第18章 血路
主の年 1179年6月10日 夕刻。
リタニ川のとある場所。
血で血を洗う激戦が始まった。
テンプル騎士たちは、20人ずつくらいのフォルマーションで、それぞれ戦っている。
しかし多勢に無勢だ。前方からだけの敵ならまだしも、横からも後ろからも攻撃される。
サラーフ・アッ=ディーンの軍は、すでにエルサレム軍を完全に包囲していた。
「ボードワン王陛下を守れっ、陛下を――っ!」
ウード・ドゥ・サン・アマン団長が懸命に叫ぶ。
「ウイ ムッシュ―!」
ボードワン王の場所にもっとも近いところで戦っていたギョームが返事をする。
「シュヴァリエス・タンピエーっ、王陛下を守れ――っ!」
「「「「「ウイ ムッシュ―!!」」」」」
ギョーム隊長の言葉に答える騎士の数もかなり減っている。
もう、デファンスフォルマーションをとるだけの人数もない。
二人、三人が背中をくっつけ合うようにして倒しても倒しても押し寄せる敵と戦っているだけだ。
「ローランっ、ボードワン王を頼むっ!」
ローランがギョームの方を見ると、彼は3人ほどのエジプト兵に囲まれており、すでに左肩に槍が刺さっており、盾もなく片手の剣だけで戦っていた。
ローランは、例のシャルルに作らせた板金製の防具のおかげで、傷一つなかった。
とくに、腕防具や胸・背中防具、腹部防具などは、剣や槍を通さない厚さの板金を使っているだけでなく、そのヘリに反り返しを作らせているので、槍の穂先や剣などがすべって結合部から身体を傷つけることもない。
「隊長っ!」
目の前の敵がくり出したメイスを左手の剣で受けると、素早く右手の長剣を敵兵の顔に突き立て、そのままギョームの方に走って行こうとする。
「止まれ、ローラン!陛下を安全な場所まで連れて行け!これは命令だ!」
テンプル騎士団において、上官の命令は絶対厳守だ。
「し、しかし...」
「行けっ、ここは俺一人で大丈夫だ」
命令には従わなければならない。
だがローランは躊躇していた。
「ウゲっ」
「ぎゃあ!」
突然、背の低い、ガッチリした身体のテンプル騎士が、道を塞ぐエジプト兵を倒してギョームの走り寄り、短めのメイスでギョームに迫っていた敵兵の頭を砕いた。
「ガアっ!」
どうッと崩れるエジプト兵。
ウィラームだった。
ローランと同じく、重装備の防具のおかげで傷一つない。
「フィー・ドゥ・プッテ!」
テンプル騎士としては、あるまじき罵り言葉を吐いて、ギョームの右横にいた敵兵の顔にメイスをぶち込んだ。
そいつの顔はグチャグチャになり、目玉を飛び出したまま倒れた。残った一人は、ギョームが倒した。
「ウィラームが来たからもう心配ない。おまえは陛下を連れて行けっ!」
「ウイ ムッシュ―!」
安心して、数人の騎士に守られているボードワン王のところへ走る。
「陛下。オレといっしょに、ここから脱出しましょう!」
「おお、ローランか!さすが特注性の防具だけあるな!」
ローランの姿を見ると、ボードワン王は安堵の表情を見せた。
「みんな、王陛下を守って血路を開くぞ!」
「ウィ!」
「ウイ」
「ウイ」
ローランの言葉に、騎士たちも勇気づけられたようだ。
ローランを含めて6人の騎士に前後左右を守られて、北を目指して走りはじめた。
ボードワン王もすでに馬をなくしており、徒歩で移動するしかない。
「おい、テンプル騎士。こっちは北だろ?」
「そうだ。この方角はヤバいんじゃないか?」
騎士が二人がかりで道を塞ぐ敵兵を倒した後で訊く。
「敵は我々が南にあるツファットの砦へ逃げると思っているでしょう」
「そりゃそうだ。誰でも、もっとも近いところに...」
「そうか。だから反対側に行くんだな?」
結局、ローランは三日かかって、ボードワン王をリタニ川の戦場から南西4100トワーズの距離にあるブーフォール城へ無事連れて行くことが出来た。
5人の騎士は、全員途中で敗残兵狩りのエジプト兵たちにかかって死んでしまった。
ブーフォール(Beaufort)城には、レーモン・トリポリ伯爵レーモン3世やアルノー・ドゥ・トロージュ副団長 もいて、ボードワン王を見て涙を流してよろこんだ。ウード・ドゥ・サン・アマン団長は、戦いで亡くなったのか姿がなかった。
「ボードワン王、無事だったのですか!」
「おお... これも神のご慈悲だ... うっ うっ うっ...」
レーモン伯爵はともあれ、アルノー副団長の方はかなり芝居臭かったが。
ブーフォール城には、ほかの将兵もいた。
だが、リタニ川の激戦から生きてここにたどり着いた者は少なかった。
エルサレム軍は大敗北を喫したということがみんなにわかっていた。
「たぶん... あのサラーフ・アッ=ディーン軍の野営地と部隊は、我々を嵌めるための罠だったんだ...」
レーモン伯爵が、ボードワン王が急速のために部屋に引き上げたあとでアルノー副団長にポツンと言った。
「何ですと、罠ですと?」
「そうとしか考えられん。よく考えて見ろ。このエルサレムの地には、いたるところにムスリムがいる」
「たしかにいますな」
「農奴もエルサレムの町の奴隷も、ぜんぶムスリムだ。我々の動向など、サラーフ・アッ=ディーンは自分の手の平を見るように知っていると言う事ですよ、ムッシュ・アルノー!」
「それで、我々を嵌めるために、千人もの兵を囮にしたというわけですか...」
ウームとテンプル騎士団の団長は唸って腕を組んだ。
エジプト兵の半月刀
2週間後-
わずかな兵とテンプル騎士たちに守られて、ボードワン王はエルサレム城へ帰還した。
葬式の列のように重苦しい隊列を作って、出陣の時の五分の一ほどになった人数でヤッファ門をくぐった一行を見て、茫然となった。
塔の見張りが知らせたのだろう、エルサレム城の守備のために残ったアルノー・ドゥ・トロージュ副団長やヴァランタンたちが、ほかの騎士たちとともに出迎えるために来た。
ヤッファ通りには、すでにボードワン王帰還を知った住民たちが王と将兵たちの帰還を迎えるためにヤッファ通りに集まっていた... と言うか、自分の夫が、父親が、息子が、婿が無事に帰ったかどうかを確認するために来た者がほとんどだった。
「ジュスタンが... いないわ...」
顔を真っ青にした若い女性がヘナヘナと崩れかけ、横にいた母親に支えられている。
「ムッシュ・セヴラン、マチアスは マチアスはどこですか?」
「ファニー マチアスは... 天国に召された」
「オオ ノン!」
「ブリュノ、ブリュノを見た人はいませんか?」
「誰か、ジルベールを知りませんか?エフライム通りの金物屋の息子のジルベールです!」
「ジャン=ポール、ジャン=ポールはどこですか?誰か教えてください」
帰還した将兵が少ないことから、もしかしたらという不安さとあの人ならきっと大丈夫という思いの入り混じった気持ちで出迎えた人たちの多くは、冷酷な現実に打ちのめされ、泣きくずれ、支えられ帰って行く。
「マモン... パパ、無事に帰ったけど、よろこんじゃいけないんだよね...」
知恵のついたマリー=フランソワーズが「よお!」と軽く手をあげてマジメな顔で神殿の方へ上がって行ったローランの後姿を見て訊いた。
「ウイ。天国に召された方もたくさんいるの。お家に帰ったら、パパといっしょに神さまにお祈りをしましょうね!」
「ウイ、マモン。天国に行った兵隊さんたちが、きれいな美女に囲まれて毎日を過ごせるように祈ってあげるわ!」
「ウィラーム、無事だったのね!」
ギョームに肩を貸しながら歩いているウィラームを見て、セシリアがポロポロとうれし涙を流す。
「ウィラーム、あなた帰って来なかったら、セシリアはシャッテを洗い過ぎて皮が剥けていたわよ!」
イリニがウィラームとセシリアをからかう。
「... 俺 帰った」
イリニのからかいは無視して、ウィラームがボソッと短く答える。
「ウィラ――ムっ!」
耐えきれずに、セシリアが抱きついてベーゼをウィラームの顔中にする。
神殿の城門にアルノー副団長といっしょにボードワン王を出迎えるために来ていたヴァランタンも男泣きしながら、ウィラームとセシリアの様子を見ていた。
リタニ川の戦いで、サラーフ・アッ=ディーンは160人のエルサレム軍の将兵を捕虜にした。
戦後交渉で、ボードワン王はローランが捕虜にしたラシードやほかのエジプト軍の上級士官たちとエルサレム軍の捕虜を交換し、ラシードはエジプトへ帰って行った。
その時に、ウード・ドゥ・サン・アマン団長はリタニ川の戦いの折りに捕虜として捕らえられ、檻に淹れられていると捕虜交換のためにやって来たサラーフ・アッ=ディーン軍の使者から聞かされたので、すでに70歳を超える高齢であったが、アルノー・ドゥ・トロージュが公認の団長として選ばることとなった。
リタニ川の戦い以降、エルサレム王国は、神に見捨てられたかのように敗戦が続いた。
主の年1979年8月23日、サラーフ・アッ=ディーンは リタニ川の戦いでの勝利の勢いを駆って、ボードワン王が、エルサレムを北方-とくにダマスカス- からの侵略から守る目的で建設を始めていたシャステレの要塞を攻略にかかった。
シャステレの要塞は、エルサレム城から北へ8万2千トワーズのヨルダン川の『ヤコブの浅瀬』に建設中だった。ヤコブの浅瀬はアッコン-ダマスカスの間の主要街道の一つであり、ヨルダン川の最も安全な交差点の一つであり、戦略的にも大へん重要な場所だった。
シャステレの要塞は、すでに城壁のかなりの部分が造られており、“石と鉄の難攻不落の城壁”とアラビア人がいみじくも記述したように、高さ10メートルの強固な城壁で囲まれ、一つの塔まで完成していた。
エルサレム王国にとっては北方の守りの要衝になるが、サラーフ・アッ=ディーンにとってはまさしく“目の上のたん瘤”だ。
サラーフ・アッ=ディーンは『ヤコブの浅瀬の戦い』でまたもエルサレム軍を一方的に破り、勢いづいており、シャステレの要塞を包囲すると、弓兵に一斉に矢を要塞に向けて雨のように降らせ続けた。
ボードゥアン王は、サラーフ・アッ=ディーンがシャステレの要塞を攻略すべく進撃しているとの報告を受けるとすぐに出陣したが、その時、すでにシャステレの要塞はエジプト軍によって包囲されていたのだ。
シャステレの要塞は、エルサレム城から10万トワーズ離れており、ボードワン王が率いるエルサレム軍は到着するまでに一週間かかった。
その間にサラーフ・アッ=ディーンの工兵隊はシャステレの城壁の下までトンネルを掘り、城壁の支柱を燃やしたため、城壁は支えを失い崩壊してしまった。
崩壊した城壁からサラーフ・アッ=ディーン軍がなだれ込み、シャステレ要塞はサラーフ・アッ=ディーンが包囲を始めてわずか6日後に陥落してしまった。
ボードワン王が援軍を率いて『ヤコブの浅瀬』に近づいた時、要塞からは黒煙が上がり、すでにエジプト軍の手に落ちたことを知ったのだった。
シャステレの要塞は破壊されつくされ、エルサレム軍守備隊の騎士80人を含む800人が殺され、700人が捕虜として捕らえられた。
シャステレの城壁が陥落したことで、エルサレム王国は、またその影響力を弱めることになった。
ボードワン4世王とテンプル騎士団が壊滅的な損害を受けた「マルジュ・アユーンの戦い」と「ヤコブの浅瀬の戦い」の章です。