ご褒美
「でも、みなと、いつきはどうしてそんな1.3倍速でライブをしてたの? 私だったら絶対そんなことしないけどな」
「しないというか、そもそも踊れないでしょ」
「鋭いね」
なぜいつきが1.3倍速でライブをしていたのか。その理由こそが、今回の事件において、もっとも重要であり、事件の直接的な引き金なのである。
湊人は、あえて遠回りな説明をすることにした。
「なゆち、僕がビールが好きなことは知ってる?」
なゆちは大げさに何度も頷く。
「もちろん知ってるよ。それどころか、若干アル中なんじゃないかと疑ってすらいるよ」
その疑いは、湊人自身も持っている。
「ただ、ビールはどのシチュエーションで飲んでも同じように美味いわけじゃない。ビールが最高に美味いのは……」
「ライブ終わりの一杯でしょ」
「そうそう。そのとおり」
湊人は、ライブが終わるたびに、ジョッキが写った画像をTwitterにアップし、「ライブ終わりの一杯が最高」と呟いている。人によっては「仕事終わりの一杯が最高」と考えているかもしれないが、湊人はニートだから、もっとも「やりきった感」があるのはライブ終わりなのである。
「この前ラーメン屋に行ったとき、なゆちも言ってたよね。『ライブ終わりのラーメンは格別だ』って。ヲタクにとってもアイドルにとっても、ライブ終わりというのは、自分にご褒美を与えるのに最高のタイミングなんだよ」
「なるほどね。たしかにそうだ」
「いつきも一緒だったんだよ。ライブ後に自分にご褒美を与えたかったんだ。いつきの場合のそれは、ビールでもなければ、ラーメンでもなかったんだけどね」
「じゃあ何だったの?」
湊人は、右手の親指と人差し指で何かをつまむようなポーズをし、それを自分の口元に持っていき、フーッと息を吐いた。
この「ジェスチャークイズ」は、あまりにも簡単なものだった。
「分かった! タバコでしょ!」
「そのとおり。いつきにとってのご褒美は『ライブ後の一服』だったんだよ。それもステージでたくさん踊った直後のね」
湊人は、これまでの人生でいわゆる「ヘビースモーカー」と呼ばれる人種に何人か会ったことがある。彼らのニコチン欲は、いわば尿意のようなものであり、我慢できないものなのである。遊びや仕事の大事な場面であっても、彼らはタバコを理由に中座する。
実はいつきもその人種だったのである。
「いつきはステージでのパフォーマンスが終わると、必ずご褒美の喫煙タイムを設けていたんだ。ヲタクにはもちろん、他のアイドルやスタッフにもバレないように、コッソリとね。しかし、この至福の時は、決して安泰ではない」
「どうして?」
「なゆち、ライブの後には何がある?」
「ああ! 並行物販だ!」
「そのとおり。大体の地下対バンでは、ライブの直後、ほとんど間隔を開けることなく並行物販が始まる」
いつきが死んだ当日のライブでは、いつきの出番が19時40分までで、並行物販は19時45分からとされていた。その間隔はわずか5分である。
「私の場合、ライブが終わったら、楽屋に戻って、物販のためのペンとかポーチを準備して、そのまま物販ブースに行くから、ライブ後の休憩時間はほぼない」
「でしょ。普通はライブが終わるとそのまま物販なんだ。とはいえ、物販は1時間以上かかる場合が多いから、いつきはどうしてもライブ後と物販の間の時間にタバコを吸いたかった。最初の頃は、物販を多少遅刻してでもタバコをふかしてたと思う。でも、それもできなくなった。その理由は分かる?」
「……哲平さんに怒られたから?」
「そう。なゆち、今日はなかなか冴えてるね。1年以上前、初台のライブハウスで、いつきのマネージャーの哲平さんは、いつきが物販に遅刻したことについて、こっ酷く叱ったんだ。その様子は、なゆちと僕の脳裏に未だに焼き付いているくらいだから、相当熾烈なものだった。だから、おそらくはこのことをきっかけとして、いつきはライブのテンポを早めて、ライブを早く終わらせることにしたんだ」
ひなの話によれば、楽曲のテンポをまずは1.1倍速にしたのは1年くらい前であったとのこであるから、ちょうど哲平さんに怒られた時期と一致する。
「もちろん、ライブを早く終わらせる方法としては、曲数を減らすという方法もあるけど、哲平さんに怪しまれる。20分ライブで今まで4曲やっていたところが急に3曲になれば、やる気がないとみなされ、それこそこっ酷く叱られるだろう。だから、いつきは楽曲のテンポを上げる方法を選んだんだ」
なお、曲数が減れば、哲平さんだけでなく、ヲタクからも悪い受け止められ方をするに違いなかった。
「私、あの真面目ないつきがそんなことしてたなんて信じられない……」
「そうかな? 自分へのご褒美の時間を作るために、仕事を早く終わらせるというのは、いかにも真面目な人が考えそうなことだけど」
「それはそうかもしれないけど……」
なゆちの言いたいことはよく分かる。
タバコというのは嗜好品の中でもネガティブなイメージが強い。不良や非行ともよく結び付けられる。そのため、真面目な人はタバコを吸わないんじゃないか、と考えることも一理ある。
しかし、他方で、喫煙者には自殺者が少ない、という統計もある。真面目でストレスを溜め込みやすいタイプほど、タバコを欲する場合もあると思う。
「っていうか、みなと、みなとはどうしていつきが喫煙者だって知っているの?」
「知ってるわけじゃないよ。これはあくまでも推理だから」
「推理? ということは、根拠はないということ?」
「それは難しい質問だね。たしかに証拠はないけど、根拠がないわけではない。いつきが喫煙者だと考えないと、今回の事件を整合的に説明することができないんだ」
たとえば、と湊人は続ける。
「早めにライブを終わらせたいつきは、その後すぐに屋上に行ってるけど、これはタバコを吸うため、と考えるのがもっとも自然なんだ」
屋上前の踊り場でひなと別れた後、湊人はマーキュリーが入っている雑居ビルのすべての階に降り立ち、喫煙所があるかどうかを確認したが、案の定存在していなかった。喫煙をするためには、屋外に出るか屋上に出るかしかないが、屋外でタバコを吸うと、入場前のヲタクに見られる可能性が高い。
よって、喫煙場所は屋上しかなかった。
「とすると、いつきはタバコを吸うために屋上に行ったのであって、屋上から飛び降りる気はなかったんだね」
「まあ、そういうことだね」
ゆえに、本件は自殺ではなく、殺人なのである。
そして、その犯人は、自首をしたイマックスさんなのだ。
「いつきがタバコを吸うために屋上に上がったに違いない、と考えた僕は、この事件が飛び降り自殺ではなく、殺人事件なのだと確信した。だけど、肝心の犯人が誰か分からなかった」
そこで、湊人は、「犯人は現場に戻る」という格言に基づき、ダメ元で犯行現場の雑居ビルを訪れたのである。
結果、直接犯人と遭遇することはなかったが、そこでひなと遭遇したことにより、湊人は犯人が誰かを知ることになった。
「僕は、ひなさんから、いつきが死んだ当日の予約表を見せてもらったんだ。そこにはヲタクの名前が羅列されてたんだけど、イマックスさんの名前がそこにあり、かつ、そこにはチェックが付いていた」
「チェックが付いてるということは、私は見かけなかったけど、イマックスさんはライブに来てたということだよね」
「そうだね」
「それが何かマズイの?」
「ああ。マズイ。なぜなら、イマックスさんは、居酒屋で僕と飲んだ時に、当日のライブには来ていない、と断言してたからね。イマックスさんは僕に嘘をついたということになる。もしもイマックスさんが犯人でなければ、僕に嘘をつく必要なんてどこにもない。イマックスさんは、自分がいつきの死に関わっていることがバレないために、とっさに僕に嘘をついてしまったんだ」
世の中には、嘘でも本当でもどっちでもいいようなどうでも良い嘘を平気で言う人もいる。しかし、少なくとも、イマックスさんはそういうタイプでなかった。むしろ、いつき同様、真面目で誠実なタイプであり、そもそも嘘をつくこと自体が稀なのだ。
そのイマックスさんが嘘をつくのには、それなりの理由がある。
「予約表を見て、僕はすぐに犯人がイマックスさんだと気付いた。それで、なゆちにも伝えた。それでも心のどこかで実はイマックスさんはやってないのではないか、と信じる気持ちはあったんだよ。イマックスさんが自首をするまではね」
さらに、イマックスさんは、自首しただけではなく、自首の直前に、犯行を自白するLINEを湊人に対して寄越していた。
「ねえ、みなと、どうしてなの? どうしてイマックスさんはいつきを殺しちゃったの??」
なぜイマックスさんはいつきを殺してしまったのか。
その理由は湊人へのLINEにははっきり書いてあったわけではなかったので、これもまた推理するしかない。
とはいえ、客観的な状況と、イマックスさんのいつきへの想いを照らし合せて考えると、導かれる結論は一つしかなかった。
「イマックスさんがなぜいつきを殺したのか——それはいつきがタバコを吸ってたからだよ」