「迷走する未来」
志門とミカがバスルームでお互い裸で居たことは麻里衣によって律子へ伝わっていた。志門と律子の仲は決裂し、ミカも精神的に大きな痛手を負う事になる。
この後、志門にはさらに大きな試練に直面する。仲が決裂したとはいえ志門は律子との関係の修復を望んでいた。そんな中、律子は突然の交通事故によって亡くなってしまう。
ここに至って、志門はミカが何者なのか、そしてどこから来たのかを考えるようになる。ミカも志門の気持ちを知っており、ついにミカは自分の事について志門に話そうとした、その時、部屋の中が眩しく輝いた。
第五章 「迷走する未来」
全員、ホテルをチェックアウトするためフロントに集まっていた。
表面上、特に変わった事は無かった。しかし志門は昨日の事もあり真面に律子と麻里衣の顔を見れなくなっていた。
志門、理乃、ミカの三人の他は特に緊張した様子もなく普通に見えた。中でも蘭人は昨日と比べてテンションがかなり上がっているようで喋りっ放しだった。
一行は同じルートで帰路に着いた。
リニアの中でも昨日来た時と変わらなかった。三人はきっと気にし過ぎていたのだと各々がそう思っていた。きっと麻里衣も昨日の事なんか気にしていない、忘れているんだ、と自分に言い聞かせた。
ミカは外の景色を見ながら思った。
(地上はこんなに自然が綺麗なのに、何で人の心はこうも苦しまないといけないんだろう………私の国ではこんな美しい自然なんて無いけど、今ここであるような心苦しさは無い……それでも、まだ何かが欠落しているとでもいうんだろうか?)
志門は目を閉じたまま動かなかった。出来れば時間が止まってくれればいいのに、とさえ思った。
旅行へ行く時の時間は長く帰り道は短く感じた。その先に在るもの、未だ見ない結果に志門は慄いていた。
確かな事はミカが来てからまだ二日が経とうか経たないかくらいだが確実に何かが変わろうとしているのを志門は感じていた。
理乃は律子と麻里衣を見ていた。律子は昨日やはり飲みすぎたらしく軽い頭痛を訴えていた。座席で寝ているが志門の横に居ないことが気に掛かっている。
また今回の騒動を大きくした張本人である麻里衣は平然とお菓子とジュースを口にしていた、そして目を合わそうとしない。
今回、何時も蘭人に付いて来るオマケの様な子に翻弄されたことを理乃は決して快くは思わなかった。
出来るなら帰ってから蘭人に文句をありったけぶつけたい、それ程、今回の旅行の落ちが気に入らなかった。
数時間が経ちリニアは自分たちの住んでいる街の中央駅へと滑り込んで行った。
志門たち一行は各々自分の荷物を持ってホームに降りた。時刻は昼過ぎ、ホームに人影は疎らだ。
理乃は皆に型通りの挨拶をした。
「皆、ありがとう。一泊二日の強行軍だったから少し疲れたかな、今度はもう少し時間を取るから…じゃ、お疲れ様、皆気をつけて帰ってね」
その場で蘭人と麻里衣は帰り律子が残った。
理乃は嫌な空気が停滞しているのを察知した。
「リッツは? 今日は早めに帰ってきたし家に戻って休んだ方が―――」
律子は理乃の言葉を耳に入れずにミカの前に進み出た。
「ミカさん、話があるの、一緒に向うへ行こうか」
それを聞いた三人の緊張は一気に高まった。ミカの体は小刻みに震えていた。
「いや…だ……………行きたくない…」
「そう――そうなんだ…」
“バシッ ” という乾いた音がホームに響いた。
よろけてその場に崩れ落ちるミカ。冷たいコンクリートの床に着いた手から志門が巻いてくれたブレスレットが外れて落ちた。
同時に傍らに居た志門は片手で自分の顔を押さえその場に膝を落とした。凄まじい心の痛みが志門を襲った。
「リッツ、何をするの‼ ミカは何も悪い事はしていない」と理乃が叫ぶと律子はキッとした感じで理乃の方を睨み、こう言った
。
「彼女の部屋に志門君が裸で居た‼ 何をどう言い訳するつもりなの!」
いつもの律子ではなく声のトーンも違っていた。
ミカは頬を叩かれた痛みと精神的なショックで身体に力が入らずその場に座したまま鼻と唇から血を垂らした。
律子はミカの前で屈み込むとポケットからハンカチを取り出して鼻から垂れている血を拭き取ってやるとコンクリートの床に落ちたブレスレットを拾い上げ、ミカの手を取って其れを渡した。
「これは志門君があなたの為に買ってくれたもの、これはあなたのもの、そして志門君の私への気持ちも一緒にあなたへ渡す」
「リッちゃん…」
志門はそう言うのが精一杯だった、何も出来なかった。
律子は立ち上がって背を向けると去り際にこう言い残した。
「志門君、あなたと付き合った二年間、本当に楽しかった………さよなら」
その場に三人は残された。
理乃は自分の家に帰る前に志門の家に立ち寄った。
駅であった事について二人のことが心配になり、志門とミカの気持ちを聞いておきたかった。
ミカは叩かれた事と精神的なショックで相当落ち込んでいる。志門もまた同様に律子が自分の元を離れていった事に大きな失望感を抱いていた。
理乃は勝手にお湯を沸かし自分でコーヒーを入れ二人に出した。最低な状況の中、理乃の入れてくれたコーヒーはまるで関係ないかのように凛として良い香りを放っている。
「志門、ミカ…………ゴメン、私何もできなかった」
理乃は頭を下げ謝った。志門は理乃の肩に手を置くと首を振って言った。
「麻里衣は昨日の夜のこと、リッちゃんに話したんだ…多分ね。理乃は悪くないよ、一番ミカの事を理解してくれていたじゃないか。
今度の事は誰も悪くない、其々の考え方や物の見方が違っただけなんだ」
志門はミカの方を見た。左の頬がまだ赤く腫れていた。ミカは志門の方を見るとポロポロと涙を落とした。志門は聞かなくてもミカの気持ちを十分理解していた。
ミカの手を優しく包みこう言った。
「ミカ、僕のことは気にしなくていい、大丈夫だ………大丈夫、大丈夫だから」
ミカは感情が抑えきれなくなりワァーッと叫ぶと志門に縋り付いて声を上げて泣いた。
(可哀想に………叩かれた時、相当ショックだったんだ。おそらくミカはこんな人間関係は初めてだったに違いない)
「これからミカはどうするの? 」と理乃が言った。
「どうするって? そういえばまだ決めてなかった。帰ったら話し合う事になってたんだ。今日は難しいな…」
「分かった、もし何かあったら呼んでね。いつでも相談にのるから」
そう言うと理乃は志門の家を出た。
自宅は志門の家に近く歩いて数分で自分の家に着いた。理乃がドアを開けると母が迎えに出てきた。
「どうだった、楽しかった? 」
理乃の母は聞いてきたが理乃は「まあね…」と一言だけ云うと自分の部屋に入った。
理乃は今回の旅行が悪い意味で特別なものになってしまった事を悔やんでいた。
志門の言った通り誰も悪くないのは分かる、しかし律子は志門から離れ、ミカは大きな精神的痛手を負う事になった。どうしても納得など出来なかった。今までは皆が楽しくその日を終わることが出来たのに、と何回も心の内で呟いていた。
そう思っていた時、ドアがノックされ理乃の父親が入ってきた。
「理乃、何かあったのだね」
「やっぱりバレてた? お母さんが何か言ったんだね」
「ほんの少しのことでも親には分かるものだよ、何があったのか言ってみなさい。良ければ相談にのるよ」
「お父さん、言っても良いけど絶対に口外しないと約束してくれる」
「道徳的な部分に反しない限り約束しよう」
ミカの父は厳格なクリスチャンで聖書における道徳的な基準を生活する上で固く守っていた。理乃にとって厳しい父親である反面、心の内をそのまま吐露出来る人だった。理乃は今回あった事を細かく父に話した。
理乃の父は腕を組んで暫く目を閉じていた。
理乃の話をそのまま信じるとすれば通常の概念では理解できないような要素が今回の旅行には在った、と判断せざるを得なかった。
聖書の基準から見れば結婚もしていない若い男女がお互い肌を晒していい訳がない、しかし戯れでもなく悪意もなくそれが人助け………困っている人のために良心の内で行ったと言うなら一体誰が悪いというだろうか。
「理乃の言う通りなら誰も悪くない、しかし問題なのはその結果が示す方向性だね」
「方向性?」
「志門君から律子さんが離れて行ったんだろう。そして、もう一人ミカという子が加わったんだよね………この後の経過は注意して見る必要がある。これはお父さんの考えだけどね」
「私は志門を信じているし愛しているの。その………男女の関係じゃなくて、志門の存在が私にとって大切なものなの。それと同じくらいミカという子に対しても同じ」
「そうか………志門君、理乃とずっと一緒だったからな、彼は私達にとって家族も同然だった。それと同じくらいミカという子も、か………そうか」
理乃の父は納得した様子で立ち上がった。そして部屋を出る前にこう言った。
「理乃、今の気持ちを大切にしなさい、きっと良い方向に変わる」
「ありがとう、お父さん。今は何も出来ないけど、そうなると信じている」
こうして三人にとって旅行の二日目は誰かが時計の針を押し進めるように過ぎ去っていった。
翌日、志門は早い時間に起きると簡単な朝食を二人分用意した、一つはミカの分だった。
昨日の事から完全に立ち直れた訳ではないが、それでも日常は進んでいく。どこかで折り合いを着けなければ進む事が出来ないと志門は思っていた。が、その反面、ちゃんとした答えを出さないまま、また自分の感情をはっきりさせないまま問題を闇に附す事を恐れていた。
(あっ! 起きたかな)
志門にどんよりとした感情が伝わってきた。どうやら今、ミカは目を覚ましたらしく、未だ何も考えていないようだ。志門は朝食をテーブルに並べるとミカを起こしに行った。ミカの為に昨日用意した部屋のドアを軽くノックした。
「お早う、ミカ起きてるか? 朝食を用意したから、服を着たら来てくれ」
ミカの返事は無かった。未だ頭の中がボーッとしているようだった。
二十分後、ミカはリビングに来た。昨日、十分な睡眠が取れていないのか目の下が浮腫んでいた、そして、律子に叩かれた頬に手の跡が若干残っていた。
志門はミカの頬に手をやると労わるように言った。
「痕が少し残っている………可哀想に、リッちゃん力任せに叩いたんだな」
「志門、私は…」
「僕は大丈夫って昨日言ったよ。ところでミカ、これからの事を話し合う前に少しだけ確認したい事があるんだ」
「どんな事だろうか?」
「リッちゃんに対して今どんな気持ち? 旅行の最初の日に麻里衣の事で凄く怒っただろ、それと同じくらい怒った?」
ミカは少し俯き加減で志門を上目遣いで見ると申し訳なさそうに小さな声で言った。
「麻里衣の時はあからさまに悪意が見て取れたからだ。今回は違う、私に過失があった………律子が私を叩いたのは当然だ。そして志門にも取り返しの着かない結果を招いてしまった」
「ミカはリッちゃんが叩いたのは何故、当然だと思う」
「志門が大切な人だったから?」
志門はコーヒーを少し飲むとミカにも勧めた。ミカも少しだけ飲んだ。
「どう大切な人なんだろう」
「その部分は理解できない…………」
「ミカ、異性の大切な人は同性の大切と意味が全く違うんだ。異性の場合、家族を前提にした大切さ―――平たく言うとそういう愛情なんだ。それは自分自身と同じようにその人も大切、ということなんだ。
少し違うかもしれないけど僕がホテルのバスルームでミカに示した感情もそれに近い。あの時、ミカを自分自身の様に大切にしたいと思った。それと同じようにミカがあの時言った “慕っている ”という表現も間違いじゃない」
「志門、私は家族を理解できていない、理乃には少しだけ話したけど私の国には家族という構成が無いんだ」
志門はコーヒーカップをテーブルに置いた。そして、暫く考えた上で言った。
「ありがとうミカ、それ以上は言わなくていいよ。多分言えない事だと思う……ミカの気持ち、良く分かったよ。リッちゃんに叩かれたとき、彼女を激しく憎んだんじゃないのかって凄く心配したんだ、ミカにそんなのは似合わない」
ミカは首を振って否定した。
「そう想ってくれるのは嬉しい、だけど志門………私も普通の人間なんだ。努めて、また習慣でそうする事は出来ても自分の気持ちには限界がある」
志門にミカの気持ちが伝わってくる。偽りの無い真実な想いなのか、それは深く感じた。志門は話題を変えた。
「明日からミカはどうする?」
「此処に居るのに金銭が必要だろうか? 旅行の分も返さないといけないし…」
「当面は大丈夫だけど、両親が亡くなってから保険が下りてるから」
「志門は一人なのか? 」とミカ。
志門は「あ〜っ」と言うと額に手を当てた。
「そういえば、オレ家族が居ないってこと、ミカに言ってなかったな。実は8年前、両親は行方不明になったんだ、この家には僕しか居ない。」
志門は特に気にする様子もなく真実を語った。
ミカは志門の言った言葉の中で『8年前』という部分に注意を引かれた。
(…………8年前? 何かの符号の一致なのか…事故でループストライカーからの脱出を余儀なくされた―――そう、8年前だ)
「行方不明? 事故なのか、それは」
「事故と言えるかどうかさえ解らないんだ、両親は小型の観測機に乗っていて大きな円形の物に飲み込まれてそのまま消えたんだ。原因は今でも解らないまま………」
「その円形の物はどうなった」
「レーダーの画像しか見てないから実際どうなったか分からない―――それは大きくなったと思ったら収縮して消えた、観測機ごとね」
ミカは更に突っ込んで志門に尋ねた。
「レーダー? アベルの電測機器の一つか――構造は?」
「電波を物体に反射させて物体までの距離や位置を測定する―――知らないのか?」
ミカは両手を握り上半身をテーブルに伏せた。
確証は出来ないがブレスレットに入力されていた記録と状況が酷似しているし、レーダーの画像の事も亜空間が展開された時、外縁の大気が極度にイオン化する事で説明が着く。しかし、どうか間違いであって欲しいとミカは思った。
(志門の過去の8年間は私によって引き起こされた⁈ 考えたくない、有り得ないっ、そんな酷い話があっていい訳ない‼ 私は――)
志門はミカを覗き込んで心配そうに言った。
「ミカ、何だ…大きな不安が伝わって来る。何かあるのか?」
もしブレスレットを失っていなければ正確な情報が分かったかもしれない、しかし今、自分の思っている事は憶測であって確証ではない―――ミカはこれ以上、志門に余計な心配を伝えないために気持ちに逆らって話題を変えた。
「大丈夫―――少し調子が良くなかっただけだから…志門、私は明日からでも仕事がしたい。借りた旅費の返済と、この家での滞在費用を賄いたい。何か私に出来そうな仕事は有るだろうか?」
志門は無いと答えた。ミカは未だ十分に環境に慣れていないし、それを飛び越して知らない国での仕事など無理、いや、働かせたくない、というのが本音だった。
「暫くは生活環境に慣れる処から始めたほうが良いだろう、まだミカが知らない慣習が沢山あると思う。それに慣れてきたらボツボツ始めたんで良いんじゃないか」
「そうか………でも手持ち無沙汰だな、家の中で私に出来そうなことは無いのか?」
志門は腕を組んでウ~ンッと唸るとミカにこう言った。
「掃除、洗濯、食事……多分ミカはどれもやった事がないんじゃないかと思う」
「確かに、その様な事は知らない。ところで志門は何を、仕事は何だ?」
「勉強、僕はまだ大学の二回生だから。今日、昼から大学の方へ行ってくる」
「私も一緒に――ていうのはダメか? ここの社会勉強も兼ねて」
志門は冷えたトーストを口に入れモグモグさせながら言った。
「そいつはラメら、ウグッ――そんな所見られたら大騒ぎになる、ミカは容姿も良いし、そんな子が何で僕と一緒なのかと考える奴もいる。それとリッちゃんの事も在るしね」
志門は冷めたコーヒーを飲み干すと食器をキッチンの流しへと運んだ。
「だけどミカ、どうしても、ジッとして居られないなら街に出てもいいよ。ただし、その日必ず無事で家に帰って来ること。そう、無事にね」
志門は無事、という言葉を二回無意識の内に言っていた。自分の周りに存在する者の欠落、両親の喪失以降、身近にいる仲間を喪いたくない気持ちが心の底にあった。
その日の午後、志門は大学の講義へ、ミカは街の散策へ行くため、お互い家を後にした。
志門の住んでいる街は人口数万程の小規模な街だったがロケットや航空関係の為に広大な滑走路やロケットの打ち上げ設備が整っていた。大手の重工業による航空機のテストや国や大学、企業が官民一体となって技術の研究開発を行っており国から技術開発の特定区として認定を受けていた。それだけに街の環境も良く整備されており必要なものは何でも揃っていた。
ミカは志門から与えられた幾らかの金銭を持ってとにかくバスへ乗り込んだ。何処へ行こうという訳ではないが出来るだけ街の中心に近いところでバスを降りた。
そこは昨日の駅の近くで二階構造のアーケード商店街になっていた。ミカは歩きながら店舗のショーウインドウを見ていた。ファッションや雑貨、また本屋、文具店、家具屋、模型屋、飲食店等、ミカが初めて見る物がひしめく様に軒を連ねていた。
ミカは歩いている内にある店に目が留まった。店舗の入口辺りに蘭人が居るのを見つけたからだった。
「ラント‼ ラントじゃないか。ここで何をしてるんだ?」
呼ばれた蘭人はエッという感じでミカの方を振り返った。
「ミカさん! どうしたの。こんな所で、買い物?」
蘭人は凄く嬉しげにミカに言った。
「いや、街の見学を―――ラントはここで何を?」とミカ。
「家の手伝い、この店、両親のなんだ。会社の勉強で時々顔を出して手伝ってるんだよ」
「どんな物を売っているんだ? 」
ミカは店内を見渡した。そこには絵を書いた大小の箱が堆く積まれている、またガラスケースには人型の物が飾ってあった。ミカは顔を近づけて覗き込んだ。
「これは何かの標本なのか? 頭が大きい割に手足が長いが」
「………ミカさんの国にはお人形は無いの? それはフィギイアといって人型のオモチャなんだ。うちの店は元々模型屋なんだけど他にはこういった物やモデルガンやミリタリー雑貨、最近ではファッション関係も取り扱ってる、海外からの引き合いもあるんだよ。」
そう言って蘭人は別のガラスケースから一丁のモデルガンを取り出してミカに手渡した。
「これは………何の道具だ?」
「⁉ ミカさんの国には軍隊は無いの、こういった物見るの初めて?」
さすがに蘭人もミカの国がどんな国なんだろうと少しだけ思った。
「軍隊か、それに近いものはあるが……サンヘドリンやレギオンがそうなんだが私の国では問題が起こらないので彼等は年中閑職だそうだ」
「よく解らないけど平和なんだね、ミカさんの国、オレも行ってみたいな。」
蘭人からそう聞くとミカはフフッと笑ってこう答えた。
「行くのは難しいかなぁ…だけどラントは私の奴隷なんだろう、時が来て許されるなら、その時、私の国を紹介するよ」
ミカがそう言うのを聞くと蘭人はミカの好意を得たようで嬉しかった。
店の奥から蘭人を呼ぶ声がした。
「ゴメン、行かなきゃ―――――必ず紹介してな、必ずだよ」
そう言うと蘭人は走って奥へ消えた。
ミカは蘭人の店を離れて街の中央へ向かって歩いた。
中層のビルの林を抜けると広場がミカの目に映った。中央には噴水と泉があり腰を下ろせるようにベンチが幾つか用意されている。
ミカはビルの端からその景色を見たとき、何とも言えない懐かしさを覚えた。それは自分の国の景色に似た様なものがあったからだろうか。
(違う、私の国ではこんな景色はない。でも何か懐かしい………ここで何かがあったんだ、そして私は誰かと―――)
噴水の向こう側で自分の名前を呼ぶ声がした。ミカは声の方向へ注意を向けると、そこには志門が立っていた。
二人はお互いに歩み寄った。志門はジャケットを脱ぎハンカチで額の汗を拭うとミカに言った。
「最初にしては随分と遠くまで来たんだ」
「遠く………か。そうだな、遠くだけど凄く近いような気がした。志門、ここに一緒に座ってくれないか、暫くの間でいい」
そう言うとミカは志門と一緒にベンチに腰を下ろした。
緩い風が吹き抜けてゆく、日差しは中天から降り注ぎ二人を焦がした。
志門は日傘代わりに手に持っていたジャケットをミカと自分の上に広げ覆った。ジャケットの端を持ったミカの手に巻いたブレスレットが光を反射して輝いている。
「志門、志門…………」
ミカは次の言葉が出てこなかった。だが自然にミカの身体は志門に寄り添っていた。
「ミカ………君の気持ち、懐かしさや切なさや……僕を慕っている?」
ミカは頭を志門の肩に擡げたままゆっくりと頷いた。
「この場所を見た時、凄く懐かしい感じがしたんだ、今こうして志門と一緒に居ると、何て言えばいいんだろう………こんな気持ち初めてだ、今まで感じたことがない。私は志門とずっとここに留まっていたい」
志門はミカの気持ちを汲むともう少しこのままで居ようと思った。
既に十五時を回っており、人影は疎らで前を往来する人もいるにはいたが不思議なことに誰も二人を見ようとしない。
街の真ん中で二人がジャケットを頭から羽織って寄り添っていれば目立たない訳がない。だが行き交う人はまるで二人が居ないかの様に振り向くことは無かった。
ミカが志門の家に来て三日目、その日は二人にとって不思議な日となった。夢の様でもあり現実の様でもあった。
それから数週間が過ぎて行った。
志門にとっては普通の生活、ミカにとっては救助を待つ日々となった。そんな中、ミカの身体に変化があった。
ある日の夕方、トイレからミカの悲鳴にも似た様な声が聞こえた。志門は夕食を準備していた手を止めてトイレに走った。
「何だ‼ どうしたんだ、ミカ? 」
ガチャッとドアのロックが外れる音がした。志門は一応、入っていいかドア越しにミカに尋ねた。
「早く‼ 」とミカ。
志門はトイレのドアを開けるとミカが下着を下ろした状態で便器を見たまま呆然と立っていた。便器の中は真っ赤になっていた。志門は軽い目眩を覚えたが取り直すとミカに言った。
「まさか、生理になったこと無いって言うんじゃ………… 」
「志門、私はここで死ぬのかっ⁉ 」
ミカはそのまま志門の方を向いて迫った。流れ出た血が内股を伝って落ちている。志門はミカを落ち着かす為、とりあえず便座に座らせてタオルを取るとミカの腰に掛けた。
「落ち着いて、ミカ。絶対死んだりしないから―――理乃を呼ぶから待って」
志門が電話で連絡すると早速、理乃が必要なものを携えてやってきた。志門は後の処置を理乃に任せるとリビングで二人を待った。5分くらい経って二人が部屋に入ってきた。
理乃は額に手を当てフーッと溜息を着くと志門に言った。
「志門、女の子が一緒に住んでいるのに用意が悪いっ!」
「ゴメン、理乃。こんな事が起こるなんて考えも及ばなかった」
理乃は志門の頭をグーで軽くコツンと叩いた。
「ミカは女の子でしょうが! 気が付かなくてどうするのよ」
理乃がそう言うとミカが志門を庇ってこう言った。
「志門を責めないでくれ、私も初めてだったんだ………ところでこれは普通の生理的な現象なのか?」
「ミカ、初めてって言ったよね。だとすると志門と一緒に暮らしてるのが原因かなぁ………ミカの国では同性しか居ないんだよね。そんな中で身体機能の一部が休止していたとしてもおかしくないよね」
「身体機能の一部? 」とミカは首を傾げた。
理乃は戸惑うミカを見ると丁寧に説明した。
「ミカ、女性の体は子供を産むように出来ているのよ。生理が始まったのは、私は大人の女性で子供を産むことが出来ますって言う印なの」
「じゃ、私も子供を産むのか? そういうものが自然にお腹の中にできるのか」ミカは尚、理解できないでいた。
「男の人と愛し合わないと出来ないよ」
「男性と愛し合う? 良く理解できない」
志門はこの前、街の中央広場での事をミカに話した。あの時の感情が最も理解しやすい異性に対しての愛だと感じた。
「ミカはあのとき僕とずっとあそこに留まって居たいって言ってたよね。身体もお互いに寄り添っていたと思う。慕うってことは相手を求めている気持ちなんだ」
「言葉に直すと確かに志門の言う通りだ、私は理乃に対して敬意は持っているが身体が求める部分はない」
理乃は二人が話している間にキッチンに入り志門が途中で手を止めた夕食の準備を続けた。理乃の気持ちとしては三人で食べるのではなく志門とミカの為に作りたいと思った。しかし、その心の隅で律子の事が引っ掛かったままだった。
(もし、此処にリッツが居れば同じように食事を作っていただろうか………私は何故ミカの存在が志門と同じくらい大切に思うんだろう…………本当の理由は自分も分かってないじゃない⁈ 志門が家族と同じだからミカも…違う‼ そんな理由じゃない。でも………言葉にできない)
暫くして三人は食卓を囲んだ。
三人は膝に手を置くと各々、今日一日の出来事と無事を神に感謝し祈った。特に志門は自分がここまで生きてこられたこと、理乃や叔父さんや周りの友人たちに支えられてきたことを深く感謝した。その中には真部律子という彼女がいる事も決して忘れなかった。
食事が終わりかけた頃、志門は理乃に律子がどうしているのか聞いた。理乃は暫く会っていないし携帯も繋がらないと答えた。(完全にシャットアウトされている)と志門は感じた。
しかし出来るなら誤解を解き元の状態に戻したいと心の底で願っていた。
彼女との二年間は志門にとって大きなものだった、それだけに律子が志門から離れて行った事は心に大きな穴が開いたのも同じだった。今もその穴は埋まっていない。
志門は食器を流しに持っていくとコーヒーを三人分、理乃が入れると同じように作った。それを見ていた理乃は志門が何かを言おうとしているのが分かった。以前、高校の入試の前、一緒に徹夜で課題に取り組んでいた時のコーヒーの入れ方と同じ、決然とした態度がコーヒーの入れ方に表れていた。
「志門、私に何か話したいんでしょ、言って」と理乃は言った。
志門は黙って頷き次いでミカを手招きした。
「理乃、ミカ、今から僕の気持ちを話したい、リッちゃんの事だ」
「志門……苦しいんだね。今日は遅くなってもいいから思っていることを吐き出しなさい、傍に居てあげるよ」
理乃は体ごと志門の方を向いた。
(ちゃんと受け止めるからね、志門)
ミカは志門から伝わって来る感情に少し緊張した。
それは決壊寸前のダムの様だった。ミカは少しだけ志門にお願いした。
「志門、私の心は強くない、感情の受容限界を超えないように―――頼む、そうでないと私は壊れてしまう」
志門は頷いた。今までは理乃が一人で聞いてくれていた、しかし今回はミカも加わっている、志門はミカに言われた点に注意しながら自分の心の内を順々に吐露していった。
志門は多くを語りミカは彼が表面で見る以上に心の闇が大きいことを知った。
元を正せば全ては8年前、両親の喪失から始まっていた。それだけにミカの心は大きく痛んだ。
(私にそれを埋め合わせる事が出来るんだろうか……目には目、歯には歯、命には命に値するもので償わなければならない。私一人なんかじゃ………とても足りない)
時間は午前零時を回っていた。志門は理乃の膝に伏して子供のように涙を流していた。
今までにこんな事が何回か有った。理乃は同い年だが姉のように志門に対して心を砕いてきた。両親を喪失するという痛みを常に自分の立場に置き換えて志門に接してきた。
そして今、二度目の大きな喪失に志門は遭遇している。誰が悪い訳ではない、しかし偶然といえば余りにも酷な話だと理乃は思った。理乃自身、志門に対して律子の紹介者であり、また律子は親友だった。
理乃は伏している志門の肩を持って起こしてやるとこう言った。
「志門、泣かないで。貴方の辛さを私が背負ってもいい………お願いだから。志門、貴方は悪くない、誰も悪くない。私は信じる、こんな状態のまま絶対終わらないって、神様は私たちを見ている」
「理乃、僕はもう一度だけリッちゃんと話がしたい。結果がどうなったっていい、誤解だけは解いておきたいんだ」
「分かったわ、志門。でもダメな時は引きずらないで、その時は気持ちを切り替えなさい。私もそうするから」
理乃は律子との決別を覚悟した。
「ありがとう、理乃。今日は遅くなってゴメン。おじさんには呉々もよろしく言っておいて。
ミカ、遅くまで付き合ってくれてありがとう。でも、言いたい事が言えた…僕ってこんな人間なんだ。何か情けないな」
ミカは腰を上げて志門に迫ると大きな声で叫んだ。
「そんなことないっ‼ …そんなことないんだ、志門は情けなくなんかない! 志門の生きてきた時間は、私が―――」
ミカはこれ以上言葉にする事ができなかった。
それから数日後、志門は律子と会う機会を偶然得た。
大学の書庫で文献を探している時、偶然彼女と鉢合わせた。お互い目は合ったが律子は視線を外らせた。
それでも志門は勇気を出して声を掛けた。
「リッちゃん、もう一度話がしたい。お願いだ、君が僕をどう思おうが構わない。最後に言いたい事を言わせてくれ」
律子は背を向けたまま答えた。
「私は貴方を知らない。二度と声を掛けないで!」
そう言うと律子は志門の視界から立ち去った。
その場に立ち尽くす志門。待って――と思いながら上げた右手は固まったようにそのままだった。
(もう、「志門君」とは―――言ってくれないんだ)
その日以降、志門の心は沈痛を伴っていた。気持ちを切り替えなければならなかったが実際にはセルフコントロールは失われていた。
その様な状況がミカに伝わらない訳が無くミカ自身も志門と同様に苦しむことになった。
最低な日が志門の上に続いていたが更に追い討ちを掛けるように悪い連絡が理乃を通して入った。
「何だって、彼女が事故⁉」
[今朝、知り合いから聞いたの。昨日の晩、講義の帰りに車に跳ねられて―――今、中央病院の集中治療室に入ってるって]
「理乃、僕に何ができるんだ。今更行って何て言葉を掛ければいいんだ!」
[志門、バカッ‼ 何言ってるの、人が死ぬか生きるかなのよ………いい、志門、今から言う事をよく聞いて。お互いに許し合えるのは今しかないのよ。これ以上自分の気持ちを闇に閉じ込めるのはやめなさい! 一緒にミカも連れてくるのよ、分かったわね]
志門は理乃の決然とした言葉を聞くと我に返った。
確かに今しかない、これが自分と律子に与えられた最後の時間なのかも知れないと志門は悟った。
志門はミカを伴って中央病院へ向かった。
入口で理乃と合流し集中治療棟へ走しる。律子が入っている二○三号室の前に着くとミカは一端、理乃と志門を止めてこう言った。
「志門、理乃、先ず私が入って全てを律子に話す、その後で二人は入ってくれ」
志門はミカの腕を掴んだ。
「ミカ、いいのかっ⁉ そんなことをして」
「誤解を解くには全て話さなければならない………私の素性は彼女の心の底に沈めて置くようにするから…」
そう言うとミカはその場で空に向いて短い祈りを捧げた後、部屋に入って行った。
七分くらい経ってドアが開き、ミカが隙間から顔を覗かせると二人を呼んだ。志門と理乃は部屋に入るとそこには全身を包帯で巻かれ電極とチューブに繋がれた律子が居た。
部屋の隅には白衣を着た担当医が立っていたが今初めて面会の者が入って来たのを気が付いたかの様にこう言った。
「十分が限度です、時間が来たら退出してください」
志門は先の七分は、と思いミカの方を振り向くとミカは何も言わず只頷いた。ミカは担当医の記憶を操作していた。
志門はベッドの脇に身を屈めると律子の耳元で小声で呼びかけた。すると律子は気がついたのか包帯から見えている目を志門の方へ向けると呟くような小さな声で言った。
それは最後の渾身の力で語りかけようとしているように見えた。志門は律子の手を自分の両手で包んだ。
「ゴメンなさい…………皆に謝らないと…………志門君、ミカさんを………頼むね…………あの子はいい子……わたし……忘れ…ない…で…」
志門、理乃、ミカの三人は言葉に出すことができず溢れ出る涙を頬に伝わらせながら頷くだけだった。
翌日、律子は亡くなった。
葬儀には律子が居た施設の関係者と葬儀を取り仕切るため役所の担当者が来ていた。友人は理乃の取り巻きだけだった。蘭人も来ていたが麻里衣の姿は無かった。理乃が聞いたところ、律子の死を聞いた後、部屋から出てこないとの事だった。
蘭人は志門に近づいた。
彼は旅行中ホテルや帰りの駅の構内で志門と律子の間がどんな状態になっていたのか全く知らなかった、妹の麻里衣もホテルでの志門とミカのことは蘭人には伝えなかった。
「志門…………残念だ」
蘭人はそう言うのが精一杯だった。
「うん………… 」
志門は一言そう言い虚ろな表情で前を見たまま、それは視界の焦点が定まっていない様だった。
一方、ミカは少し離れた所の椅子に座って膝に手を着いて頭を垂れていた。
ミカは昨日病院から帰った後、志門と理乃に自分が聞いた律子の本当の気持ちを語った。
ミカは律子にホテルであった事を全て話したが自分の素性については語っていなかった。
その理由は律子は志門を信じており駅で志門と別れた後も尚その思いは確かだったからだ。
しかし彼女は自分の気持ちを素直に言う事が出来なかった。
病室という限られた宇宙の中で律子はミカに謝罪と和解を申し出ていた。この時、ミカには自分の素性を明かす理由が失くなっていた。
(相手を許すという行為は―――彼女の愛は罪を消してくれた、私たちはギリギリの所で彼女に救われたんだ。もし確執を残したまま彼女がいなくなってたら………私は二度と霊子界へ足を踏み入れることが出来なくなっていただろう。私が居た世界に罪は入れない――――)
ミカは志門と理乃と蘭人の前に立った。そしてこう言った。
「志門と理乃に話したい、ラントには済まないが席を外して欲しい」
「ミカさん、オレが居てはダメなのか?」
「踏み入った話なんだ、気を悪くしないでくれ。君は私の奴隷なんだ、契約は守ってくれ」
志門と理乃は何の話か分からなかったが蘭人は席を立ち向こうへ行った。ミカは二人に向き直った。
「志門、理乃、私たちは彼女に救われたんだ。彼女が亡くなった事は言葉に出来ないくらいの心の傷と痛みだ。私は志門の気持ちを理解している。それと同じように理乃の気持ちにも敬意を持っている。
志門………彼女が最後に私たちを許してくれたことで私たちの心は解放されたんだよ」
理乃は黙って頷いた。しかし、志門は俯いたままだった。
その日の葬儀は終わり志門とミカは家に帰った。
ミカは志門の気持ちが晴れないのを分かっていた。ミカは志門の気持ちが自分に向いているのを感じていた。それは私がどこから来て何者なのか、という部分だった。
ミカは志門にコーヒーの入れ方を教えて欲しいと頼んだ。志門はミカが何をしたいのか分からなかったが取りあえず丁寧に教えた。
ミカは一通りの手順を覚えた後、志門に言った。
「今日は私がコーヒーを入れる、いや入れさせてくれ。私は今晩、志門と話がしたいんだ。志門の気持ちは伝わっている、それは私の事なんだ」
「分かってたんだ…でも、いいのか?」
ミカはコーヒーのカップを盆に載せてテーブルへ運んだ。コーヒーが溢れて盆の上を濡らしている。志門はコーヒーを一口飲んだが、それは温くて不味かった。
しかし、と志門は思う。何処から来たのか分からない、そして文化も違うこの異国の地でこの娘は自分にあるだけの誠意と親切をもって自分に接してくれている、その気持ちを志門は大切にしたかった。
志門はもう一度、ミカに言った。
「本当にいいのかい?」
「この前の旅行の時、乗物の中で私はこう言ったはずだ、『志門になら話したい』って」
「その後に身の安全は保証できないって…」と志門。
「私が志門を守る‼ 自分の命と引き換えでも、だ」
そう言うとミカは自分で入れたコーヒーを飲み干しカップをテーブルに置いた。
志門が口にして不味いコーヒーがミカに美味い訳がなかったが、それでも一切そんな表情は無かった。ミカもまた、決然とした態度で自分に臨んでいるのを志門は感じた。
「あの時、僕も『次に聞きたい時―――』って言った。今がその時だと思う」
ミカは思いやるような表情で暫く志門を見ると一粒の涙を零した。
「志門、志門………志門」
全ての気持ちが自分に向いているのを志門は感じた。
「志門、私は―――」
ミカが次の言葉を発しようとした瞬間、フラッシュを炊いたかのように部屋全体が眩しく光った。