『来』
「……ん……んぅ?」
視界の中心から、光の地平線が上下に拡がる。
「あれ? ここは……」
覚えの無い浮遊感に、貧血の様な頭痛。
そこは、見覚えのない景色だった。
自分は、倒れていた訳では無い。寧ろ綺麗に直立していた。
ぱっと見て、普通の建物の中だ。ある程度の広さがあり、適度な明るさのある室内。例えるなら、大きな病院とでも言えるだろうか。特に不自然な点は無く、かと言って何故ここにいるのかが理解できる訳でも無い。
ただ、ソファやら観葉植物やらマネキンやら……病院には似付かわしくない、様々な物体が屹立している。まあそれは正直どうでもいいのだ。
大切なのは、私が何故ここにいるのかではなく、私がどうやってここに来たのかということである。
疑問を解消しようと思い、覚えている最後の記憶に焦点を当てる。
確か……“神社”……そう、『神社』に参ったのだ。何故か知らない神社なのに、吸い寄せられる様に拝みたくなって……うん、そうだ。賽銭を入れて、鈴を鳴らして──
「──ねえ、オジサン」
突然、後ろから聞こえて来た声。
警戒していなかったためか、体中が寒気立つ。首がもげそうになるくらいの速さで、後ろを振り返る。
「なによそんなお化け見たみたいな顔して。私は生きてますよー?」
制服を来た、女子……高校生だろうか。思わず腰の退けている私に、透き通る高い声で話し掛けて来たのは、やけに古臭いセーラー服を来た女の子だった。
「君はここが何か知っているのかい?」
「ええ、とは言っても“だいたい”だけれど。それと“ヨミ”。……私はヨミよ」
謎の病院の様な場所。そこで出会った少女は、自らを“ヨミ”と名乗った。
名乗らせておいてこちらが名乗らないのは失礼だろう。若く見えるのに礼節がきっちりしている子だ。
「私は『ゲン』。──それで『ヨミ』、君はここが何なのか知っていると言ったが、説明してくれないか」
「ええ。でも詳しくはないから、文句は言わないでよね、オジサン?」
前言撤回。自らは名前で呼べと言っておいて、相手は名前で呼ばないとは。躾のなってない子どもだ。
二人でどことも分からず歩き出す。彼女──まあ、私は年長者だ。譲歩してあげるのが気遣いというものだろう──ヨミはどこかしらの目的地があるのかもしれない。……絵面は危ないかもしれないが。
「オジサンはここに来る前、何してたか覚えてる?……ふんふん、神社。神社ねぇ……お参りしたの?……そう、じゃあ聞くね」
途端、彼女は目線を鋭くする。
「参拝した神社の境内。そのどこかに鏡は無かった?」
彼女に質問されて、ハッとする。
『鏡』は在った。私が賽銭を入れ、拝もうとした本堂の柵の向こう。堂内の中心に位置する『鏡』が。
そして確かに、私は見た。──鏡を通して、私自身の顔を。
「この世界にあるモノ、それは半分くらいは“向こう側”から来たモノ。この世界への道しるべ、二つを繋ぐ媒介は、『鏡』。……そう、オジサンはね、この世界に引き込まれたのよ。『鏡』の中に、閉じ込められちゃったの」
何を非現実的な事を、と言い返そうと思った。何の証拠も無く、何の根拠も無く。ここが鏡の中の世界だと? 訳が分からないにも程がある。そういうのは小説や漫画の中だけの話だ。
感情のままに反論しようと思ったら、ふと壁に何かが見えた。
『来』
「……!?」
一見、それはただの文字だ。だが、その文字の後には、何故か消すために擦った様な跡があった。そして何より──
──その文字は紅かった。今も私の体内を流れる、鉄臭い液体の如く。
「どうしたの?………真っ白な、何も無い壁を見つめて?」
どうやら彼女には見えていないらしい。
「何でもない。続けてくれ」
「?……まあ信じられないのも無理はないけれど、すぐに分かるわよ……ちょっと見てて」
そう言って、彼女は立ち止まる。
掃除されて、綺麗に磨き切られている、水面の様な廊下を歩いている内に、私とヨミは、開けたホールの様な場所に出ていた。
そこに並ぶは色も大きさも形も千差万別の物品達。
だが、こうといって関心を惹かれるモノは無い。ヨミが何を言いたいのか。理解する時はすぐに訪れた。
誰も触れることなく、放置されたゴムボール。子どもが投げて遊ぶ、野球のボールより大きく、バスケットボールの物よりも小さい、アレだ。
私とヨミの二人しかこの場にいない以上、そのボールを動かす者はない筈だった。しかし、次の瞬間。
跡形も無く、ボールは消えた。
ゆっくり消えていったとか、視界から外れたとか、そういうものではない。まさに瞬間移動が如く、刹那で姿を消したのだ。
一体何が起こったのか。理解が追い着く前に、状況は更に進む。
ボールが消えたと思ったら、今度はボールのあった位置に、何か同じくらいの大きさの物が鎮座していた。そう言えば今、ゴトッという音がした気がする。
幾つか空いた穴。明らかに先程のゴムボールと違って硬そうな見た目。
そこに在ったのは、ボーリングボールだった。
「分かった? この世界にあるモノは、時々“向こう側”へ行く。もともとこの世界にあったのかは知らないけど、こちらのモノは向こうに行くの。それと同時に、向こうから何かがこちらに来る。だいたいは行ったモノと似たようなものが来ることが多いわね」
なるほど。交換されて来る訳か。
「では私も何かと入れ替わりでここに来たのか?」
「……それが何かは知らないけど、多分そうなんじゃない」
どうでもいいことを確認したかの様な、ぶっきらぼうな態度の彼女は、再び前を向いて早足で歩き始める。どうせ私には行く方向も分からないのだ。慌てて彼女に追随する。
「私は、この世界から帰還できそうな方法を知ってる」
「なら、何故君はまだここにいる?」
「一人じゃ無理なのよ。脱出には、『二人』必要なの」
──壁に、幾つもの傷が見える。紅い、紅い傷が。何かを数え、刻んだ様な。
「君はいつ、ここに来たんだい?」
「そうね、だいたい二十年ぐらい前かしら。その時から、ずっと代わり映えのない景色よ」
二十年……!? それはつまり……
「ヨミ、君は高校生ぐらいに見える。つまり君がここに来た時は──」
「赤ん坊ぐらいだったのかって? 答えはこうよ──違うわ」
ヨミの顔は、出逢ったばかりの私からしても、普通の人間には無い、所謂“聖人”と呼ばれる類の人種が身に付ける、『悟り』……何の感情も窺えない、無我の境地が貼り付いている風にしか見えなかった。
「私はここに二十年いる。ううん、それすら正確なのか、もう分からない。ここにあるモノ、流れてくるモノの中には、時々生ものとか、明らかに長時間持ちそうにないものとか、すぐに汚れてしまいそうなモノがあったりする。でも、それらは決して変化しない。経年劣化なんてどこへやら。姿形を保ったまま、再び“向こう側”へ行く時を待ち続ける」
ヨミの説明は、長年の自信に裏付けられた、どうしようもないまでの確信があった。言葉の節々から、否が応でも読み取れる。
そして、だが……彼女の説明を鵜呑みにするならば……
「理解できた? “モノは変化しない”。それが生物であったとしたら? ──その生物は歳をとらない」
「……よく正気でいられたな」
「正気? 私が? ……本当に私が正気だって断言できる?」
彼女は嗤っていた。自嘲気に。笑いたくても、笑い方を忘れてしまったと、彼女の顔が言っている。
『来て』
壁は続く。二人で歩く廊下は、どこまでも続いて見える。
「もういつ頃か忘れたけど、ここにも生物が来たことがあったわ」
虚空を見つめて、ヨミは反芻する。
「唐突に、いつもとは違う感覚がした。床に落ちた音がした。無機質な物体の落下音じゃなくて、生きたものの、肉の音」
地面には、一匹の中型犬が横たわっていた。
ヨミは当初、奇怪な声が出る程に喜んだのだという。
ずっと一人ぼっちだった、冷たさしか無かった空間に、初めて熱を持った『命』がやって来たのだ。無理もないことであっただろう。
数日に渡り、ヨミはその犬の傍から片時も離れなかった。
呼吸する背中をさすり、その躰の温かさを感じていた。
──そして、気づいてしまった。
「──!」
──その『命』の躰は、既にボロボロであることに。
「思えば、初めからあの子はぐったりとしていた。そう激しく動きはしなかった」
寿命だったのか、何かの病に蝕まれていたのか。
真実は分かりはしないが、ともかくその犬は死にかけの状態だった。
「でも、さっき言ったでしょう?」
「……中にあるモノは……変化しない」
「そ。……死にたくても死ねない、生き地獄の中に、あの子はいたのよ」
その犬は、いつの間にかこの世界から消えていたのだそうだ。
「きっとそっちの方が良かったでしょうね。この世界には、全ての生物に平等に与えられた最後の救いですら、迎えさせてはくれないのだから」
廊下の先に──遙か先ではあるが──終わりが視界に映り始めた。
『来ては い』
「…………」
……壁は、果てまで続いている。
「……ねぇ、あなたの話を聞かせてくれない?」
ヨミは、何一つ感じ入っていない様子で、さり気なく私に訪ねた。
まるで、沈黙を恐れているかの様に……音が世界から失われることを、何としてでも防ぎたいかの様に。
私……私、か……
「二十年もここにいる君からすれば、理解できないことも多いと思うけれど、それでも構わないか?」
「むしろ歓迎よ。あなたから聞ける話ならなんだって聞いてみたいぐらいだわ」
「……そうか」
目を前にやった。
果ては、まだ遠かった。
「私は19XX年生まれの、ごく普通のXX県民だ」
「あら、私より年上なのね」
「当たり前だろう?」
「分からないわよ? 特に私の場合は」
「そういうことじゃない……そこまで私は老けて見えるのか、ということだ」
「……良い感じのおじ様だと思うのだけれど」
ハァ……割と気にしていることなんだが……特にこんな女子高生に言われるとこたえる……
「(褒めてるんだけどね……)で、続きは?」
「……特に面白いところなんてないのだがね」
──何一つ、『山』の無い人生だった。
小さい頃から、親の言うことはよく聞いた。大きなトラブルは起こさず、大人しい人間だった。
それは、どれだけ年を重ねようとも変わらなかった。
誰かと遊びに行くことも少なく、交友を持つ相手もあまりいなかった。
日々の生活、当たり前の日常。ただひたすら、同じ作業の繰り返し。
気がつけば、ずっと一人で生きる人間になっていた。
家族は先に逝き、関わりを持つ人は仕事でのみ。
私は初めから、社会の歯車であり続け、そこから外れることは無かったのだ。
大部分は省いたが、大まかな説明は済ませた。
まさかこんな、鏡の中の世界で、誰とも知らない赤の他人に、自分の人生を語る日が来るとは考えてもみなかった。
「さぞかし聞いていて退屈だっただろう? 何も突出した箇所がない、普遍的な人生など」
「いいえ、面白かったわ。──とっても」
「気を使わなくてもいいんだぞ」
「正直な感想よ」
そんな馬鹿な。
私はお世辞や気づかいというものが嫌いだ。
「そんな嫌そうな顔しないでよ、オジサン。ずっと静止した私からしたら、素晴らしく妬ましくて、羨ましい人生よ」
「──だってオジサンは、自分の好きなように人生を送ってきた訳でしょう?」
ヨミは──彼女は笑った。
先程より、幾分か自然な笑い方で。
「何も進歩がなくて、何も変化のない私と違って、あなたは確かに時を重ねてきた。今の私の発言に嫌な顔をしたみたいに、オジサンにはちゃんと“意思”がある。それだけできっと、オジサンは誇れるよ」
『来ては いけない』
紅い紅い、これ以上なく紅く、そして丁寧に書かれた文字が、私たちの辿り着いた扉には刻まれていた。
辿り着いた場所は、暗い場所だった。
そう、確かに暗い。暗いのは脳が認識している。だが、はっきりと見える。ある一つのモノが、浮かび上がる様に明瞭に。
楕円形の、一枚の鏡。
過度な装飾も無く、どこの家にもありそうな大きさの鏡。
それを中心に、白い光の波が出ていると、私は感じた。実際はどうかは分からない。
見ているだけで厳かな、神妙な雰囲気が醸し出される光景だった。
「この部屋は……ヨミ?」
「……」
彼女は無言のまま鏡へと近付き、私と鏡の前へ立ち止まる。
……どうも様子がお「──止まって」
彼女は私に背を向けた姿勢から突然、私の方へ振り返った。
──その手にはナイフが握られ、煌めく刃は私の首元へと添えられていた。
「どういうつもりかな?」
私の問い掛けに対して、ヨミは殺気立った視線を返す。
「この世界から出るには、『二人』必要……そう言ったわよね」
「あれは嘘だったと?」
「いいえ、嘘じゃないわ。本当よ」
「──ただし、出られるのは一人だけよ」
「…………」
「この鏡……いえ、“世界”はね、“等価交換”で成り立っているみたいなの」
ゴムボールはボウリングボールに。『球』という等価で。
ソファは椅子に。『座る』という等価で。
「この世界に過去、私以外で唯一入って来た生物のこと……犬の話をしたわよね。アレはね、私が殺したのよ」
殺した? この世界のモノは、変化できないのでは無かったのか。
「この世界の中では、不定期に、不規則に、向こう側のモノとの“等価交換”が起こる。でも、そのモノを決めるのは、この世界。何を“等価”と見なすか。それもこの世界次第。でもね、たった一つ、自らで“等価”を決められる条件がある」
「それがこの部屋であり、この鏡か」
「察しがいいわね、オジサン。流石ね」
「こんな状況で褒められても嬉しくないな」
「それもそうでしょうね」
彼女はナイフの先を、私から逸らそうとはしない。
だが、手は震えている。
「弱ったあの子の姿を、私は見ていられなかった。だからこの鏡に願った。『向こう側のあの子の“記憶”と、こちら側のあの子の“存在の死”』を、等価交換したいと」
向こう側に、かの犬を覚えていた者がいたのかは分からない。だが、きっといたのだろう。
故にあの犬に関する“記憶”はヨミの中へと流れ込み、犬の存在はこの世から消えた。
「でも、それを行うにしても、少なくとも実物と繋がれる“楔”が無くてはならない。特にその生物の精神が高度であればあるほど」
「だから君は一人で出ることはできなかった」
「そう、人が外に出るには、等価値のモノを残さなければならなかった」
──納得がいった、全てに。理解した、意図を。
彼女は、ヨミは……初めから決意していたのか。
「悪いけどオジサン、私はオジサンの代わりに外へ出る。私は──」
彼女は続きを紡げなかった。
「ふっ!」
「あっ」
ナイフを握った手を、私が握り、後ろ手に捻ったからだ。
「ううっ!」
「残念、私は警戒できていたとも。道中の壁に書かれていた、『来』という文字から始まる警告文でね」
人間は、未知の状況に放り込まれた際、初めに救いの手を差し伸べてくれた人間を、いとも簡単に信用する。そんな心理状況に、緊張を与えたのがあの『血で書かれた文字』だ。
人間は、意味のある字を見れば安心するが、理解不能な文字を見れば、それが頭の片隅から離れない。結果として、私は警戒心を保ったまま、ここまで『来れた』訳だ。
「……どうするのオジサン。裏切り者の私を置いて、この世界を出る?」
憎々しげに、私を睨む女子高生。その顔を見て──
「いいや、そんなことはしないとも。
アレを書いたのは君だろう?──ヨミ」
──申し訳なさを覚えた。
「何を根拠に……」
「この世界は変化しないのだろう? 君自身が言ったことだ。そんな世界において、“血液で文字を書ける”存在は君しかいない」
「そして、この中にいる君が“変化できない”以上、体を傷付けて血が出ようが、すぐにその傷は完治するのだろう。実際に私も試したが、見事に傷は塞がったよ」
「…………」
「それに君、長年他人と接してなくて、『隠す』ことが下手になっていたようだね。文字が見えない、と言いながら、文字のある箇所にチラチラと目線をやっているのはバレバレだった」
おかしいとは思ったのだ。
彼女があの文字を書いたとして、何故見て見ぬ振りをする?
そして私を騙して自分だけ出ようとしたとして。
──そもそも私がこの部屋に来る必要は無いのではないか?
「等価交換で、『等価値のモノをこの世界に置いていかなければならない』……ならその条件は、満たしているじゃないか。私をこの部屋に連れて来ずとも、私がこの世界に引き込まれた時点で」
だと言うのに、ヨミはご丁寧にもこの世界の仕様を説明し、ここまで私を連れて来た。
「君は初めから、私を裏切ったように思わせて、後腐れなく私を帰すつもりだったんだ」
何という精神力だろう。
何という強靭さだろう。
彼女は二十年もここに閉じ込められてもなお、赤の他人である私を救おうと考えたのだ。
「だが、そうさせる訳にはいかないな」
「……えっ?」
『後輩の為に、未来へ繋ぐ』。これも年長者の務めだろう。
なら、やってあげることになんら疑問を呈することは無い。
「──鏡よ鏡、私は願おう──」
「待って! 待って駄目ゲンさん!!」
「──『私がここに留まる』代わりに、『ヨミをここから出し』てくれ。“等価交換”だ」
嗚呼、そうか。何一つ、特異なモノが無かった私の人生は、きっと何かを成し遂げたかったのだ。
──自分に対して誇れる何かを。
彼女の姿は消えた。
「──さて」
この世界は、実に質の悪い仕組みだ。
最初がどうだったのか、卵が先か、鶏が先かの理論になるが、きっとヨミの“前任者”はいたのだろう。
だからこそ彼女はここまで詳しく、この世界について知っていたのだ。
誰かがこの世界にいる限り、犠牲の連鎖は続くのだ。
だから私は、最後にもう一つ、“等価交換”をすることにした。
これはヨミの為でもある。
二十年間のブランクは大きいだろう。その苦労は想像を絶するものだろうが、ここを耐え抜いた精神力の彼女なら、必ず生きていけるだろう。
これは、未来へと繋がる、私自身の誇りだ。
「──鏡よ鏡、最後の等価交換を願おう」
「『私に関する記憶を向こう側から抹消』する代わりに、『私自身の存在を消去』してくれ」
“等価交換”は成された。