体操着の少女
「ANME〜スマホの中の失踪少女〜」が、2020年11月,電子書籍化しました(ステキブックス)。
現在は削除してありますが、今年のはじめ頃にこのサイトにアップしていた作品です。
趣味でネット小説を投稿し始めて約5年。まさか自分の作品が日の目を見ることがあるとは思っていませんでしたので、感無量であると同時に、これからも執筆を頑張ろうと気が引き締まりました。
本作は、「ANME 」と同じミステリーではありますが、毛色はだいぶ違く、とにかく僕の好きなモノを詰め込んだ作品です。願望と性癖がギュッと詰まってます。
なお、コメディータッチではありますが、ミステリーとしては一切手を抜いていませんので、その点はご心配なく。
樫井湊人には、人並みの結婚願望があった。
小学生の頃には、20代後半くらいには人生の伴侶を見つけ、子宝にも恵まれているのではないかと漠然と考えていた。その考えは、中学生、高校生、大学生になっても変わらなかった。どちらかといえば色恋沙汰とは無縁の学生生活ではあったが、社会人になれば自然と恋人もでき、自然と結婚できると信じていた。
湊人のビジョンに暗雲が立ち込めてきたのは、大学4年生の夏、大学院進学に向けた勉強のために昼夜自室に閉じこもっていた時期であった。
勉強の息抜きにと思い、たまたま点けたテレビの、たまたま回したチャンネルのバラエティ番組に出演していた女の子に魂を抜かれてしまった。
その子は、当時、深夜帯のドラマでヒロインを演じるほどの人気アイドルであった。普段日常的にテレビを見る人だったら知らない人はいないほどの知名度であり、所属するユニット名くらいは湊人も知っていたが、芸能界に疎かった湊人にとって、そのバラエティ番組こそがその子との「出会い」であった。
「出会い」というよりも「謁見」。
その子は空よりも尊くて、大地よりも偉大だった。
「傾城の美女」という言葉があるが、もしもそれまで積み上げてきた湊人の人生ごときをお城という大層なものに例えられるのだとすれば、その子はまさしく「傾城の美女」だった。
もっとも、その子が湊人のお城を完全攻略したわけではない。むしろ、その子のしたことと言えば、せいぜい堀を超えて城門を突破したくらいなのである。
先ほどから「その子」と、あえて名前を伏せて表現しているが、決して、もったいぶっているわけではない。実名を出すまでもないだけだ。「その子」は湊人にとっては所詮「過去の女」に過ぎないのである。ライブにも行ったし、握手会にも行った。ちょっとした遠征にも行った。
しかし、それだけに過ぎない。
今現在湊人がハマってしまっている沼の規模と比較すれば、それは水溜りかスポイトの水くらいでしかなかった。
ここで過去の「女性遍歴」、いや、「推し遍歴」を長々と語るつもりはない。大事なのは今まさに湊人の心を掴み、そのまま指先で弄び、湊人を廃人たらしめているアイドル——今現在の推しだ。
その推しの名前は朝野奈柚。
彼女は、湊人に言わせてもらえば雲の上の存在であるが、世間一般的に言うところの「地下アイドル」である。
「ねえ、みなと、遅刻だよ。今まで何してたの?」
新宿歌舞伎町のラブホ街から道を3つほど隔てたところにある小径。夜になるとネオンが煌々と光り、飲食店から漏れる雑多な笑い声が途絶えることのない通りである。
小走りで通りに足を踏み入れた湊人は、即座に異常を感じ取り、足を止めた。普段から賑やかな場所ではあるが、今日は特別賑やかなのである。いや、賑やかなんて騒ぎではない。そこには花火大会の帰り道くらいにぎゅうぎゅうの人集りができていた。何かあったに違いない。
一体何があったのか。
事態の把握と情報の整理が必要であったが、それどころではない。
湊人は、人集りの最後列にいて、たった今自分の名前を呼んだ少女に注意を向ける必要があった。
朝野奈柚だった。
一応「芸能人」にカテゴライズされているとはいえ、朝野奈柚の知名度は、一般人にうぶ毛が生えた程度であり、Tik Tokでバズっている一般JKなどと比べてもはるかに劣る。
しかし、このときばかりは、その場にいる人すべてが、もれなく彼女が朝野奈柚であることを認識できたに違いない。
なぜなら、彼女は「朝野奈柚」と黒いマジックで書かれたワッペンを胸に貼った、真っ白い体操着を着ていたからである。下半身はブルマ。さらに、脇に抱えているのは鍵盤ハーモニカ。
「な、なゆちこそ何してるの!? しかもそんな格好で」
なゆち(朝野奈柚の愛称)は、あたかも湊人に言われるまで自分が何を身に纏っているのかを知らなかったかのように、自分の胸元から足先までを見渡した。そして、
「どう? 似合ってるでしょ?」
とニコリと笑った。
湊人からすると、こういうところが堪らなく可愛くて好きなのだが、今はなゆちへの感情を高まらせている場合ではない。
「なゆち、そんなことより、この人集りは何?」
「分からない。私も今来たばっかりだから」といった類の回答が返ってくるはずがなかった。
なぜなら、人集りはとある雑居ビルを囲むようにしてできており、その雑居ビルには「マーキュリー」という名のライブハウスが入っていて、本来であればなゆちは今、そのライブハウス内でライブを行っているはずだからだ。なゆちは間違いなくこの人集りの理由を知っている。
しかし、なゆちはしばらく黙ったままだった。
少し経って現れたのは、ネオンを反射してキラリと光る一雫だった。
なゆちは泣き始めたのだ。
「……みなと、あのね。……私、すごいショックで……」
なゆちの紅潮した頰を、大粒の涙が伝う。
「なゆち、無理して話さなくていいよ。とりあえず落ち着こう」
「ううん。みなとには伝えなきゃ」
なゆちが体操着の袖を伸ばして涙を拭うと、喘ぐような声で、湊人にとってもショックな事実を告げた。
「……あのね。いつきが死んじゃったの。屋上から飛び降りたんだって」
晴天の霹靂とはまさにこのことだ。湊人がよく知っている人物が、たった今亡くなったとのことである。
「いつき」とは、夕凪いつきのことである。いつきもなゆちと同じ地下アイドルだ。
そして、事務所が同じではないものの、ソロアイドル同士、なゆちといつきは対バンで一緒になることは多かった。楽屋でも一緒になることが多く、プライベートで会うほどではなかったが、なゆちといつきはそれなりに仲が良かったはずだ。
「……いつきが屋上から飛び降りたって本当!?」
問い返すと、なゆちは、大きく首を縦に振った。
その上で、何かを喋ろうとしているようだったが、咽び声で言葉になっていなかった。
「そんな……」
ライブハウス「マーキュリー」は雑居ビルの5階だったが、たしかビルは10階建てである。飛び降りたらまず助からない、というか即死だろう。
今できている人集りの中心には、いつきの死体があるということだ。死体に群がるなど、なんて不謹慎で残酷な人達なのだろうか。
生前のいつきを知っている湊人は、なんだか悔しくて、人集りの一人一人に唾を吐きかけたい衝動に駆られた。
それができないにしても、決して人集りをかき分けていつきの死体とご対面したいなどとは思えなかった。
「……たしか今日の対バンって、なゆちの一つ前の出番がいつきだったよね?」
なゆちは再度首を大きく縦に振った。そして、「そう」と一言口にした。
「たしかオープニングアクトだったよね?」
「そうだよ」
オープニングアクトを飾るはずの演者が飛び降り自殺をしたということは、今日の対バンライブの幕が開くことはなかったということか。
「いつきはステージに立つのが怖かったのかな? それくらい何かに追い詰められてて、だから出番前に屋上に上って、それで……」
「それは違う」
なゆちはハッキリと否定したが、湊人は、なゆちが一体何を否定したのかすら分からなかった。
「どういうこと? 何が違うの?」
「いつきは出番前に飛び降りたわけじゃない」
出番前ではない? ということは、出番後ということか。ステージから逃げるために自殺をした、ならばなんとなく分かる気がするが、ステージを終えた後に自殺をするというのは、あまりしっくりこない。湊人自身がステージに上がった経験はないからなんとも言えないが、ライブ後は気持ちが上向き、ハイになるのではないだろうか。自殺をするならば、ナーバスになっている出番前ではないのか。
「うーん、どうして出番後に飛び降りたんだろう……」
湊人がそう言うと、驚いたことになゆちは、またもや、
「それは違う」
と否定した。
「え? どういうこと?」
私もよく分からないんだけど、と前置きしてから、なゆちは言う。
それはあまりにも奇想天外な内容だった。
「いつきはね、ステージでの出番中に屋上から飛び降りたみたいなの」