#009
「おかえり、早苗。お休みは先じゃなかったの?」
早朝の帰宅でも、母は嫌な顔ひとつせずに出迎えてくれた。朝食の準備中だろうか、玄関先までシチューのいい匂いがする。市販のルーを使わない母のお手製シチューは、季節に関係なく必ずかぼちゃとサツマイモが入っていて、少しだけ甘い。そう言えば、夜勤明けでそのまま出たので何も食べていない。突然、お腹が空いたように感じられた。
「新学期始まるから、有給取ってきたの。クラス替えだけでも見に行きたくて」
「体は大丈夫?無理言って高校に行かせてるのは、お母さん達のワガママよ。早苗のやりたいようにするのが一番だからね?」
「うん、平気。大丈夫」
名門と謳われる女子大学の、附属の高校に入学させてもらっておきながら仕事を優先していることこそ、自分の勝手な都合だ。
自分の経歴は同年代の女子と比べて少し特殊で、先に大学扱いである士官学校に入学し、その後高校に入学した。入隊当初から変わらず、優先順位は仕事、士官学校、高校の順だ。
「果苗は?」
「元気よ。もうそろそろ起こさないとね」
「……お兄ちゃんは?」
母を困らせたいわけではなかった。勤務で駅に張り付いている間、家族からの連絡はなかった。つまり、何も変わっていないということだ。それでも、確認せずにはいられない。
「……相変わらずお寝坊さんよ。顔、見せてあげて」
「うん」
「着替えたら降りてらっしゃい。朝ご飯、食べるでしょ?」
「うん」
2階へと続く階段を上がっていく。足取りは心持ち軽やかだ。
2階には部屋が4つあり、一番階段側から順番に、父の書斎(と言う名の趣味用の部屋だ。置かれているのは本と言うより無機物の写真集が主体である)、妹である果苗の部屋、自分の部屋、そして一番奥に兄の部屋がある。足早に自分の部屋の前を通過し、まっすぐに兄の部屋へと向かった。閉ざされている扉を控えめに叩き、返事はないが部屋へと足を踏み入れる。
「お兄ちゃん、ただいま」
やはり返事はない。毎回、わずかな奇跡を信じては、現実なんてこんなものだと思い知る。奇跡を起こすためには、まだ頑張りが足りていないのだと、自分に言い聞かせた。
兄が大好きだった。兄はいつでも優しくて、強かった。黄色い制服のヒーローは、いつか見た戦隊ヒーローの赤色と同じ役割をしていた。兄は、人を絶対に恨まず、犯罪を恨んでいた。根っから悪い奴なんていない、いつもそう言っていた。なのに……。
兄は眠っていた。いつも通り、何も変わらず。最も平和で安全な場所で、静かに眠り続けていた。優しく穏やかな顔つきで眠る彼の夢の中は、あの日確かに彼が生きていたドタバタの毎日だろうか。
「そろそろ、現実のドタバタに帰ってきてもいいんじゃない?」
私の声は、まだ、届かない。
武装鉄道希望隊 #009
俺は、絶望していた。
あまりにハードスケジュールで、体がもたない。新学期が始まったことで学生が増え、さらにごった返すホームの中で慣れない拙い案内放送をする。電車の行き先を誤り、つらかった。8時30分に研修を終えると、次は学校でビラ撒きだ。ビラ撒きをできる時間は限られているので、迅速に行う。初回オリエンテーションとも言える説明の授業を眠りながら受け、それが終わると午後からはまた駅のホームに戻り研修を受けた。研修の後は食事を摂りながらアサヒ副班長に捕捉の説明や疑問解消に付き合ってもらい、ノートをまとめていると後は寝る時間しかない。
何というリア充生活。夢にまで見たリア充生活だ。嬉しくて涙が出る。暇が欲しい。退屈が恋しい。
「お疲れー、ミコト!……顔死んでるなー、飯食った?」
「あ、授業始まる……」
「どうせオリテだろー、ほら、飯食うぞ!」
大学生あるある、講義をサボって飯を食う。まさかこんなに早く経験することになろうとは。入学してからわずか5日しか経っていないというのに。
食堂は明るく、開放感に溢れていた。大きな南向きの窓(無論、防弾仕様だ)からは春の穏やかな日差しがこれでもかと言わんばかりに降り注いでいる。ほとんどが空席で、今なら広い席を2人で使っても大丈夫だろう。通話で待ち合わせを確認している学生とその友人らしき教科書を読んでいる学生、教材を広げ電卓を叩いている学生、高級そうなタブレット端末(操作画面がホログラムとして浮き上がる最新型だ。まだまだ高価で本物を見ること自体が珍しい)を忙しく操作し続けている学生など、ほとんどが自主勉強中のようだ。
正直、あまり食欲は湧かない。それでも食べておかなければ、いつまでも基礎体力が作れない。研修が終わると、仕事は今よりずっと大変になるだろう。武装鉄道隊に籍を置く以上、体は資本だ。朝からアスリート並の食事を摂っている目の前のアサヒ副班長だって、見た目こそ金髪にピン留めで少々浮ついているものの、体格はかなりいい。今からしっかり鍛えなければ追いつけないだろう。
「前よか食べるようになったなー。よかったよかった」
「食べるのキツいですけど、食べないのもキツいですよね……」
「そのうち楽しみが食事くらいになるって。あはは」
ちなみに、武鉄隊員は学食もタダだ。福利厚生と言うべきだろうか。月給から一定の金額が天引きされているので、いちいち金を出す必要がない。隊員に配られているIDカードを提示すると食堂のおばちゃんから、頑張ってねとの応援の声をもらった。俺、このおばちゃんに会うために食堂に来よう。
注文した品をある程度平らげると、ふとアサヒ副班長が言った。
「勧誘はノゾミがいないとキツイなー。俺らじゃビラ貰ってくれないし」
「確かに、もう素通りされるようになっちゃいましたね……」
「そりゃ毎日渡されたらうんざりするだろうけどさー」
オレンジジュースを飲みながら、アサヒ副班長は手元に残ったビラを眺める。
大きな字で隊員募集と書かれたシンプルなビラには、ノゾミ班長が手旗を持ち閉扉合図を送る写真がでかでかと掲載されている。その顔つきは真剣そのものだが、客に対して向けられた優しい微笑みまで写されていた。地上に舞い降りた天使だ。カメラマンは一体どこから撮影したのだろう。これは欲しい。部屋に1枚、ポスターの代わりに欲しい。そんな邪な思いが伝わってしまったのだろうか、アサヒ副班長はビラを拡大した宣伝ポスターを格安で売るよ、などという背徳的な取引を持ちかけてきた。あと一歩のところで踏みとどまる。
「喋らなきゃ天使だからさー、ノゾミさえいれば男は釣れるんだよね」
「女子を勧誘するには?」
「……、ハヤテとスバル並べてたら釣れる」
アサヒ副班長は少し不服そうな顔をして呟く。部長2人組か。彼らとは実は生きている次元が違うのではないかと疑っている。
そんな話をしながら、美男美女枠の1名を最近見かけないことを、俺は少しだけ気にしていた。ノゾミ班長だ。入学式以降、彼女の姿を目にしていない。それまでは、彼女は一体いつ休んでいるのかが気になっていたが、いざ目にしなくなると今度は何故休んでいるのかが心配になる。
体調でも悪くしたのだろうか、なんて思うはずもなく。
「そういえば最近、班長見てないですっ、ね」
あくまで自然に、を意識しすぎて声がひっくり返った。アサヒ副班長は、口にしたオレンジジュースを噴き出しそうになり、必死に堪えている。口元を押さえ、肩を震わせながら、彼の顔は赤くなっていた。
「ミコト、面白すぎ……!」
「すいません……」
「あはは!あー腹痛い。ノゾミはねー、新学期だから高校行ってるよ」
「あー……、えっ!?」
今度は俺が噎せ返る番だった。目の前のチャラついた金髪の彼は一体何を言ったのだろう?聞き間違いでなければ確かに、高校と言った。誰が?ノゾミ班長が。高校に?
班長、仕事を優先するあまりに卒業できなかったのだろうか……。だとしたらあまりに気の毒だ。
「うん、ノゾミの名誉のために言っとくけど、ダブりじゃないからね」
「……、余計訳わかんないですけど」
「だってノゾミ、16歳だし」
「え?」
「今の入隊年齢は18歳からじゃん?ノゾミは13歳で入ったんだよ。俺は15からだけど」
「え!?」
アサヒ副班長の話をまとめると、多分こういうことになる。
入隊資格を得られる年齢は、数年に一度の周期で変更されている。アサヒ副班長が入隊した帝国暦17年(6年も在籍しているということがまず驚きだ。とんでもない大先輩じゃないか)は、大規模なテロによる孤児が相当数いたこと、孤児でなくとも働き口を探す少年少女が多かったこと、そしてテロにより多数の隊員を失っていたことから、入隊可能年齢は15歳以上(ただし中学校を卒業していることが条件)となった。
給金や好待遇(寝る場所と食べていくことに困らない生活に、テロリスト犠牲者の遺族達、それも少年少女達が憧れるような時代だったらしい)に惹かれ、多くの少年少女が入隊したが、何せ体力が足りない。死なないための訓練は厳しく、何人もが挫折した。その様子を見て入隊年齢は引き上げられ、しかしテロ事件が起きるとまた下がり、そうして今に至る。
ノゾミ班長がやって来たのは、大きな事件の後、鉄道の全線が復旧した頃だった。当時はテロ事件で大きな損害を受けた鉄道が、全線復旧したことによって、より多くの若手を育成することが必要になった。そのために、試験的に入隊年齢を引き下げたらしい。現在に受け継がれていないところを見ると、入隊可能年齢12歳(中学校入学次生相当)以上から、と言うのはさすがにやりすぎだったようだが。
「ノゾミが来た時な、めちゃめちゃ管区が荒れてたんだよ。時代的なのもあったけど」
「俺、ほんとに平和な生活してたんですね……。皆さんが守ってくれてたんだ」
「お、気づいちゃったー?どう思う?」
考え込む俺の目の前で、アサヒ副班長は笑顔だった。まるで、その気づきを喜ぶような、そういった笑顔だ。
自分がいかに狭い世界で、それも平和な場所にいたかが良く分かる。何も知らなかったのだ。この管区内で、18歳(今年19歳になる)までずっと生きてきたというのに、地元のことを何一つ知らなかった。
「……あれ?そんな深く考えなくても」
「副班長は」
「うん?」
「副班長は、今までにどんな経験を?」
少し考えるような素振りを見せてから、彼はいつも通りの砕けた笑顔で答えた。
「俺、そろそろ駅戻るー」
ちゃんと授業行けよ、そう言ってアサヒ副班長は食器を返却しに行ってしまった。話したくなかったのか、本当に駅に戻らなければならなかったのかは、分からない。
フルーツヨーグルトの残りを流し込むと、俺は、次の授業が行われる教室へと急いだ。
***
「また学校さぼりー?お姉ちゃんも行こうよー」
「私の穴埋めできる優秀な人がいたらね」
「それ、自分めっちゃ優秀ですってアピール?」
「事実だし」
2人分の通学バッグを持っている果苗は、膨れっ面を向ける。同じ制服を着たくて、かなり無理をして中学受験をし、中等部に入学したというのに。果苗も、姉がなぜ仕事人間になったのか、理由だってちゃんと分かっていたが、不満は隠しようがなかった。
駅への連絡通路を抜けると、黄色い制服の背の高い男が一人、腕組みして誰かを待っているのが見えた。武装鉄道隊 支援部部長 ハヤテだ。
「5日ぶりかしら?変わったことは?」
「ない」
「何よりよ」
果苗が勝手に持ってきた私の通学バッグを預かり、ハヤテは先を歩いて行く。相変わらずの仏頂面だ。相変わらずの寡黙さだ。それでも果苗にとってはツボらしく、しばらくぽーっと見惚れている。悪い男に捕まらなければいいが。果苗を何度かつつき、現実に呼び戻す。
「それじゃ、私も行くから」
「今度はいつ帰るの?」
「暇な時」
「それ帰らないって言ってるよね……?」
果苗はまた不満げな視線を向けてきた。いい加減面倒になり、間もなく電車が来ることを伝える。これに乗らなければ遅刻だ。果苗はさすがに慌てると、ホームへ続く階段に足を掛けた。
「頑張ってねー!さな、……ノゾミお姉ちゃーん!!」
無駄に手を振りながら、果苗は階段を駆け上がっていった。駅構内は走るなと、そして大声を上げるなとあれほど言っておいたのに。今度は父に伝えておかなければならないだろう。そう言えば、父とは今回の休みの間、ほとんど顔を合わせなかった。帝国鉄道は慢性的に人手不足だが、運転士も例外ではないのだろうか。あまり過酷な労働は避けて欲しいところだ。もう若くないのだから。
ふと顔を上げると、ハヤテが駅長事務室の扉の前で待っている。早く行こう。呉羽 早苗の顔をしている時間は、もう終わりだ。
「……なによ?」
「なんでもない。行くぞ、ノゾミ」
短い会話を終えると、ハヤテは読みとり機にIDカードを翳した。休み明けの、いつもの光景だというのにひどく懐かしさを覚える。この先戦場につき、なんて。いつか見た映画の名セリフでも聞こえてきそうだった。
***
とてもとても憂鬱だった。
放課後、駅に戻った俺は午後の研修を休ませてほしいと願い出た。簡単に了承されるものの、アサヒ副班長は心配そうだ。俺だって休みたくはない。
それでも、補講を言い渡されてしまってはどうしようもない。それも入学後わずか5日という、異例のスピードで。理由は朝飯後の授業だ。拳銃取り扱い訓練の授業で俺は致命的な自分の欠陥を知ることになってしまった。
「目閉じて撃つってそりゃないよな……」
教官からの指摘はこうだ。撃つ度に怖がって目を閉じている。
当然、的には一切当たらない。むしろ、目を閉じて的に命中させることができるなんていうのは、殺し屋漫画くらいだろう。初回の目標は、的のどこでもいいから命中させることだったというのに、それができなければ話にならない。
できなかったのは、クラスで俺一人。武鉄隊員はいなかった。つまり、黄色い派手な制服を着た、すでに実地にいるはずの学生が、発砲の都度怖がって目を閉じ、まともに銃を扱うことができていない、なんて事実が露呈してしまった。実地とは言えまだ研修中。爆発物発見といった修羅場は経験したものの、今やっているのは声出しと扉を押さえる練習。そして基本動作の徹底訓練。銃なんて今日初めて握った。なんて言っても信じてくれる空気ではなく。気をつけるようにと聞かされていた、アンチ武鉄の教官に運悪く当たってしまったがために、午後の研修を無視した、訓練施設での補講が決定したのだった。
あんまりにも恥ずかしくて、アサヒ副班長に理由は言えなかった。
「はー……」
溜息が漏れる。
せめてもの抵抗心で、学校の実習施設には戻らなかった。アンチ武鉄の教官はどうせ補講を監督しになんて来ない。これは何人かの先輩に確認済みだ。代わりに武装鉄道隊専用の銃器訓練室に足を踏み入れる。ここなら、同級生達からの冷たい視線を浴びる必要もない。少しは落ち着いて銃を構えることができるだろう。
受付の職員さんに学校で使った型番を伝え、試し撃ち用のレンタル銃を受け取ると、的を向いて片手で構えた。手が、震えている。左手をグリップに添えても、震えは収まっていない。本当に、怖がっている。
「どうして……」
試しに引き金を引いた。的を大きく外れている。目は、閉じていないのに。引き金を引くごとに、その外れ方は大きくなっていった。比例するように、焦る気持ちが大きくなる。このまま当たらなければ、いずれ武鉄からも必要ないと言われてしまうのではないだろうか。
弾切れを理由にして、備え付けてあるベンチに座り込んだ。映画で見た銃撃戦は、もっと簡単そうだった。ヒーローも悪役も、的確に当てていた。こんなにも難しいなんて。狙っているのに、当たらない。
「合ってないわよ」
「え……」
「あなたの体にその銃、合ってない。貸して」
顔を上げると、そこには5日ぶりの班長がいた。ノゾミ班長は涼しい顔で俺の隣に腰掛けると、俺の膝から銃を取り上げる。彼女はいくつかの頑丈そうなケースを取り出すと、鍵を差し込んだ。ケースは想像していたよりも随分と多い銃火器類が詰め込まれている。
「教官は米原?」
「あ、そうです。ヨネハラじゃないですマイバラですって言ってました」
「面白くも何ともないのにしつこいのよね、あいつ」
米原教官を心底嫌っているのか、ノゾミ班長は眉間にしわを寄せた。そもそも彼は武鉄が嫌いなようだった。俺だって理不尽すぎる理由で自分達が嫌われたら心地よくは思わない。
俺が持っていた銃をまじまじ見つめると、彼女の顔はどんどん険しくなっていく。
「……授業でもこれと同じ銃使ったの?」
「はい。型番控えさせられたので、間違いないです」
「初心者向けじゃないわよ、こんなの。嫌がらせだわ」
そう言えば、周りの学生とは違う形の銃を持たされていたような気がする。お前は武装鉄道隊なんだから彼らと同じものを使わせてやろう、と言われたことを告げる。
「こんな旧式、武鉄が使うわけない。舐めてんのかしら」
小さく溜息をつくと、ノゾミ班長は銃を手渡してくれた。俺が持っていたのとは違い、銃口がシルバーで輝いている。初めて銃を綺麗だと思った。受け取り、グリップを握ると、驚くほど手に馴染む。随分前から持っていたような、少なくとも新しく銃を持っている、という気がしない。
班長を見ると、撃ってみろと顎で示された。安全装置を外し、深呼吸をして的に向き直った。睨むように見据えて、引き金を引く。さっきのような反動は感じられない。的に描かれた人型の頭、ちょうど額の真ん中辺りに、俺の撃った銃弾が鈍く輝いた。
「……やるじゃないの」
「班長、この銃、めちゃめちゃ持ちやすいです!」
「当たり前よ、私が選んだんだから」
不敵に笑いながら、ノゾミ班長は自信を持って答えた。でも、どこか誇らしげで、嬉しそうだった。
お世辞なんかではなく、本当に持ちやすい。次の弾の装填も驚くほどスムーズだ。さっきの銃で撃つ度に感じていた体の強張りも、一切感じられない。試しに数発撃ち込むが、ほとんどが狙った通りの位置に命中している。純粋に嬉しい。怖さなんてない。これを人に向けたら、当然恐怖心は蘇ってくるだろうが。
そんな時、ノゾミ班長はふと口を開いた。
「この前は、ごめんなさいね」
すぐに分かる。入学式の日のことを言っているのだと。俺は銃に安全装置を掛けたことを確認すると、班長の方を向いた。いつも自身とやる気に満ち溢れた彼女からは見たことのない、どこか迷っているような表情だ。
「……お兄ちゃんが、いたの」
「いた……?」
「そう。伊居太が言ってたハヤテ隊長ってのが、お兄ちゃん」
取り繕う必要がないのか、彼女は国の偉い人を呼び捨てで呼んだ。きっと一悶着あったのだろうことは予測できていたので、その点については何とも思わない。気になったのは、ハヤテ隊長の方だ。
「お兄ちゃんは、ここで武鉄の隊長をしてたの。カムイの前にね。いつも誰のことも受け入れて、誰にだって優しくて、本当に強かった。みんな言ってくれるのよ、お兄ちゃんのこと大好きだって。でもね」
ガチャリと大きな音を立てて扉が開く。入ってきたのは、ハヤテ部長とアサヒ副班長だった。ノゾミ班長はちらりとそちらを見やると、何も気にせずに話を続ける。
「味方に撃たれたのよ。伊居太に」
「そんな……」
「本当だよ。目の前で見たのは、今ここにいるハヤテさ」
な、とアサヒ副班長に促されると、ハヤテ部長は重々しく頷いた。その表情はとても痛々しく、彼は目を閉じた。目の前で憧れの先輩が、味方に撃たれた。そんなシーンを目撃して、平気なわけがない。想像してしまい、心臓がしめつけられたような気分になった。
「私は別に、あいつを殺したいんじゃないわ。罪を認めて、謝ってほしいだけよ。お兄ちゃんは、ずっと、あの人のこと心配してたのに」
彼女自身は気づいていないらしい。彼女の大きな目から、涙が一筋零れ落ちていることに。俺の中で何かが音を立てた。それはいつもの小市民的正義とは違う、何かだ。
「まだ、起きてくれない、5年も寝たまま……、私の頑張りが、足りてないって、分かってるの。でも」
一筋、また一筋と、彼女の頬を伝う涙は増えていく。ようやく気付いたのか、彼女は手で乱暴に涙を拭った。
「……あなたのこと、巻き込みたいわけじゃないの。お願い、誰にも言わないでくれたらそれで」
「俺が」
無理に涙を止めようとしながら、気丈に冷静に振る舞う彼女の言葉を遮ったのは、俺の声だ。体の芯が熱い。高ぶりそうな気持ちを抑えこむように、声を絞り出す。ゆっくりと、正確に。落ち着いて話すよう、自分に言い聞かせた。
「俺が、みんなに期待されてるってのは、どこまで本当ですか?」
面食らったように、班長達は俺を見た。こいつは、何を言っているんだと言わんばかりに。質問の意図を理解されていなかったらどうしようかと、今さらながら少し焦る。やっぱり俺はかっこいいセリフには慣れていない、まだまだ新入隊員のミコトでしかなかった。
この様子を見てかは分からないが、アサヒ副班長が噴き出す。するとノゾミ班長は、優しい穏やかな顔で言った。
「そんなことで嘘つくわけないでしょ」
「カムイをはじめ、部長、班長全員がミコトに期待してるよ。あ、あと駅長さんとかもね」
ハヤテ部長はやはり促され、今度は力強く頷いてくれた。その口元には、いつもなら見られない頬笑みが少しだけ見えた気がする。
迷う理由はどこにもなかった。もう、迷いはなかった。
尊敬する先輩達が、見せたくなんてないはずの弱さを、どこにでもいる新人に見せてくれたのだ。これに応えられないなんて、人間としてどうかしている。少なくとも、俺にそんな選択肢はない。
「協力させてください。……って言いたいところなんですけど、俺は、まだ全然役に立てません」
「まあ、そうよね」
「銃持ったばっかだしな」
ノゾミ班長は、おかしそうに笑った。笑ってくれた。泣きながら笑う、なんてなかなか器用だ。でも、その無邪気な笑顔は、16歳という年齢に相応しいものだった。今日は、初めて目にする表情が多い。
「だから、協力できるように、強くなりたいです」
噛まずに言い切る。言ってしまった後で、とんでもないことを、とか考える普段の思考は存在しなかった。胸の奥が熱い。何が込み上げてきているのだろうか。
「研修、もっと厳しくなるわよ?」
「覚悟してます」
ノゾミ班長は、最後にもう一度だけ涙を拭うと、力強い笑顔を向けてくれた。彼女は自分の頬を両手で2回叩く。気合を入れているようだった。
「分かった。通常の研修はやめるわ。用意しといてね、アサヒ」
「了解ー」
「ハヤテはカムイに伝えておいて」
「ん」
「ミコト」
「はい」
この笑顔を、俺は一生忘れない。この笑顔を、守るために強くなる。俺は心に、そう誓った。
「ありがとう」