第19章 ミッション
主の年 1799年9月。
ヴィレ・ドゥ・エルサレム
エルサレムの町は、重苦しい空気に包まれていた。
リタニ川の戦いで破れ多くの将兵の命が失われ、続いて北方の守りの要衝となるはずだったシャステレ要塞も完成直前にサラーフ・アッ=ディーンによって陥落され、さらに多くの将兵が亡くなってしまった。ボードワン王でなくとも、ひしひしと迫る不安を感じるのが当然だろう。
主の年1095年11月のクレルモン教会会議で、マラズギルトの戦い以降セルジューク朝に圧倒されつつあったビザンティウム帝国の皇帝からの援助要請を好機ととらえたウルバン法王の“聖地をイスラム教徒の手から奪回しよう”と言う呼びかけに応える形で、フランスの諸侯が第1回十字軍を編成してウルバン法王が演説で引用した「乳と蜜の流れる土地カナン」へ長い旅の末到着し、エルサレムを包囲・陥落したのが主の年1099年だった。
以来20年。さすがに周りをイスラム教の国に囲まれ、地元民もイスラム教徒が圧倒的に多いという地理的条件は、エルサレムなどのキリスト教国家にとっては存続することは大へん困難だった。
エルサレムでは、損失した兵力の増強が喫緊の課題だった。
テンプル騎士団も急いで欠員を補足しなければならないが、騎士になれる貴族は少ないのでセルジャンを増やすことになり、その育成係というか教育をするためにベテランの騎士たちが駆り出された。
とは言っても、40代とか超ベテランの騎士などは当然そんな事をやるわけがなく、ローランやウィラームたちたち若手騎士がその役目をすることになったのだが。
新米セルジャンが覚えなければならないことは多い。多少剣が使えるくらいでは、実戦ではほとんど役に立たない。テンプル騎士の戦いは、グループ戦術だ。馬に乗っての突撃にせよ、馬から降りての戦いにせよ、自分の前にいる敵を倒すだけでなく、横にいる仲間を補助しながら戦う術も覚えなければならない。
それに加えて剣技だ。ローランは、ヴァランタンも認めるほどの腕をもっていることもあり、剣技の教官みたいな役をやっていた。
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主の年1180年、サラーフ・アッ=ディーンはボールドウィン王とトリポリ伯爵レーモン3世との間で停戦協定を締結した。リタニ川の戦いの翌年で、サラーフ・アッ=ディーンは長年に渡った戦いによる流血をこれ以上防ぐために停戦を申し込んだのだった。
エルサレム王国にとっても、ローランにとっても平穏な時期がしばらく続いた。
ローランは24歳、ミレーヌは21歳になった。うれしいことに、この年の4月、二人に男の子が生まれた。4月1日生まれなのでファーストネームはウーゴとし、セカンドネームを祖父にちなんでガエタンとした。
母親譲りのヴェールの目と父親譲りのシャタン・フォンセの髪でフラン同様、色の白い男の子だった。
フランはすでに5歳になっていて、ミレーヌは毎月カチミニがあったが、それでも妊娠はしなかったので、もう子どもは出来ないと思っていただけにローランもミレーヌも妊娠したと分かった時には大へんよろこんだ。マリー=フランソワーズは弟が生まれたので大喜びした。
主の年1180年 5月14日。
ヴィレ・ドゥ・エルサレム
ローランは朝のうちにザフィーラから言伝を受け取った。
待ちかねたアリックスとランデヴーの日だ。しかし、テンプル騎士としての日課は毎日ある。
ローランは、今日も朝から昼過ぎまで新米セルジャン相手に戦いの訓練に汗を流した。
新米セルジャンが覚えなければならないことは多い。多少剣が使えるくらいでは、たっぷりと訓練をし、午後からはほかの騎士が担当する馬術の訓練なので、いつも通りに独身者用の宿舎で汗を流し、身づくろいをしてから茶色のフード付きキャソックを着て神殿の丘を下って行った。
季節は初秋。気温も25度と凌ぎやすい。
宮殿の広大な庭や家々の花壇には、エルサレムセージやキバナキセワタの黄色い花やフロミスの紫色の花、フルティコサのピンクの花が美しく咲く時期になっていた。
エルサレム王国を取り巻く状況は厳しい者があるが、エルサレムの住民の日常は変わらない。
子どもたちは通りで駆けまわっているし、主婦連中は午後のカワワを飲みながらおしゃべりや噂話を相変わらずしているし、老人たちは日当たりの良いベランダに座り、コックリ、コックリと気持ち良さそうなシェステをしている。
誰にも見られてないことを確認してから、鍵を開け二階家に入る。
今日も家の中はカワワの甘い香りがする。キッチンを見ると、カワワを淹れたらしい跡があった。
階段を上がると、香りはさらに強くなる。カワワの匂いを嗅いだだけで、ローランは飲みたくなった。
部屋のドアは開いていた。
窓際の小さなテーブルには、いつも通りアリックスが座っていた。
テーブルの上には銀のトレーに乗せた銀製ポットと陶器のカップが三つ、それに小皿に乗せたスッカルの小さな塊がある。
「ローランさま、お会いしたかった!」
ローランを見るとアリックスは目を輝かせて立ち上がり、抱きついて来た。
そしていつも通り熱いベーゼとなった。
若い二人がベーゼをしている間、ザフィーラはカワワをカップに注いでいた。
「ムッシュ・バロン、プランセス、カワワが熱いうちに召し上がれ」
「ウイ。ローランさま、カワワをザフィーラと一緒にいただきましょう」
「メルシー」
三人で座って熱いカワワを飲む。
エルサレムで飲まれるカワワは、カワワ独特の苦さと酸っぱさに、ライモンに似たカルダモンのピリッとした辛さと清涼感を感じさせる香りが入り混じった独特の味は、ローランでなくともヤミツキになるというものだ。
侍女のザフィーラは、その時になるまで、もうとなりの部屋に行くこともなく、ローランとアリックスといっしょにいるようになった。
ザフィーラはアリックスの異母姉妹だった。
最初見た時は、その落ち着いた言動から30歳を過ぎているかと思ったが、まだ24歳という若さだった。
「みんなから、よく言われるんです。ザフィーラは、ヴィユー・フィーレみたいだって」
年齢を聞いておどろいたローランに、肩をすくめて苦笑いしたザフィーラだった。
ザフィーラは、アリックスとは母親が違うが、先王アーモリー1世が宮殿の侍女だったムスリム女性に産ませた娘の一人だそうだ。アーモリー1世は、アンジェルジェを祖とするフランク人貴族の家系ダンジュー家出身の王だ。
アーモリー1世には、アニェス・ド・クルトネーとマリア・コムネナと言う二人の王妃がいたが、ほかにも美しいムスリム侍女何人かに手をつけ愛妾としており、その愛妾たちが産んだ娘がアリックスとザフィーラなのだそうだ。愛妾の中には、男の子を産んだ女もいたそうだが、生まれた男の子たちは生まれてすぐあとに消息不明となったとか。
それも当然だろう。愛妾の子どもとは言え、男子なら王位継承権問題にも絡んで来る可能性があるので、おそらく宮殿の誰かが始末をしたのだろう。
ちなみに、アリックスは初めてのランデヴーの時、ローランの関心を引こうとアーモリー王の出身ファミリー名であるダンジューを名乗ったが、ふだんはダンジューは名乗らず母親のファミリーネームである、バルタージーを使っている。
一方、ザフィーラの方は、ザフィーラ・カリーマ・ウンム・クルスームというのがフルネームだそうだ。
アリックスの母親はどうやらセルジューク軍の貴族の妻だったらしく、アーモリー王の軍との戦いで破れてセルジューク軍がすべてを置き去りにして逃げ帰った時に、アリックスの母親も野営地に宝物と一緒に残されたらしい。
母親は違うが、ザフィーラは自分の母がアリックスの乳母だったこともあり、アリックスが生まれた時から面倒を見て来た姉のような存在だった。
「それでは、私は隣りの部屋に行きます」
ザフィーラが行ったあとで、二人はしばしパラディの境地を味わった。
.........
.........
ローランは、彼の首に白い腕を回したまま寝息を立てているアリックスを見て、ベッドの天蓋を見た。
運動をしたあとで、ローランはまたカワワが飲みたくなった。
だが、アリックスが抱きついているので起きることができない。起きようと思えば起きれるのだが、可愛い寝顔のアリックスを起こしたくなかった。
コンコン
「ムッシュ・バロン。入ってもよろしいですか?」
ドアが小さく叩かれ、ザフィーラが小さな声で訊いた。
「ウイ」
「熱いカワワを淹れて来ましょうか?」
「そうしてくれますか。メルシー!」
ザフィーラは銀のトレーを持って部屋から出て行った。
「カワワを淹れるまで、スッカルをお召し上がりになりますか?」
問いって、小皿に入ったスッカルを置いて行った。
スッカルは、アサブとムスリムたちが呼ぶ、節のある2~3トワーズほどの細長い木から採れる樹液を煮詰めたものだそうで、ハチミツのように甘い。
リタニ川が流れる地域(現在のレバノン)は、砂漠がなく、豊富な水が存在する。
ザフィーラが置いて行ってくれたスッカルの小さな塊を口の中に放り込むとすぐにとろけ、甘い味が広がる。
リタニ川の戦いの時に起こったことを思い出していた。
サラーフ・アッ=ディーンの計略にかかり、エルサレム軍はエジプト軍の奇襲を受け、多くの騎士や兵が亡くなった。ボードワン王も馬を倒され、ローランはギョームの命令で王を安全なところまで守って連れて行くことになった。
敵の追撃は激しく、ローランといっしょにボードワン王の護衛をしていた十字軍騎士たちは、一人二と倒されて行き、最後にはローラン一人だけになってしまった。
戦いと緊張の連続で喉が渇いたが、リタニ川の川岸にはエルサレム軍の敗残兵を探している敵兵でいっぱいなので迂闊に近づけない。しかし、病弱の王も口にこそ出さないが、かなり喉が渇いているはずだ。
ローラン一人なら、一日、二日くらい水なしでも大丈夫だが、ボードワン王はそういうわけにはいかない。
日中は敵に発見されやすいので、森の中にかくれ、夜になると歩くことにした。
幸い、このあたりはエルサレム北部の尖った石灰岩や砂岩の多い風景と違って、豊富な水があり、森もあるので隠れるのに好都がよかった。
剣で木の枝を切ってカムフラージュにして、その下に横になって夜になるまで休むことにした。
ボードワン王のために、葉のたくさんついた小枝を敷いて寝床を作ってやる。
「ローラン男爵、かたじけない」
王は礼を言って、横になるとすぐに目を瞑って眠ってしまった。
ボードワン王の寝顔を見ると唇は渇き切っていた。病弱なこともあって、激しい運動などは無理なのだが、馬を失くして徒歩で3、4時間ほど北に向かって歩き続けていた。
“このまま水が無ければ、王の命が危ない”
そう思いながらも、ローランも疲れからウトウトしてしまった。
夢を見た。森の中の谷を降りて行くと、透きとおった冷たい水の流れる渓流があった。
(ローラン 王を死なせてはなりません。ここから東へ向かえば 谷があり そこには小さな川があります)
また、あの声が聴こえた。
「東に?」
自分の声で目が覚めた。
すでに夜になっており、虫の鳴き声が聞こえる。
森の梢の間から見ると、たぶん夜の8時か9時ころだ。
ローランが身を起こしたのに気づいたのか、ボードワン王も半身を起こした。
「出発しますか?」
休んで少し元気が出たのだろう、王の言葉もしっかりしている。
「はい。まず東へ向かいましょう」
「東へ?もう、ずいぶん北へ歩いたから、東へ迂回してから南へ向かうのですか?」
「いえ。まず最初に水を探しましょう」
「わかりました」
ボードワン王は、「東に向かえば水は得られるのですか」とは訊かなかった。
王はすっかりローランを信頼していてるようだ。
夢の中の声の通り、東へ250トワーズほど歩くと谷があり、谷の底には渓流が流れていた。
「男爵... あなたは、ヴォヤンスでも持っているのですか?」
ゴクゴクと喉を鳴らせてたっぷりと水を飲んだ後で、ボードワン王は立ち上がって訊いた。
「水の匂いがした、と言うことにしておきましょう、陛下」
「水の匂いですか...」
護衛の騎士がもっていた皮袋を持って来ていたので、それに水を入れる。
少し重いが、これであと二日は持つだろう。
それから三日かけて、ローランはようやくブーフォール城にたどり着いたのだった。
「さあ、熱いカワワが出来ましたわ。プランセスもカワワが熱いうちに召し上がりませんか?」
ザフィーラがドアを開けて入って来た。
香しいカワワの匂いが部屋中に広がった。




