珈琲店ファン&トム
揺らめく湯気がある私の鼻腔をくすぐった。確かに良い香りである。これがかつて私が探した喫茶店の珈琲かもしれないと思う久々にわくわくできるものがある。
見た目はブラックホールのように黒く、私の意識さえも吸い込んでしまいそうなほどだ。舌を火傷しないようにゆっくりと啜る。程よい熱さの珈琲は私の口の中にすんなりと入ってくる。その味はほんのりと苦く、どこか甘さも持った淑女のような味だった。
「これがあの珈琲か」
周りに私以外の客はいない。気付けばこの店の店主もカウンターから姿を消していた。
初めてこの珈琲の事を知ったのは三年前の事だった。
***
「昨日とても不思議な喫茶店を見つけたんですよ」
私の可愛がっていた部下が、出社後、開口一番に開いた言葉だった。珈琲好きで話の合ったこの部下のキラキラした目を私は今でも覚えている。
「どんな店だったんだい? 私も行ってみたいな」
「それがですね。どこにあったのか検討もつかないんですよ。ただ古めかしい内装でオシャレな雰囲気のお店でしたね。店から出たと思ったら、店ごと無くなっていたんですよ。夢でも見てるんじゃないかって思いましたね」
「それこそ夢じゃないのか? きっと疲れてるのさ」
「夢じゃありませんでしたよ! あれは絶対に」
私は部下の言う言葉を信じられなかったが心に引っかかるものがあり、昼食時に馴染みの喫茶店の店主に尋ねてみようと思った。
「私も多くの喫茶店に行っているが聞いた事ないんだがね」
「これは僕を怪しんでいる目ですね? 分かりますよ」
部下とは付き合いが長かった。部下がこの会社に入社してからの付き合いだ。非常に優秀で、いつ私を追い抜いて行くかとひやひやしたものだ。だから、私も彼に負けないように必死に働いた。
そんな話をして私は仕事を開始する。部下も私語を止め仕事に戻っていった。この切替の速さが彼の優秀さを現していたと思う。
昼になり、昼食を食べる為、私は馴染みの喫茶店へ向かう。季節は秋だが、夏の残暑が厳しく、汗が滲み出す。ハンカチでその汗を拭いながら私は喫茶店へ入っていった。
カランコロン。ドアを開けば数三十数年来聞き慣れたドアベルの音が私を迎えてくれた。
「いらっしゃい」
この喫茶店の店主は私と同い年だった。ひょんな事からこの店を知り、話の合う店主を気に入ってほぼ毎日通っていた。
「Aランチで頼むよ」
「了解だよ」
この短いやり取りだがフランクなやりとりも私がこの店を気に入っている所以だ。
ランチを食べ終わり紙ナプキンで唇を拭う。見計らったように店主が珈琲を持ってきてくれた。立ち込める湯気が私に『早く私を飲んで』と急かしているように思える。
一口飲む。珈琲の芳ばしい香りが口の中に広がり、軽い酸味と苦味が調和を取って旨味を増幅させている。本当に美味しい。
「流石だな。美味い」
「こそばゆい言い方はやめてくれ」
カウンター越しにいる店主に賛辞を送る。すると彼は決まって照れ隠しをするように苦笑いするのだ。
「ところで、一つ質問があるのだが」
「なんだい?」
ここで私は一呼吸おいて、口を開いた。
「部下から聞いたのだが古めかしい内装のオシャレな喫茶店があるらしいんだ。そこの珈琲が美味いらしい。それと、どこにあったかのかよく覚えていないらしくてな。彼が嘘をつくとも思えないし、そんな店があるのなら行ってみたいと思うだろ」
「お前はそうやっていつも俺に他店の話をするが、失礼だとは思わないのか?」
「悪い悪い。私の中でマスターが一番の情報通なんだ。マスターから勧めてくる事もあるだろ?」
「そりゃそうだ。それにしても、どこにあったかは覚えていないけど、とんでもなく美味い珈琲を出す店ねぇ。聞いた事はあるな」
俺は店主の言葉に目を見開いた。この界隈で知らない喫茶店は無いと言われるほどのこの店主。その情報を頼りに部下の行ったと言う不思議な喫茶店に行けるかもしれれない。しかし、ここの店主ですか話を聞いた事がある程度の噂話でしかない。
「行った事は無いんだな?」
「噂で耳にした程度だよ」
それから話は変わり、私が店を出るまでそれは続いた。
仕事を終われせて帰宅する。
「ただいま」
「おかえりなさい」
今この家にいるのは妻と私だけだった。結婚して二十九年。二人の子どもは社会人として社会の渦に埋もれているだろう。
「今日面白い話を聞いたんだ」
「あら、どんな話かしら?」
「部下がね。とても不思議な喫茶店を見つけたらしいんだが、それがどこなのかさっぱり覚えていないらしいんだ」
妻とは大学時代からの付き合いだった。社会人になってから、私からプロポーズをし妻がそれを承諾してくれた。元気な子どもも二人授かり、娘の結婚式では大泣きしたのは記憶に新しい。
「あなたも好きね」
無口な妻は私の話をうんうんと聞いてくれる。妻の用意した食事を食べ、風呂に浸かり明日に備えて眠る。そんな毎日の繰り返しだがとても充実していた。
部下の話を聞いてから何ヶ月か過ぎた冬の事。日曜日、朝早く起きた私は珈琲を嗜みつつ新聞を読んでいた。
「いつも早いわね」
「習慣だからね」
いつものように軽口を言い合うが、妻の顔色が悪い。妻自身は何ともないように振る舞っているが、いつも顔を見ている私にはそれがすぐに分かった。
「それよりも顔色が悪いが大丈夫か?」
「少しお腹が痛いのよ」
「今日病院に行くか」
こうして私は妻を病院に連れて行く。
病院で受け付けを済ませ、妻の名前が呼ばれるのを待つ。十数分後、妻の名前が呼ばれ、検査をして戻ってきた。
「どうだった?」
「再検査だって」
再検査。タバコも酒も飲まない妻の体に異変が生じている事を私は信じられなかった。
***
妻はあの日病院に行ってからみるみる体調が崩れていった。背中の痛みを訴えたり、腹痛を訴えたり。そして、入院する。
「膵臓癌です。末期で、余命三ヶ月でしょうか」
主治医から言われたこの余命宣告を私は信じる事ができなかった。思わず掴みかかりそうになる感情を抑える。
「そう……ですか」
***
妻の余命宣告から半年が経った頃、妻は人生を終えた。広い家に私が一人残される。私の気力は一気に削がれていく。定年を前に私は仕事も止め馴染みの喫茶店にも顔を出さなくなっていた。
「たまには出かけるか」
仕事を辞めた私はスーツに身を包む事も無くなり、ラフな格好で出かける。何の目的もなく出かけた私は気がつくと自分の通勤ルートを辿っていた。仕事に追われていた日々では見ようともしなかった景色が私の目に写し出されている。
「こんな物もできていたんだな」
一年ちょっと過ぎただけで景色はこうも変わるものだとは思わなかった。ガタンゴトンと揺れる電車の椅子に座る事のできる緩やかな時間。
私が目指すのは馴染みの店。いつも降りていた駅で降り、歩きなれた道を行く。
路地裏にひっそりと佇む馴染みの喫茶店。私は迷うこと無く向かったが喫茶店は無くなっていた。定休日お言うわけではない。まったく別の店に変わっていたのだ。
私の気持ちと同調するように天気が崩れていく。低い雲が雨を降らせ、雷を打つ。
「最近の天気予報も外れるんだな」
どこか雨宿りができるところは無いかと歩いていると私は一つの喫茶店を見つける。佇まいからかなり昔からあるような雰囲気であるが、この界隈の喫茶店は網羅してるはずだから知らない店があるなんて事はないと思う。
“珈琲店ファン&トム”
不思議な店だった。かつて部下が入ったらしい店なのだろうか。私は生唾を飲み込みドアを開く。カランコロンとドアベルが鳴る。真鍮製であろうドアベルが綺麗な音を奏でていた。
「いらっしゃいませ。ここは珈琲店ファン&トム。お客様の心を癒やす喫茶店でございます」
私はカウンターに座る。芳ばしい珈琲の香りが店内に広がっている。この喫茶店特有の香りを私は楽しんだ。
妻の死から私の気持ちは落ち込んでいたが、ここの店主の言うように心の疲れが癒えていくように感じた。
出された一杯の珈琲は見た目はブラックホールのように黒く、私の意識さえも吸い込んでしまいそうなほどだ。舌を火傷しないようにゆっくりと啜る。程よい熱さの珈琲は私の口の中にすんなりと入ってくる。その味はほんのりと苦く、どこか甘さも持った淑女のような味だった。