「Tsukinami Happiness~クリスマス~」
ロールケーキが有名なその小さな店は坂の途中にある。湖山は車が追い越していく歩道を少し俯き加減に上っていった。まだ5時だというのに辺りは仄暗い。駅の高架下を潜る冷たい風が坂を駆け上って湖山に追いついた。湖山はぶるっと震えてダッフルコートのフードを被った。
小さな黒板のような看板が見えて、湖山は立ち止まる。店内を見ると主婦らしい小太りの女性が一人小さな紙カップを手に店内の棚を物色している。正面のショーケースにはまだロールケーキがふたつ三つ並んでいるのが見えた。
(良かった…)
湖山はほっと胸をなで下ろして重い扉を開けた。ドアベルが鳴る。
クリスマスらしいデコレーションを施したロールケーキは残りふたつだった。思いついて坂を上りながら予約しておけば良かったと焦ったけれど、これは運が良かったと小さな笑みを零して湖山はロールケーキを受け取った。保冷材は一時間分。ここからのんびり事務所に帰ればだいたいそれくらいの時間だ。クリスマス・イブの今夜きっと事務所には誰も居ないだろう。それとも──。
湖山はダッフルコートの長い袖をまくって時間を確認した。
(多分、大丈夫。)
高架下でクリスマスソングを歌っている若者が風に目を細めていた。
ビルの下から見上げる事務所は思ったとおり暗い。湖山はナンバーロックを押してガラスの扉を開ける。上ボタンを押すと、湖山を待っていたかのように一階に止まっていたエレベーターは程なくその扉を開けて湖山を向かい入れた。暗い廊下に降りる。きゅうきゅうと鳴る廊下を突き当たりまで行き、またロックボタンを押す。電気パネルを手探りで押して薄暗い事務所へ入っていった。おそらくほんの数十分前までは誰かが居たのだろう事務所はまだ暖房の効いた空気が暖かった。湖山はケーキの箱が入った袋をスリーブデスクに置き、パソコンの電源をつけるとコートを脱いだ。脱いだコートを椅子の背もたれに置いたとき、クリスマスの華やいだ街並みの中の冷気がそうっと立ち上ったような気がした。
機材はカメラごとアシスタントの吉岡に預けて来てしまったし、特に仕事があって戻って来た訳でもない湖山はやることもなく手持ち無沙汰にパソコンに入った画像や書類の整理を始めた。湖山の動かすマウスとクリック音、そして古いエアコンの唸る音が静かな事務所に響いている。
【Private】──湖山は何の気なしにそのフォルダをダブルクリックした。そして図らずも思い出の海の中へ誘われていく。
それは、二年前に小さな画廊で開いた湖山の個展の写真のフォルダーだった。大掛かりなラブレター。たった一つの言葉もない、それでいて湖山にとってはそれ以上に饒舌に語ることなどできない。春浅い光の中に現れ、知らず知らずのうちに湖山を侵食した恋。そしてじわじわと湖山の心を乗っ取り、玉砕した恋。そして、スライドが一枚、二枚と変わる度に、湖山の胸を満たしていくのは、その恋の相手ではなく、背の高いアシスタントの姿だった。個人的な個展の準備に弱りきった湖山を窘め、自分の週末もつぶして、何も訊かず何も言わず手伝ってくれた。デニムに包まれた長い足を持て余すように胡坐に組んで何枚も何枚も作るパネル。額に掛かる不揃いな前髪を無造作に掻き揚げながら、時計を睨みつけてはステープラーを打っていた。都会に浮いた宇宙船のような画廊で、一枚一枚パネルを外す大沢の広い背。ニットのプルオーバーの丸い衿からのびた俯いた首筋。ビスを乗せた大きな手。
カシャン、カシャン──その音は、クリックの音なのだろうか、それともシャッターの音?湖山の恋を切り取っているその音が湖山の鼓動と重なって遠く遠く波の向こうへと誘う。ひとつふたつだけ点いた蛍光灯の下で、湖山は船を漕ぎ出して行った。
カタカタと鳴るエアコンの音。それからカシャカシャと物音がする。腕時計が当たっていた左の額が痛い。身体を起こすと、肩から落ちたコートからふわりと漂う、人肌の温もりに似た匂い。
「湖山さん?」
「…あ、大沢。お帰り。」
事務所に戻った大沢は机にうつ伏している湖山にコートを二枚掛けて仕事をしていたらしかった。絨毯を蹴って背の方に身体を乗り出して湖山の席を覗き込んでいる。湖山は床に落ちたコートを拾い上げ、膝に乗せて「寝ちゃったんだ…」と小さく呟いた。
大沢は「んん?」と聞き返すと、椅子から立たずにその長い脚を動かして椅子ごと湖山の方へ向かってきた。その姿は少し滑稽で湖山は思わず笑った。大沢は湖山の隣の席の少し曲がった椅子の背を真っ直ぐに戻してデスクに納めると、その椅子の背に肘を凭せ掛けて頭を乗せ、湖山を見詰めた。二人は暫し見詰め合っていた。大沢が微笑んでいた唇を大きく横に引いて、そして、
「直帰じゃなかったの?」
と訊いた。でもそれは本当は、訊ねたのではなくて彼が湖山から欲しい言葉をねだった問いかけだった。
「うん…。」
湖山は大沢のカーキ色のモッズコートを袖畳みに畳みながら頷いた。
「そのつもりだったけど、大沢が事務所に帰るって聞いたから。」
大沢は椅子の背に凭せかけた腕においていた左手をそっと湖山に伸ばして湖山の髪をくしゅりと触った。髪についた屑を取ってやるような仕草で。それから手を離して少し迷った手を自分の膝に置いた。
饒舌な大沢の目は湖山のその受け答えに満足している。優しげに細まっていた。
「そうだ。ケーキ。」
湖山はスリーブデスクに置いたケーキの箱を取ろうと身体を少し屈めた。細い指が袋に届く。目の前にぶら下げるようにして大沢に渡すと、大沢は大きな手で摘まむようにその袋を受け取って、ニコリと笑った。
「クリスマスケーキ?」
「うん。メリークリスマス!」
大沢はそっと膝の上でパッケージを広げた。クリスマスデコレーションの白いロールケーキが箱の中に鎮座しているのを覗き込んで、「おぉ」と、小さく感嘆の声を上げた。少年のような笑顔がこぼれる。大沢はケーキをそうっとデスクに置くと立ち上がり、給湯室の棚からティースプーンを二本持って戻って来た。
「食おう?」
破いた箱の上のロールケーキを、右と左から食べていく。口の端についたクリームをお互いに「ついてるよ?」「ついてるぞ?」と教えあい、笑って、甘い甘いと眉を潜めて食べていく。ロールケーキが小さくなった時、小さなスプーンがふたつ、カチャと鳴って止まった。長い指の大きな手に隠れるように摘ままれたティースプーンがもう一度カチャリ、ともう一方のスプーンを叩けば、細い指に包まれたティースプーンが答えるようにカチャリともう一方を鳴らす。何かの合図のように、カチャリ、カチャンとスプーンが鳴るたび、小さな残り少ないケーキが崩れて、まるでそのケーキがホロリと綻ぶたび二人の心のどこかも綻びていくようだった。幸せの鐘の音が鳴るように。
ティースプーンを置いた大きな手が掌を仰向けて誘っている。湖山はティースプーンを置く事ができない。このスプーンを置いてしまったら、自分はきっとあの大きな掌にこの手を乗せてしまうのだろう。そしてこの手があの大きな掌に包まれた時、自分は何を思うのだろうか。
そんな躊躇いを大沢は察しているのか、それとも、気がつかないふりで、湖山の手からティースプーンを摘み上げるとその手を取って掌に乗せた。反射的に逃げ出そうとした湖山の手を逃がさないように掴んで、大沢は声を出して笑った。その笑い声に救われて湖山は手を握らせたままにしておく。湖山の胸に去来するものは、不安や恐れではない。少なくとも、そういう後ろ暗い気持ちではなくて、優しくて穏やかな温かい想いだった。この手に守られているのだと感じる。この男が自分のアシスタントをしてくれるようになってからずっとそうだったように、この先もきっと、自分を支えて守ってくれる手がここにあるとその手の温もりが教えてくれている。
「喉渇いた。」
「これだけ食べると甘すぎるよね。」
「何か飲みに行こうよ。」
「うん、そうしよう。」
少年達の小さな会議のように二人は頷き合って、帰り支度を始めた。クリームの溶けた箱をたたみ、指についたクリームを舐めとる朱色の舌を湖山は、トクトクと打つ自分の鼓動を感じながら見守った。寒くもない暖房の効いた部屋の中で震えそうな指先でダッフルコートのトグルボタンをとめ、コートに埋まるように首を引っ込める。ダッフルコートの中から自分のベッドに潜り込んだときのような安堵感が立ち上った。
青い光、赤い光、緑の光が交差する街角を肩を並べて歩く。ふと何かに見とれる瞬間に数歩遅れる湖山を大沢は何度も振り返る。彼の広い肩越しに見るクリスマスの街並はなんて優しいのだろう。巨大なクリスマスツリーを飾る青い玉と銀色の玉はまるで、ツリーを駆け上がって空へと帰ろうとするみたいに見える。玉に反射する光は湖山を振り向いた大沢の不揃いな髪に光って透けている。
大沢に追いついて大きな通りに出たとき、ビルの隙間を走り抜けて来た風がびゅーとその目抜き通りを駆け抜けて行った。湖山はダッフルコートの衿をぎゅっと掴んで硬く目を瞑った。目を開けると、大沢が目の前で紙袋から小さな包を取り出した所だった。緑色の包装紙に金色の小さな星が散らばっている。ペリペリと包装を剥がし中から取り出したのはマフラーだった。濃いグレーにワイン色のラインが不規則に入っている。大沢がマフラーをそうっと湖山の首に掛けてくれた。マフラーを滑らせた手が一瞬頬に触れたとき、大沢の手の冷たさがゾクリと湖山を震えさせた。脇に挟んでいた紙袋と包装紙をふたつに折りながら、大沢は照れくさそうに笑った。
「なんか…ほんとはどこかでちゃんと渡したかったんだけど…」
「ムード、たっぷりに?」
「そうそう、ロマンティックに。」
ふざけ合うことでしか、甘い事を言えない自分たちは不幸だろうか。それでも、やっとここまで来た。言いたくて言えない一言を隠していても、溢れてしまう想いをオブラートに包むように愛の言葉を紡ぐ。さり気ない言葉で、二人にしか分らない重さで。どこまでも冗談半分にしか聞こえない軽さを残して。
いつか言えるなら──
マフラーに顔をうずめてくんくんと鼻を鳴らすと、真新しい毛織物の匂いがする。マフラーの端っこを掴んで、そうっと手を上げると、誘われたように屈んだ大沢の頬に届いた。マフラーを掴んだ湖山の手に自分の手を重ねて、大沢は嬉しそうに笑う。
「あったけー」
お互いの息が掛かる程近い距離に、真っ直ぐに見れない目を迷わせて、求め続けてやまない何かを捜している。すぐそこにあるのに、手に届かないもの。手の届く近さにありながら触れることを躊躇い続けているもの。冷え切った手を重ねてこれほどに温かいのは、きっと彷徨う言葉が迸ろうとしている気化熱だ。
「あったかい。」
湖山はほぅっと息を吐いて呟く。その声は確かに大沢に届いて、大沢はゆっくりと頭を上げながら湖山を見詰めていた。このまま時が止まったらいい。月並みな言葉で幸せを感じる。二人のクリスマスは始まったばかりだ。