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写真家と風景画家の魔女

作者: 綾埼空

 文明開化の音がする。

 鉄のふれあう音。臓腑に響く汽笛の音に慣れ始めたのはいつからだったか。

 もうもうと盛る黒い煙を雲に。朝もや混じりの霧を割いて鉄の塊が線路を行く。

 私はカメラを構えその勇猛さにピントを絞りシャッターを切る。手癖となったその行為を自覚したのは蒸気機関車が地平線の先に姿を消してからだ。

 残滓と散る黒煙の行方に誘われ空を仰ぐ。

 イギリス|はロンドンの空は暗い。

 慣れた風景は感傷を産むことはなく、私は止めた足を進める。

 にぎやかな喧騒が耳にこだまする。

 朝食をほおばる工場勤務者たちの笑い声。車輪が土に噛む音。盗品販売者の商売文句。綿売りの小母様(マダム)の談笑の声などなど。

 人の流入は激しく、いつもこの街は賑わっていた。


 ――十七世紀の風景は遠く。技術革新を迎えはや二世紀が過ぎた。 

 かつての風景画に描かれた景色は御伽話のような遠く彼方の光景となった。

 人々は綿の衣類にそでを通し、遠方へ向かう際には馬ではなく鉄の塊を利用するようになった。

 畑は休むことなく。紅茶にはお砂糖を。

 物心ついたころから街並みとは日々変わり続けるもので――だからだろうか、写真家なんていうものを夢見たのは。

 カメラは何というか、その性質が性に合っていた。

 シャッターを切るだけで風景を映し出す。見たまんま、とはいかないものの、ゆえにこそ今を雄弁に切り取る。

 まばたきをすれば街並みの変わるような時世。小さくとも踏み出せば偉大な一歩とは言うが、今はその一歩一歩が常に歴史を変えるような世の中だ。どうやらそいつの燃費は悪いようで戦争は終わったっていうのに人すらも消費しながら、私たちは確かに先へ進んでいた。

 失われるものは多いが、続くものはある。

 ならば何を失ってきたのか。それを残しておきたいと思うのは感傷か、傲慢か。


「……傲慢、だろうなぁ」


 失ってきたものは傷跡となって隣人のようにふるまっている。それを度外視し、ましてやこんな無名の写真が価値を持つのだと一瞬でも夢見たのが何よりの傲慢だろう。

 私は街中を当てもなくさまよう。写真家は撮った写真を売って食い扶持を得るものだ。

 幸いにそこそこ裕福な生まれゆえにひっ迫はしていないものの、享楽にまどろんでいられるほどの余裕もない。

 果たすべきと定めた役割のある以上、それに準ずる生き方をしなければならない。

 しかして、そも変化が常であるためそこそこの醜聞(ゴシップ)ではそこそこの買値しかつかない。

 毎日練り歩くも変わらないものと言ったらデムズ川の汚さくらいなもので。相も変わらず産業廃棄物が垂れ流されコレラの温床となっている。

 今日とて今日も一日買い手のつかなそうな写真ばかりを撮り、私は立ち止まる。

 そこは表通りから少し外れた路地の中ほどにある古物屋。

 たまたまそれを見かけてからというものの、私は何かにつけてその場所へ足を運んでいた。

 ほこりかぶったショウケースの向こう。果たして今日も目を向けた。

 それは誰の原風景か。

 くしくも今日はロンドンの街を行く蒸気機関車の絵に変わっている。

 カメラの台頭により写実的な風景画は少なからず席を失った。代わりに象徴(モチーフ)を以て世界を解釈する絵の増える中、某かの絵はそのままを描く風景画であった。――ただし、大きな空白がある。

 写真家などという身空だ。絵心を知るとはお世辞にも言えないものの決して遅くない、むしろ早いのでは、と思う間隔(ペース)で路地に向けて開かれる絵の種類は変わっていた。

 特徴的なのは、そのどれもに描かれていない部分があるのだ。

 時には空が、草木が、道が、星が、太陽が、人が。

 欠けてはいけないはずの色彩が欠けていた。

 そこに在るとわかっているものがない。一見すれば暗喩やロマンに満ちた風景だが、その絵から私たちは誰のものでもない世界を解釈することができる。

 初めて見たその時から意識を奪われた。それは疑問によってだ。

 空白はもちろんだが、なぜここまで自分を排した絵をなぜ描けるのか。

 たとえば、私たちは同じ写真から異なった情報を得る。すべてが単独の価値観を保有するのならばここまで広がる必要はない。

 某かの絵はそれと同じことを想起させる。

 そこに介在する書き手の意思など、それこそありのままに世界を切り取ろうとするものだけだ。


「……若いの」


 割れた花瓶のような声がした。

 瑞々しい風景に没入した意識は、それで現実を取り戻す。

 声をかけてきたのは、この店の主だ。

 たまに視線がぶつかることがあるものの、私はこの店の扉をまたいだことはない。

 いや、というわけでもなく、かといえば挨拶をする状況でないのも理解している。

 何も言わずに硬直する私を尻目に店主は続けた。


「あの絵に興味があるのか?」

「……え、ええ」

「そうか。お前の絵をよく見に来る男がいると言ったらぜひ会ってみたいと言っていてな。よければ会ってみるといい。スラム街の魔女のうわさくらい知っているだろう醜聞屋」


 言いたいことだけをまくしたてて老躯は店へ戻っていった。

 老人の言った名称について。もちろん知っていた。

 スラム街。消費されつくした夢の跡。切り裂きジャック(ジャックザリッパー)に賑わったのは未だ記憶に新しい。

 続くものはなく、刹那の栄華はあれど繁栄に乏しい場所にひっそりと館を構える主のあだ名が魔女であった。

 西のほうへ目を向ける。太陽の傾きは少し浅い。

 走らなければいけないものの間に合わないほどではない。

 カメラを一層強く抱えなおし、私は魔女の住まう区画へつながる路地へ足先を変えた。

 スラムへ入ったな、というのはにおいでわかる。

 デムズ川にはもちろん劣る。二度と忘れないことが幸運とはまさにその通り。それでもここは、人が一生を営んでいくうえで本来むき出しにしてはいけないにおいで満たされている。

 つまりは獣のにおいだ。

 技術の躍進により私たちが置いてきたもの、あるいは包み隠したものがここにはある。

 同じ空の下にあるはずなのにいつだってこの場所はほの暗い。

 夜となり、真暗となれば獣の領域だ。夜を暴いたのは人類の功績であるが、それは人が夜の時間の支配者になり替わったということと同義ではない。

 人の機能は脆弱だ。

 だから私は必死に走る。

 おいていけるものはなりふり構わず捨てていく。

 この体ひとつとカメラが残ればいい。そのどちらかを失っては私は私の意味を失う。

 猫に狙われたドブネズミのように走り、私はいつの間にかそこへたどり着いた。

 噂にたがわぬ場所にあったことにまずは息をのんだ。

 周囲に人の気配がみじんもないことに安堵し息を吐く。

 荒れた息を正している余裕はなかった。

 背中にはいつだって死を幻覚している。

 鉄柵の向こうがこうも恋しいのは、漏れ出る明かりの温かさに営みを感じるからか。

 装飾のない黒い館。誇示するべき権威を失ったかのような姿にスラムとの親和性を得る。

 鉄扉にしつらえられた呼び鈴を鳴らす。

 ……よくよく考えれば事前承認(アポ)なしの訪問なわけで、基本は門前払いが常である。なぜかこの状況で冷静に切れる頭に冷や汗がたどった。

 しかしてどうやら、不運すら物乞いのもとへ捨ててきたようで館からひとりの女性が姿を見せた。

 絵の具の香料が鼻につく。

 柔和な笑みが特徴的な、目の細い女性であった。


「お待ちしていました、写真家さん」


 魔女というからには黒いローブなんかを予想していたわけだが。

 彼女のは追っていたのはさまざまな色が跳ねた絵画スモックであった。


「ではどうぞ。何もない場所ではありますが」


 錠の落ちる音で我に返る。

 ふと自分の姿に目を落とす。失った衣類はジャケットだけなものの、ほこりやクモの巣にまみれたこの状態は出迎えられるような恰好であるとは到底言えない。靴だって見る勇気はないが何度か得体のしれないものを踏んだ感触が鮮明によみがえる。

 それとも今更臆し、逃げ帰る理由を探しているのか。


「いや、えっと……ミセス、この薄汚れた身で立派な館を汚すのは心苦しいばかりです。今晩はお目通りというだけで、後日また改めてうかがわせていただきたく」

「大丈夫です。召し抱える者もいなくなってずいぶんと経ちました。管理が行き届いているとは到底言えない場所です」


 よくよくと考えれば。

 彼女が会いたいと望み、私がやってきたという図だ。

 この場にいる時点で持ちうる反証は意義をなしえない。

 招かれるまま門扉をくぐる。

 錠の閉じる音でようやく人の住まう環境に返ってきたのだと心が息を吹き返したのを自覚する。――早計だったと気づいたのは、館に入ってからだった。

 まるで外界との間に明確な境界があるかのように空気が違った。

 従者のいない館と聞き人の住みうる最低限の環境のみが整っているとばかり思っていたが、違った。

 吸う息が透き通っているわけではなかった。しかしよどんでいるでもなく。

 空虚、というのが正直な感想だった。

 この館では彼女以外息づいている者はいないのであろう。そんな深淵すら想起させる。

 私の招かれた場所は客間とは到底言えない彼女の仕事場、つまりは工房だった。

 何もない、と言い切れば大げさだろう。必要最低限のものが陳列されているだけ、が正しいか。

 勧められるままに木組みの椅子へ座る。彼女も正面の、作業台と思しき所へ腰を下ろした。

 ――それは言葉より雄弁に。

 おもむろに筆を執った姿を見て私は、彼女の魔女という異名がおためごかしでないのだと悟った。


「この四角い白紙が世界です」


 帆布を指して、彼女はあえて紙という言葉を選んだようだった。


「世界を規定して、そこに色を塗る。それが魔法というものなのです」


 私は彼女が筆を走らせる様を観察する。

 空を埋める鮮烈な赤に命を錯覚した。

 ほとばしる緑に自らの未熟さを突き付けられる。

 波打つ青に幼き日々を回顧する。

 それが彼女の原風景。

 夕暮れの海岸。この世のどこかにあったかもしれない風景に、私は手の中のカメラを眼前に構える。

 重さはない。

 フレーム越しに世界を覗く。

 ああ、そうして気づくのだ。


「空白がある……」

「完成させてしまえば世界はそのようになってしまいますから」


 整った居住まいはそのままに筆を置いた彼女はそうつぶやいた。

 カメラから目を離し、私は魔女を見る。


「魔女というものが実在するとして」


 そう前置きし、


「かつての魔女狩りで滅んだものと思っていました」

「むしろあれが存在を永らえさせたというべきでしょう。徐々に幻想が失われゆく中で、かたちは異なれど強く魔女というものを多くの人に植え付けたのですから……ですがもうおしまいです」


 彼女は彼方へ目を向ける。その瞳に映るものはあるのか。


「写真家さん。あなたの持つそれは多くのものに形を与える」

「写真も人の記憶も劣化し、薄れるものですよ」

「それでも残るものはあり、だから続くのです」

「多くのものを置いていくことを肯定しなければならないと?」

「正解なんてはじめからないのです。間違いもないように。ただ結果が先に残る」

「では、私のやっていることはまるで空虚ではないですか」


 私はここにカメラを置きに来たのではない。

 ただ、無意味を重ねていけるほどの確固さは持ち合わせていなかった。


「ええ、そうです。誰に理解されることはない。のちの世で評価されることもない。誰に定められたでもなく自らで選び取った無価値な生の巡礼」


 まったくを以てその通りだ。

 終わること、失われることが必然ならはじめから生まれてこないほうがよかった。


「けどそれでも、あなたはあの古物屋に飾った絵に足を止めた」


 ……そう。価値なんて感じてはいなかった。新たな世界が開かれたわけでもない。

 なんてことはない道端の石ころのはずだったのだ。

 なのに私はそれを見つめ続けた。


「それだけでこの命が生まれてきたことを肯定できると、そう思ったのです」


 置いていくなんて勘違いも甚だしい。

 積み上げて、私たちは先へ続いていく。

 それは多くの犠牲を肯定することだ。

 それでも、自己矛盾に燃え尽きるまでひた走る生命を、一個の人として私は愛したいと思った。

 私はカメラを構える。

 彼女と、彼女の描いた絵をフレームに収め。

 シャッターを切る。

 ピントはあっていたはずで露光中に目がくらむなんてないはず。

 なのに彼女の姿は夢幻であったかのように消えていた。

 ……それを私はどこか必然と納得していた。




 ◇ ◇ ◇ ◇



 館の一室で夜を明かした。

 砂糖をふんだんに入れた紅茶が飲みたい気分だったので私は出立することにした。

 スラムの風景を幾枚が収めた。見世物でないと襲われるかとも思ったが、どうやら杞憂に終わったようだった。

 裏通りへと帰ってくる。古物屋に寄ろうかと一瞬だけ考えてやめた。

 身銭は行きに全部投げ捨てていたためまっすぐ自宅へ帰る。

 道中、遠くに聞こえた機関車の音に旅の計画を頭に巡らせる。

 遠くの風景を撮ってみたいと思った。

 何はともあれ帰宅して早々、紅茶の準備を始める。

 買い付けた雑味の多い茶葉を沸かした湯で蒸らす。

 琥珀色の液体をカップに注ぎ、これでもかと砂糖を溶かして一気に流し込んだ。

 熱にのどが痛む。急激な糖の摂取に心臓が跳ねた。

 胡乱だった脳が明晰さを取り戻す。

 やるべきことははっきりとしていた。撮った写真の現像だ。

 ローフィルムに変わってからというものの安全面の向上やあまり手間を取らなくて済むようになった。

 現像液の攪拌やらを繰り返し、すすいだフィルムをさっと拭きあげて吊るす。

 浮かび上がる絵を注視する。

 写真とは現実を切り取るもので。もちろんその通り、彼女の姿はどこにも映ってはいなかった。

 こんな撮りたいものの欠けた写真など誰に見せられるものではない。誰が見ても価値を感じることはないだろう。


「……ああ」


 思わずため息が出る。

 価値など認められない。感じ入る輝きに欠けている失敗作――だというのに、胸が焦げ付きそうなほど鮮やかに彼女の残した絵は存在を示していた。

 そう、本来映るべきものを私の瞳が覚えている。

 ならばこの写真は、燃え尽きるまで私がひた走るに十分な原風景であった。

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