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昼休みになって、屋上を覗く。僕と美浜さんの定位置になりつつある、その場所を。しかし、そこには誰もいない。僕は溜息を吐いて引き返す。
その数日、美浜さんと会う事が出来なかった。ずっと学校を休んでいた。
先生によると、風邪という事らしい。本当だろうか。
その日の帰り道、僕は天使に――いや、死神と出会った。
美浜さんの言っていた通り、それは銀髪で、背中から小さい羽根の生えた女の子の姿をしていた。
「美浜ひつじを助けてほしい」
夕暮れの暗がりの中で、彼女は静かに無表情でそう言った。
「彼女は今、大きく揺らいでいる。不安定なその在り方に。このままでは、生前の最後の時のように〝また〟飛ぶ可能性がある」
またってなんだよ……!
僕は踵を返すと、彼女のいそうな場所に思いを巡らせながら走り出した。
◇
美浜ひつじは、そこにいた。赤黒い夕焼けの差す学校の屋上に。
「美浜さん……!」
僕は叫んだ。彼女は、羊の姿の彼女は手すりの向こう側へと乗り越えようとしていた。
「時雨さん、来てしまったんですね……もし、私がこのまま飛んでしまったら…そんな所は時雨さんには見てほしくなかったのに……」
彼女はこちらを振り向かず、酷く平坦で冷たい声で答えた。
「どうして、こんな事を?」
「……〝また〟私は不安に思ってしまったんですよ。羊か人間かも分からない自分に。不安定な自分の在り方に。少しだけ昔話をしてもいいですか?」
そうして彼女は話し始めた。彼女がまだニンゲンだった時の事を。
――私は羊だったんです。ただただ本当の事を知らず、狭い世界の中の価値観を信じていた盲目の羊だったんです。
私はある小さな宗教を信じている両親の元に生まれました。信仰深い両親の間で、私も息をするようにその教えを信じていました。
子供ながら必死に、教えを守る私を周りの大人はとても良く褒めてくれました。だから私は、みんなの望む〝いい子〟でいようと思ったんです。
でも中学高に入る頃から、気が付いてしまったんです。
私の教えを信じてしていた行動は、教えを知らない子供や大人からは奇異の目で見られていた事を。ただ、みんなその事を私に黙っていただけなんだという事を。
その瞬間から、私の心はいつも不安で満たされるようになりました。
それでも私は誰にとっても〝いい子〟でいようとしました。
でも、駄目なんです。そうして頑張れば頑張るほど、藻掻けば藻掻くほど、理想からは遠ざかっていくんです。
少し考えれば分かる事なんですけど、そもそも誰からも好かれる存在なんてそうなれるものじゃないんです。価値観なんて、誰もが同じものじゃないんだから。
でも私は、その事に気が付けなかったんです。
そうして、訳が分からなくなって気が付いたら、私は学校の屋上から飛んでいたんです――
――ああ、そうか。美浜ひつじはそうして羊になったのか。
前に彼女から聞いた話を思い出す。彼女は強い未練を持った魂なのか。
「時雨さん、私は愚かなんでしょうか……?」
彼女が振り向く。彼女は笑って泣いていた。
「君は愚かじゃないよ……少なくとも、僕はそう思う」
僕は彼女を抱きしめた。
「僕も同じだから…僕もずっと心が壊れたようにひとつの事を思い続けてきたから……」
僕は姉さんの事を、姉さんへの想いを話した。ただただ、ずっと好きだった姉さんの事を。
誰にもこれまで話す事の出来なかった想いを。
そうして、気が付けば僕もまた泣いていた。
「時雨さんもコワレテしまっていたんですね、死んだひとを強く想って心が……」
美浜さんもまた僕を抱きしめてくれた。
僕は思う。
僕らのこの傷は、この痛みはなんなんだろうと。
誰かは言うかもしれない。それは青春の中で、いつかは癒える傷であり痛みなんだと。本当に、本当にそうなんだろうか。
現に美浜ひつじは飛んだ。
僕らが、背負っているものは本当にそんなものなのか。
大人になれば、なるだけで癒える傷や痛みなんてあるものなのか。
だから僕たちは、その癒し方も知らずにのたうち回る。
「私、時雨さんに出会えて良かったと思います。時雨さんと過ごしていた時間は〝本当に〟話す事が出来ていたと思うから……」
僕らの傷も痛みも、きっと癒えない。けれど僕にとってもまた、彼女と過ごした時間はやはり穏やかなものだったと思う。だから、こう言いたい。
「「ありがとう……」」
どちらかが、その言葉を言った時、美浜ひつじの体が青い光に包まれた。
「美浜さん!」
僕はふと悲しい予感を覚えて、美浜さんを強く抱きしめようとした。
けれど羊の彼女の体の感触が、少しずつ薄れていく。
「さようなら…時雨さん……」
彼女が笑う。青い光になって消えていく瞬間に僕は見た。羊ではないひとりの女の子の姿を。
こうして、美浜ひつじは消えた。
夕暮れからいつの間にか移り変わった夜の闇の中に。
5
また桜の花びらの散る季節がやって来た。
美浜さんが消えてから、もう一年になる。
不思議な事の美浜さんが消えた後、誰も彼女の事を覚えていなかった。クラスメイトも先生もである。
それでもかつてこの世界に、美浜ひつじという女の子がいた事は事実だった。
彼女の事は自殺した少女として、二年前の新聞に小さく載っていた。
ぼくは、ここにいる。
ぼくらは、ここにいる。
ゆるやかな風の中を、歩き続けているよ。
僕は『ゆるやかな風』口ずさんで、桜散る道を歩く。
その途中、一年ぶりに死神に出会った。死神はこう言った。
「あなた達はとても面倒な人達。折角、未練を断ち切って魂を連鎖出来ると思ったら、別の未練が生まれて出来なかった。仕方ないから、昔からある特例で対処することにした」
言いたい放題言って、死神は音も無く消えた。
――時雨さん、と誰かが呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、かつて羊だった彼女の姿があった。
ひつじ彼女 了