や胸元にあるのを見ると、すべて女性用のようだ。
「ここは、アニェス・ド・クルトネーさまやシビーユさまたちが着なくなった衣料をしまっておく部屋なのです」
「うふふ... 私もちょくちょくお借りしています」
アリックスが、チラッと舌を出す。
「私たちが先に行きますので、少し離れてあとをついて来て下さい」
ローランは、もし誰かに会っても怪しまれないように、さっきの衣料室で借りた女物のブリオーを着て、顔をザフィーラが用意したヒジャーブで覆っていた。
幸い、誰にも行き会うこともなくシビーユの寝室がある奥にまで来ることが出来た。
「私たちは、そこの部屋でお待ちしています」
低い声で言うと、ザフィーラはその場にいたそうなアリックスの手をとって廊下沿いの部屋の一つに入った。
ローランは二人が部屋の中に消えるのを見て、足音を立てないようにシビーユの部屋に近づいた。
女物のブリオーの下に着ているコーテのベルトに差しているクトーの柄を握りしめた。
-∞-
(ローラン あなたは シビーユを 殺さなければなりません)
夢の中で、その者は驚愕するようなことを言った。
リタニ川の戦いでエルサレム軍が惨敗を喫したあと、あの不思議な夢の中の声に導かれて水を見つけ、無事にブーフォール城までたどり着くことが出来た。
それから2週間かかって、ようやくエルサレムに帰還することが出来たのだが、一ヵ月ぶりに家族と再会でき、ミレーヌもフランも涙を流して抱きついてよろこんでくれた。
その夜、フランといっしょに横になって寝かせつけた後で、ローランとミレーヌは激しく愛し合った。
ミレーヌは、ローランから荒々しく愛されながら、涙を幾筋も幾筋も流した。彼女は今回こそは、愛する夫も天に召されたものと半分観念していたのだ。
それが生きて還って来たのだ。
それもボードワン王陛下をただ一人お守りして。
ボードワン王が無事帰還して、そのことをみんなが知ると大騒ぎになった。
「陛下を一人で守ったテンプル騎士は、俺のヌーヴォ・ペチフィなんだ!」
ヴァランタンは自慢をして回り、ウード・ドゥ・サン・アマン団長も
「アイツは儂が入団させたんじゃよ。最初から“見どころのあるヤツじゃと思ってな!」
誰彼構わずに自慢をして回った。
ミレーヌにとって、そんなことはどうでもよかった。
不遜ながら、彼女にとっては王陛下が無事であったことより、愛するローランが無事であったことが何よりうれしくて、ヤッファ通りをボードワン王一行とともにローランが通り過ぎたあとで家に駆け戻り、リビングルームの壁に安置してある十字架の前に跪いて神にお礼の祈りを長い時間したくらいだ。
一ヵ月ぶりに夫に愛されて、涙の後を残したまま幸せそうに寝息を立てているミレーヌを見ていると、ローランも疲れがたまっていたのだろう、自然に寝入ってしまった。
また、あの『カナンの地』の夢だった。
ローランは、鳥のように自由に飛んで見て回っていた。
緑豊かな山野には野ウサギや鹿がいて、川にはさまざまな魚がたくさん泳いでいる。
肥えた平野には、野生のベリーやイチジク、ブドウの木があり、たわわに実がなっている。
オーツ麦や大麦、それにエンドウ豆やレンズ豆なども、ローランが想像した通り、陽の光に重そうな穂を光らせたり、はち切れんばかりの青々とした莢が下がっている。
(ローラン あなたは シビーユを 殺さなければなりません)
そんな天国のような楽しい夢をぶち壊すような感じで、その声が聞こえて来た。
「え、シビーユさまを殺す?」
(そうです シビーユを 殺さなければ 『カナンの地』は実現しません)
「し、しかし...」
(あなたは 愛する者といっしょに 幸せに暮らしを 続けたいですか?)
突然、目の前の景色は消え、ローランは部屋の上の方からベッドに眠っている彼自身とミレーヌを見ていた。なぜだか、ミレーヌの顔に涙の乾いたあとがハッキリと見えた。
そして子ども部屋に寝ているマリー=フランソワーズ のあどけない寝顔も。
「パパ パパ...」
とマリー=フランソワーズ は寝言を言っていた。
場面は一転して、また『カナンの地』の風景になった。
そして、色とりどりの花が咲き乱れる草原をローランとミレーヌが、フランの手を二人で左右から持ち上げて宙ぶらりんにして駆けている。
フランがキャッキャッと騒ぎ、ミレーヌも楽しそうに笑っている。
そんな二人を見るローランも笑顔で幸せそうな顔だ。
(『カナンの地』を 現実のものとするためには シビーユを 殺さなければなりません...)
「なぜ、オレが?!」
自分の叫び声で目を覚ました。
-∞-
シビーユは立派な天蓋付きのベッドで寝ていた。
開け放った窓からは、気持ちのいい夜風がカーテンを揺らしている。
夜になっても暑いので、シビーユは薄い薄いリネンのシェーンズを着て寝ていた。
ベッドに近づいたローランは、腰のベルトのクトーの柄をにぎった。
シビーユは掛けシーツはかけず、薄いシェーンズを一枚着ているだけなので、夜目にも女らしい身体の輪郭がわかる。盛り上がった豊かな胸は呼吸をするにつれてシェーンズの胸元を上下させているし、丸っこいオシリのシリョンまで薄いシェーンズ越しにハッキリと見えている。
“何と無防備な...”
まあ、警備が厳しい宮殿の奥の寝所にまで忍びこむヤツはいないだろうから、こんなに無防備で寝ていられるんだろうが、正直言ってシビーユの寝顔は美しかった。
“どうしても、シビーユを殺さなければならないのか?”
自問自答した。
しかし-
夢の中の声は、シビーユを殺さなければ『カナンの地』は実現しない、
ローランも幸せになれないと告げたのだ。
ローランはクトーを抜いた。
オラクル(oracle)は「託宣」「神託」を意味する言葉です。




