#1
短期連載です。
緑豊かで、水源に恵まれた国があった。
国の名は、「エバーグリーン」
そこでは、16才の少女が国を束ねていた。
少女の名は、エヴァ。
幼い頃に国王と王妃をなくし、一人になってしまった。
しかし、彼女には才能があった。
もともと、はっきりと物を言う性格で、何事にも物怖じしない子供だった為、国王が亡くなり、跡を継ぐものがいないこの国を、13才の若さで継承することにも、すんなりと馴染んで見せた。
そして、周りを圧倒するほどの剣術の才能に恵まれていた。
大人の男を相手に、次々と斬り込んでいく。
戦場でも、その成果を挙げて、一気に国民や家臣達からの信頼を得ていった。
「エヴァ様、そろそろ広間にお越しください。隣国のエトワール国王がお見えです。」
初老の側近、ネルは広い庭を愛犬と駆け回っている少女、エヴァに声を掛けた。
「分かってるぅ。」
エヴァは、ネルに手を振って答えた。
「まったく、いつもご自由で困ったものだ。」
ネルはエヴァのおてんばぶりに毎回手を焼くものの、そんなエヴァを尊敬し、敬愛している。
それは、ネルだけでなく、この城で働くすべての人間が思っていることだろう。
ネルに言われた通り、エヴァは、身支度を整えると、客人の待つ広間へと向かった。
「エトワール国王はお優しいけど、王妃様が嫌いよ。いつもツンツンしてるから。」
広間に入る前、エヴァがネルに文句を言う。
「それは、仕方ありません。エトワール国王の収める国は、我々の国の2倍以上も広く、街も栄え、物流の中心的存在です。そんな大国を収められる国王の妻なのですから、少しは横柄になります。」
「でも、すごいのはエトワール国王で、王妃様は関係ないわ。いつも綺麗に着飾って、そこにいるだけだもの。勘違いにも程があるわ。」
「エヴァ様、今日はあちらから直々に、お越しになったのです。口を謹んで下さい。」
エヴァは、口を尖らせたが、客人の前で失礼な表情は出来ないと、気を引き締め直して、広間へと足を踏み入れた。
エヴァは、広間の椅子に腰を掛けているエトワール国王にご挨拶をする。
エトワール国王は、隣国「ファルツ」を治める国王だ。
「エトワール国王、本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます。本来なら私がそちらへ出向かなければなりませんのに。」
すると、エトワール国王は、にこやかに「構いませんよ。」と答えた。
さすが大国を収める国王。
どっしりとしておられると、エヴァは感心する。
「国王様、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「エヴァ殿、あなたにお願いがございます。」
「お願い…ですか?」
「私は少しの間、遠くの国へ、視察に参ります。その間、この王妃、ヴィクトリアの事をお願いしたいのです。」
エヴァは、国王の横で、澄ました顔でこちらを見ている王妃に目を向けた。
王妃ヴィクトリアの態度はどうみても、お願いをしている様には見えなかった。
「お言葉ですが、国王様、王妃様は私を嫌っておられるように感じます。お願いをするはずの方が、こんなに横柄な態度は、ありえませんわ。」
エヴァは、感じたままを正直に伝えた。
「エヴァ様!」
たまらず、側近のネルが、エヴァを止めようとしたが、それをエトワール国王が右手で「構わない。」と、言うように合図した。
「エヴァ殿、大変失礼致しました。代わりに私がお願いを致します。」
そう言うと、エトワール国王は、椅子から立ち上がり、エヴァに頭を下げた。
(ほんとに、どこまでも寛大な方だわ。)
そんなエトワール国王に、エヴァは敬意を覚える。
エトワール国王が、頭を下げた事で、王妃ヴィクトリアも仕方なく、座ったまま、軽く会釈をした。
しかし表情は固い。
「実はヴィクトリアは今、子を宿しております。私がいない間に何かあってはと思い、隣国の中でも、強い軍をお持ちのエヴァ殿に、彼女の警護をお願いしたいのです。」
「まぁ、お子さまが!それは、おめでとうございます。」
突然の発表に驚きながらも、エヴァは、心から祝福を申し上げた。
そして、エトワール国王に注視していた事と、ヴィクトリアが座ったままであった事で気付かなかったが、よく見るとヴィクトリアのドレスは腹部を圧迫しない様な形であり、そのお腹は膨らんでいた。
「あなたは、本当に素直でまっすぐな方ですね。さっきまで怒っていたのに、懐妊を聞いたとたんに、我が事のように、喜んで下さる。」
エヴァは、物心付いた頃から、自分の思いに素直に生きてきた。
懐妊は、喜びに溢れる出来事だ。
それにエヴァは、はっきりとした物言いをするが、ちゃんと相手を認めることが出来る、心の広さを持ち合わせている。
それがまた、家臣たちや国民から愛される要因にもなっている。
「国王様、大切なお子様を御守りする役目、お引き受けしますわ。」
エヴァの頼もしく強い言葉に、エトワール国王は微笑んだ。
エトワール国王は、来月から、エヴァに、王妃ヴィクトリアの警護に付く約束を取り付けると、満足そうに城を後にした。
「まったく、エヴァ様はどうして、あのような言い方をされるのです。私は、肝が冷えました。」
エトワール国王と、エヴァのやり取りを見守っていた側近のネルは、冷や汗を拭きながら言った。
「国王様は、私の気持ちを分かって下さったわ。それで、良いじゃない。」
「よく考えて下さい。エトワール国王は40才。あなたは16才。年齢も、国を収めている年月も、何もかも、あちらが上なのですよ。」
「だから、なによ。どんなに上の立場でも、お願い事をするんだから、こっちの気持ちに寄り添うのが当然よ。エトワール国王はそれをよく理解なさってる。素晴らしい方だわ。」
「隣国すべての国王が、エトワール国王様と同じではないですよ。」
ネルはエヴァに釘を刺す。
「それにしても、うちの軍は、本当に強いと認められているのね。とても嬉しいわ。」
「それはもう、周りの国の殆どが、我が軍を警戒しております。これも、エヴァ様が、先陣を切って、戦っておられるお陰です。」
「私は強くなりたいの。誰にも負けない剣術を持って、軍を率いて行きたいの。それは、これからも変わらないわ。そして、我が軍は、もっと、もっと、強くなる。」
エヴァは、目を輝かせた。
強くなる事が本当に嬉しいのだ。
「このままでは、エヴァ様は、すべての国を統一しかねませんな。」
ネルはエヴァを、からかうように言う。
「他の国に興味はないわ。私はただ、強くなりたいだけよ。これは、どうしても変えられない、私の信念だもの。」
強さに拘ることも、エヴァには、変えることの出来ない信念だった。
小さい時から、剣術に興味を持ち、王位を継いでからは、軍の強化に力を入れてきた。
自分自身も軍も強くなる事に、エヴァは、安心感を覚えるのだ。
そして、エヴァの興味が他の国に無いことは、周りの国にも、知られている。
そのお陰で、無用な戦いをせずとも、周りの国と調和をとれ、経済協力関係を持ちながら、政治を行えていた。
だが、その事を知らない、遠くの国の陰謀や、賊からは狙われやすく、しばしば戦いを強いられる事があった。
その度にエヴァは軍を指揮し、戦いを切り抜けて来たのだ。
しかし、そんなエヴァには、誰にも言わない秘密があった。
エヴァは、夜が好きではない。
なぜなら、夜寝ていると、よく悪夢をみるからだ。
それは、とても辛く、悲しい気持ちになる夢。
しかし、夢には一貫性があり、物語の様に夢を見る。
最初に悪夢を見たのは、6才の時。
その夢の中で、エヴァは、25才の女性だった。
周りの景色も、エヴァの格好も、全てが初めて見るものばかり。
そして、箱の様な場所に住み、手には小さな機械を持っている。
その機械から、声がしたり、その機械に自分が喋ったりする。
また、必ず現れる人間がいた。
それは年老いた女だが、いつもエヴァに文句を言う。
しかし夢の中のエヴァは、年老いた女に謝り、言われた通りに動くのだ。
(なぜ、言いなりになるの!)
そう思うものの、エヴァの声は、夢の中のエヴァには、全く届かず、ひたすら耐えると言うものだった。
そんな酷い夢の中に一つの癒しがあった。
それは、エヴァの体の中に存在した。
夢の中で、エヴァは、大きくなったお腹を擦りながら、いつも話し掛けていた。
(赤ちゃんね。お腹の中に、赤ちゃんがいるわ。)
そう思うと、夢の中でエヴァは唯一、幸せを感じることが出来た。
そして、今夜もエヴァは、夢の続きを見ることになる。
今日の夢は、今までの中で、一番酷かった。
辛すぎて、悲しすぎて、目が覚めてからエヴァは、大泣きをした。
近くにいた女中達が驚いて、部屋の中に入って来たぐらいだ。
エヴァは、女中の一人、サラの胸で沢山泣いた、
もう、涙が枯れるかと思うくらいに…。
朝になり、エヴァを心配したサラは、この国の占い師の元へ相談に行ってはどうかと聞いてきた。
その占い師は、亡き国王の時代から、この国の未来を見てきた。
エヴァが、生まれる事も、予言していた人物だった。
その人物なら、エヴァの悪夢の原因を、教えてくれるのではないかと言う。
「サラ、この事は私とあなただけの秘密にして頂戴。」
エヴァは、夢の中での出来事を誰にも話すつもりはなかった。
話した所で、理解できないだろうし、エヴァにも、説明がつかない内容だからだ。
しかし、昨夜は動転して、サラの前で泣いてしまった。
心配を掛けたのだから、理由を説明しなくてはいけないと思い、「悪夢を見た」と伝えたのだ。
「承知しておりますとも。私と二人だけで、参りましょう。」
優しいサラは、エヴァの気持ちをすぐに理解してくれた。
そして次の日、早朝に二人で占い師の元へと向かった。
「エヴァ様、よくお越しになりました。」
エヴァとサラが、到着するなり、年老いた女性占い師、ゲランは、家の扉を開けた。
そして、不思議そうな顔の二人を家に招き入れた。
ゲランは二人に暖かい紅茶を出すと、二人の前に座った。
「ゲラン、あなたは、私達が来ることが、分かっていたの?」
紅茶を一口飲み、エヴァが質問した。
「はい、分かっておりましたとも。もう何年も前から。」
ゲランは目を隠すように白髪の前髪を伸ばし、顔全体を覆うように、フードを深く被っている。
「そう。じゃあ、私がここに来た理由も知っているわね。」
「夢の事でございましょう?」
エヴァは、毅然とした態度だったが、サラは占い師の言葉が少し不気味で怖かった。
「私はなぜ、あんな夢を見るのかしら?」
「それは、あなたが潜在的にあの時代を知りたがっているからでございます。」
「よく、分からないわ。」
エヴァは、ゲランの意味ありげな言い方に、不満を感じて、眉根を寄せた。
「エヴァ様、私は少しの間、席を外しますわ。終わったら、お出になって下さいまし。」
「良いわよ。」
サラはゲランの不気味さに根を上げ、外へと避難した。
エヴァはサラが出ていくと再びゲランに向き直った。
「教えて頂戴。あの時代とは何のことなのか。」
ゲランは頷き、指を組み、その上に顎を乗せて、話し出した。
エヴァの夢の真実を。
そして、それは、エヴァの変えることの出来ない信念の幕開けだった…。
夢の中のエヴァが生きているのは、西暦2020年の東京。
そして、名前は「叶恵」
叶恵は、母子家庭の一人っ子として育った。
母親はおおらかで優しい人で、叶恵を大切に育ててくれた。
その甲斐あって、叶恵も母親譲りの穏やかで、優しい性格の子に育った。
また「良く出来た娘さん」と近所でも評判だった。
そんな叶恵も年頃になると、恋をした。
相手は同じ学校の同級生、「春樹」
春樹は、頭が良く、成績は常にトップクラスで、生徒会長を勤める様な男だった。
春樹は、誰に対しても穏やかで、人当たりの良い生徒だった。
そして二人はいつしか付き合うようになり、25才で結婚を考えるようになった。
しかし春樹の家は、父親が会社経営をする裕福な家庭であり、母親、悦子は世間体を気にして、二人の結婚に反対をしていた。
そんな中、叶恵のお腹に、赤ちゃんが授かり、二人は晴れて結婚することになった。
「先に子供が出来るなんて、節操のない子ね。」
春樹の母親、悦子は、叶恵が家に入るなり、そう嫌味を言ってきた。
子供が出来るのは、一人の考えでは叶わない。
自分の息子、春樹にも責任はあるが、悦子は叶恵ばかりを責めた。
そして、身重である叶恵に対して、こう言った。
「うちに入るんだから、家事はあなたの仕事よ。少しでも手を抜いたら許さないから。」
悦子は、叶恵を召し使いのように、こき使った。
掃除をすれば、ここが出来ていない。
食事を作れば、貧乏人の味付けだと言い、最後には叶恵の母親の悪口まで言い出した。
「あなたの母親は、出来が悪かったのね。あなたを見ていれば、、それがよく分かるわ。」
それでも叶恵は、言いたいことを我慢して、耐えていた。
それは、自分の性格が災いしている部分もあった。
叶恵はとても大人しく、穏やかな子だったので、自分の意見よりも、相手の意見を尊重してしまう。
そして、間違いを指摘されれば、自分が悪いのだと、自分を責めてしまう。
どこまでも、自分に自信を持てずにいた。
だから、悦子から責められても、自分が悪いのだと思い、認めて貰えるように、努力をしてきた。
しかし、悦子が叶恵を認める事はなかった。
そんな二人の関係性を春樹は黙って見ているだけ。
叶恵を庇うこともなく、「母さんは、ああいう性格だから。」としか言わないのだ。
また、春樹の父親は仕事に夢中で殆ど家にいない。
自分の家庭の中で起きていることなど、知るよしもなかった。
しかしこんな環境でも、叶恵には心の支えがあった。
それが、お腹の中の子供。
叶恵はいつも、お腹の子に話し掛け、生まれてくることを楽しみにしていた。
「私の赤ちゃん。あなたは私の宝物。生きる希望。生まれたら、一緒にたくさん、楽しい時間を過ごしましょうね。」
妊娠後期になると、春樹は毎日帰りが遅くなった。
理由を聞くと、今は仕事が大事な時を迎えていて、忙しいと言う。
春樹の仕事の事はよく分からないし、仕事なら仕方ないと、叶恵は思っていた。
そんなある日、叶恵の母親から、電話が掛かってきた。
「体はどう?叶恵。」
「元気よ。お母さん。」
「そう。良かったわ。最近、連絡がないから、どうしてるかと思ってね。」
「最近、出産準備でバタバタしてて。」
叶恵は嘘をついた。
実際は、出産準備など殆ど出来ないくらい、毎日家で、こき使われている。
そして、いつものように姑に雑に扱われていた。
「今が一番、大変な時期よね。しっかり、頑張りなさいね。あなたはもう、母親なんだから。」
「うん。」
電話の最後に、叶恵の母親が言った。
「来週あたり、荷物が届くと思うわ。少し早い出産祝い。良かったら、使ってね。」
次の週、叶恵が検診から帰ってくると、庭から煙が出ていた。
叶恵が庭にまわってみると、そこには信じられない光景があった。
「お義母さん!何を!」
「あら、帰ってきたのね。見て分からない?要らないものを燃やしているのよ。」
「でも、それは!」
悦子の手には、買ったばかりと思われるベビー服が掴まれている。
それを悦子は、火の中へと放り込んで行く。
「あなたのお母さんが、こんな物を送りつけて来たのよ。ダサくて、品がなくて、うちの孫には、着せられないわ。恥ずかしい。」
悦子が燃やしていたのは、先週、叶恵の母親が贈ってくれた、出産祝いだった。
叶恵が検診で家を出ている間に、プレゼントが届き、悦子は勝手に中を開け、品定めをした結果、いらないと燃やしてしまったのだ。
「ひどい…。」
叶恵はその場にしゃがみこんだ。
「何ですって!」
バシ!
叶恵は、思い切り頬を叩かれた。
「あなたは、うちの敷居を跨ぐだけでも、ありがたいと思いなさい!あんたみたいな、学歴も低い、母子家庭で育った品のない女なんか、ほんとなら、うちの春樹と結婚なんて、認めないんだから!それを、子供が出来たから、仕方なく許してやったのに、私に逆らうなんて、この恩知らず!」
悦子はもう一度、叶恵を平手打ちした。
「ごめんなさい!。」
叶恵は、訳も分からず、泣きながら謝った。
そうしないと、悦子の怒りが収まらない気がして、怖かったのだ。
「今度、生意気な口を聞いたら、この家から出ていってもらうから!。」
そう吐き捨てて、悦子は庭を後にした。
残された叶恵は、焼き捨てられたベビー服が燃え尽きるまで、その場に座り込んでいた。
その日の夜、叶恵はなかなか寝付けずにいた。
気分を変えるため、水を飲もうと階下へと降りた。
すると、リビングの方から春樹の声が聞こえてきた。
しかし誰かと話をしているようだ。
だが、誰と話しているかは、聞こえてくる声ですぐに分かった。
悦子である。
昼間の事もあり、叶恵は悦子に会うのが怖くなり、リビングのドアの前で固まってしまった。
そして、立ち聞きなんてするつもりもなかったが、二人の会話を耳にしてしまう。
「最近どうなの?向こうのお嬢さんとは。」
悦子が機嫌良く話している。
「どうなのって…別に普通だよ。」
春樹は、スマホをいじりながら返事をする。
「でも、玲子さんも可愛そうね。赤ちゃんが出来ない体だなんて。」
「…仕方ないよ。こればかりは、どうすることも出来ないから。」
「早く叶恵さんの赤ちゃんが生まれると良いわね。」
なんの事を言っているのだか、叶恵には、全く理解できなかった。
しかし、確実だったのは、春樹に他の女がいると言うことだ。
しかも、悦子が公認していた。
(どうしたら…いいの…。)
すると、叶恵のお腹に感じた事のない痛みが走った。
「あっ!」
その痛みは、急激に増していく。
叶恵は、思わず、ドアに手を掛けた。
ドアは、そんな叶恵の存在を春樹と悦子に知らせるように開いた。
「叶恵?」
叶恵の変化に気付いた春樹は、急いで叶恵に駆け寄った。
「おなか、…おなかが…急に…。」
叶恵は、痛みに顔を歪ませながら、言った。
「まぁ、陣痛?!」
その様子に驚いた悦子は、急いで救急車を呼んだ。
叶恵が病院に入ると、医者は急いで手術の準備に入った。
1か月早い陣痛と、赤ちゃんの安全を考えての結果だった。
そして1時間後、赤ちゃんの元気な声が響き渡った。
叶恵は無事に、赤ちゃんを出産したのだ。
「お母さん。かわいい男の子ですよ。」
看護師さんが、生まれたての赤ちゃんを抱いて、叶恵に見せてくれた。
叶恵は、そっと赤ちゃんの手を触った。
とても、ふわふわしていた。
そして、温かい。
「お母さんよ、赤ちゃん。これから、よろしくね。」
叶恵は、喜びと安心感で、涙が溢れてきた。
これからは、この子を守っていくんだ、と言う気持ちと共に。
ある日の夜中。
叶恵は久しぶりに実家の母親に電話をしようと、病室を出た。
叶恵の母親は夜中まで、仕事なので、なかなか出産したことを報告出来ずにいた。
メールやLINEも考えたが、叶恵は自分の口からちゃんと報告したかった。
病室には他の妊婦さんや、叶恵と同じ様に、出産を終えた新米ママさん達が入院しているので、叶恵は病棟の端まで行って、電話を掛けることにした。
そこは、少し暗かったが、病室からは遠いので、他の人の迷惑にならないだろうと考えた。
叶恵は、近くにベンチもなかったので、その場にしゃがんで、電話を掛ける。
しかし、母親は、まだ仕事中なのか、なかなか出ない。
(また、後にしようかな)
そう思い、叶恵は立ち上がった。
しかし、思いの外、体がふらふらして、立ちくらみを起こした。
叶恵は近くにあるものに、しがみつこうと手を伸ばした。
すると、誰かの手が叶恵を引っ張った。
(え?)
誰か確認する暇もなく、今度は、その手が叶恵を突き飛ばした。
「あっ!」
短く声を上げ、叶恵は階段から転げ落ちた。
そして、意識を失う瞬間、叶恵は逃げていく人影を見た。
気がつくと、叶恵は病室にいた。
すぐ側に、春樹と悦子が叶恵を見ていた。
叶恵は、起き上がろうと体を動かしたが、なんだか動きにくい。
それに、ベッドの上に座りたくて、上半身を起こすが、下半身の動きが分からなかった。
叶恵は、春樹に手伝ってもらって、体を起こした。
叶恵のいる病室は、いつもの病室ではなくて、叶恵一人だけの部屋だった。
「あの、私…。」
何かを言おうとすると、悦子が先に切り出した。
「さっき、病院の先生から言われたんだけど、あなた、夜中に階段から落ちたらしいのよ。それでね…言いにくいんだけど。」
珍しく悦子が、神妙な顔をしている。
「あなた、もう歩けないらしいのよ、」
叶恵は、悦子が何を言っているのか、分からなかった。
「歩けない?」
叶恵は、そんな事ないはずと、足に力を入れた。
しかし、力を入れた感覚がない。
今度は自分の足を手で触ってみた。
しかし、感触がなかった。
叶恵は、体から血の気が引き、真っ青になった。
そんな叶恵に、悦子が言った。
「そんな体じゃあ、家事も何も出来ないでしょう?だから、春樹と離婚して欲しいの。」
悦子と春樹が帰っても、叶恵は放心状態から、抜け出せずにいた。
心が、全く動かない。
悲しいとも、辛いとも思えなかった。
二人の言葉が叶恵には、届かず、ただ、言われるままに、離婚届にサインを書いた。
書いている時に、悦子が言った。
「あなたの荷物はもう、まとめたから。明日には、この病院に届くと思うわ。鞄一つぐらいだけどね。それから、これを出したら、もう他人でしょう?ここの病院の入院費は、そっちで払ってね。」
悦子は、叶恵が書き終わると、素早く離婚届を取り上げた。
「それから、赤ちゃん。うちで育てますから。」
叶恵は、無表情のまま、顔を上げ、悦子を見た。
「あの子はうちの孫だから。春樹の息子なんだし、良いわよね?あなたが引き取っても、育てられないでしょう?」
すると、ずっとスマホを操作していた春樹が言った。
「実はさ、うちの取り引き先の会社のお嬢さんが、僕の事、気に入っててさ。お前もこんなことになっちゃったし、離婚が成立したら、彼女と結婚しようと思って。」
悪びれた様子もなく、世間話でもするように春樹は言う。
「お前は昔から、良い子だって評判だったから、結婚してからも、僕の評判を落とすことなく過ごせたけど、やっぱり、うちみたいな家には向いてなかったんだよ。会社の連中にも紹介するのが恥ずかしくて、出来なかったし。だから、今度は、うちと同じランク人と結婚するわ。母さんもその方が良いって言うしさ。」
叶恵は、初めて春樹の本性を見た気がした。
春樹も悦子と同じ様に、叶恵を見下していたのだと分かった。
それは夫婦であったことなど、幻であったかの様な衝撃だった。
そして、ショックが連続して起こった叶恵の心は、崩壊し、それを止めることなどもう出来なかった。
心と思考が停止し、ただ二人の言葉が叶恵の中を通過していくのだ。
「じやあな。」
春樹は、まるで学校から帰る時にクラスメイトに挨拶をするように言うと、悦子と共に病室を後にした。
残された叶恵は、そんな二人の後ろ姿を、ただ見つめていた。
そしてその夜、叶恵は病院の屋上から飛び降りた。
屋上には、叶恵が使ったと思われる、車椅子がぽつんと残されていた。
「昨日の夢で、叶恵が死んだのよ。あの時の暗くて、冷たい気持ち。…怖かったわ。」
エヴァは、自分の腕をぎゅっと抱き締めた。
「エヴァ様、夢の中であなたは、叶恵を体験したのでしょう?」
ゲランが問う。
「そうよ。夢の中で、私は常に叶恵だったわ。」
「その夢を6才から少しずつ見ていたのでしょう?」
「ええ。まるで物語を見ているように、続いていったわ。」
「その夢、夢ではありませんよ。」
白髪の前髪に隠れていた、ゲランの目がエヴァを見た。
「エヴァ様が見ていた夢は、別世界のあなたが経験した人生なのです。」
「何を言っているの?」
「叶恵と言う女性は、エヴァ様です。エヴァ様は、叶恵の生まれ変わり。」
「私が…叶恵?」
ゲランは頷いた。
「叶恵は、死ぬ前に強く願ったのです。」
「もし、生まれ変われるなら、私は、強い女性になりたい。自分を持ち、意見できる強い精神力。そして、大切なものを、誰にも奪われない、強い力が欲しい。」
それは、叶恵が悔やんでも悔やみきれない、子供を奪われた絶望から、願った思い。
エヴァには、叶恵の思いが理解できた。
なぜなら、叶恵が願った事は、今のエヴァの信念そのもの。
自分をしっかりと持ち、自分の思いに素直に生きると言う信念。
そして、常に強くありたいと言う信念。
「分かるわ、叶恵の思いが…。」
エヴァが呟く。
「エヴァ様。夢が叶恵の最期を見せたのは、時が来た、と言うことです。」
「時?」
「そうです。時です。叶恵がエヴァ様に、託したのです。」
「どういう事?」
しかし、ゲランは薄気味悪く微笑むだけ。
そして、最後に言った。
「エヴァ様、悪魔は突然現れます。お気を付けて。」
エヴァが外に出ると、サラが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「終わったのですね?」
「ええ。」
「エヴァ様?」
エヴァは、どこか遠くを見詰めている。
「サラ。」
「はい。」
「私は、もう一つの人生の責任を果たさなければいけないわ。」
「何の事です?」
「そうでなければ、あまりにも可哀想よ。」
そう言うとエヴァは、まっすぐ前を見据えた。
そこに何があるのか、サラには分からなかったが、この時、エヴァは確かに、会ったことのない、もう一人の自分の存在を認めていた。
読んで頂き、ありがとうございました。