#008
「え、準備?」
「何か特別なものがいるのかなって……」
「特にないと思うけどな。ほら、俺らの制服と装備だったら、不足するものってないじゃん?」
「ですよね」
業務終了後の昼。入学式の実施要項を片手に、寮の廊下をうろついていると、勤務明けのアサヒ先輩に出会った。今から寝るつもりだったのだろうか、上下がスポーツブランドのジャージだ。
「ハヤテー、入学式って特別に準備したものあったっけ?」
「……先輩に言われて、スモークグレネードを」
「え」
「ああ、あれは要らなかったな……」
自販機が並ぶ談話室には、ソファーに深く腰掛けてテレビを見ているハヤテ先輩もいる。こちらもくつろぐためなのか、パーカーにトレーニング用の半パンを合わせていた。パーカーの左胸に描かれているのは、アサヒさんのようなスポーツブランドのロゴではなく、クマか何かのキャラクターに見える。何というかやる気のない感じが、ゆるい。一体どこで買ったのだろう。ハヤテ先輩が選んだとは思いにくいが。
そんなクマとは裏腹に、まったくもってゆるくない情報が耳に届いたのは気のせいではなかった。
「時間稼ぎのために持っとけって言われたんだっけ?」
「な、なんの時間稼ぎなんですか……」
「いやー、そういう時代だっただけだよ。気にしないで」
胡散臭そうな顔をして、ハヤテ先輩はテレビに視線を戻した。画面の向こうでは、“TAKARA LINE”の沿線を子犬が散歩をしている映像が流れている。この時間帯の、それも5分番組にしてはなかなかの高視聴率を誇る“マルーンさんぽ”だ。マルーンと名付けられた柴犬は、もう3代目になるらしい。彼(?)は襲名するごとに記念の写真集が本屋やコンビニに並ぶ。国内ではそこそこ売れる程度に人気だ。早い話が、誰もが癒しを求めている。
「まあ、基本は一人にならないことだよ。武鉄は武鉄同士、固まっていれば何も怖くないからね」
「単独行動はするな」
「はい、分かりました。けど、あの」
「ん?」
愛くるしい柴犬のマルーンは液晶の中で楽しそうに散歩を続けている。俺の心は全然楽しくもないし癒されてない。これでは不安を煽るだけ煽られただけで、何の解決にも解消にもなっていない。先輩相手と言えども、一歩踏み込む必要がありそうだ。
「……もう少し、具体的に何がどうなるかが知りたいんですが」
「勉強熱心だなー」
ボトルに入った炭酸水(流行りの無糖タイプだ。なんだか似合いすぎてかっこいい)を美味しそうに飲みながら、アサヒ先輩は座席の隣に俺を呼んだ。厚意に甘えてゆっくり腰掛ける。
「武鉄ってさー、アルバイトじゃん?正直な話、バカでもなれるじゃん?」
「正直すぎだ」
返答に困る。俺の場合は確かに残念偏差値だが、他の隊員がどうなのかはさすがに知らない。学力なんてあってないようなものだとは聞かされているものの、所謂デリケートな問題であるため、進んで聞こうとも思わなかった。学力コンプレックスというやつは、古代から触れてはならない禁忌の箱である。
「士官学校ってエリートの集まりだからさー、地位も学もないくせに目立ってる武鉄は嫌われやすいんだよね」
「……聞いただろ、制服もほとんど武鉄のままだと」
「そういうことですか……」
カムイ隊長やスバル部長の話の本質がようやく分かった。てっきり制服の色が真っ黄色だから目立つのだと思い込んでいたが、実際は、社会的地位がなく本来ならば入学すら叶わない連中が、特権で在籍し、尚且つ毎日のように活躍の機会が与えられていることが気に食わない本来の特権階級者達が武鉄隊を嫌い、妬んでいる、ということらしい。卒業した中学校にエリート出身の同級生がいたが、やたらと権力意識が高かったことを唐突に思いだす。階級がついてまわるのは今に始まったことではないが、少し面倒だとさえ思う。
アサヒ先輩は似合いすぎる炭酸水を一気に飲み干すと、苦笑を浮かべながらこう言った。
「ま、俺らの頃ほど乱暴なことにはならないから、大丈夫だよ」
嫌な予感しかしない。ハヤテ先輩は俺とまったく同じことを考えていたのか、口を真一文字に結び、白けた視線をアサヒ先輩に送っていた。
ああ、入学宣誓式なんて来なければいいのに。
武装鉄道希望隊 #008
『只今より、HKR帝国軍士官大学 “Western River Sta.”管区校、入学宣誓式を、開式致します』
厳粛な空気の中、開式の辞が宣言された。何とも言えない緊張感に包まれる会場とは反対に、ノゾミ班長達は普段通りだ。
「あーあ、退屈だね。舞台袖って埃っぽくてどうもなー」
「うるっさい。マイクに音声拾われて後で恥掻くの私なのよ?」
いつ何が起きてもいいようにとスナイパーライフルを構えている隊員が多いのは、最近少しずつ見慣れつつあるのでもう何とも思わない。いつもと違うのは、自分の周りにいるのが前線班ではないことだろうか。
配置図を確認する限り、今この舞台裏にいるのは、カムイ隊長、スバル部長、ハヤテ部長、前線班広報担当、そして支援部・爆発物処理班のA組となっている。広報担当は架空の名称で、実際は昨日ノゾミ班長が勝手に決めた勧誘係のことだ。メンバーはノゾミ班長、アサヒ副班長、俺、ホタルの4名。
「うわー、来賓席やばい。テレビで見た偉い人ばっか」
「だから毎年、警備に駆り出されるのよ。前線班は駅だけど、支援部はかなりこっちに割かれてるの」
「でもさすがに、皇帝はお見えにならないんですね」
「第一位継承者は、来てる」
ハヤテ部長が示した先では、数え切れない勲章が印象的な帝国軍の礼服を身にまとった、若い男性がちょうど立ち上がっていた。第一位継承者、つまり次の皇帝になることが確定してる人。最近は皇帝よりも彼の方が、情報媒体で目にする機会が増えているような気がする。彼の名は確か、
「イケダ、ルイ」
耳に届いた音は、いつもの凛とした声と全然違っていた。冷やかに、と言うよりは機械的に。ノゾミ班長は大きな瞳を見開いたまま、無表情に彼、“伊居太 琉威”を見つめている。ただならぬ雰囲気に声を掛けることすら躊躇われ、つい周囲を見渡した。誰かこの空気を説明してほしい。おおよそ4月には似つかわしくない、凍てつくようなこの場の空気の理由を。
しかし俺は、この行動を即座に後悔することとなる。いつも熱い志をそのまま体現した温かさが滲み出ている百戦錬磨の将軍様ことカムイ隊長は、視線を合わせるだけで人を殺せるのではないかと思われるくらい、鋭い視線で彼を睨みつけている。普段はおちゃらけていながら誰を差別することなく優しく接してくれる、前線班のムードメーカーであるアサヒ副班長は、口元にだけ笑みを浮かべていた。目は、カムイ隊長と同じかそれ以上に鋭い。管区の王子様であるスバル部長は瞳の奥から光が消え、いつもの柔和な表情は、そのまま一時停止されたように硬直しているようにも見えた。
その時間は一瞬であるはずなのに、とてつもなく長く感じられる。
「せんぱーい!来賓さんが一人帰られるそうでーす!!」
空気を打ち破ったのは、ホタルの明るい声だった。びくっと体が震えたのを、見られていなければいいけれど。
「誰か護衛につかないとね。暇な子行ってきて前線班以外で」
「……、ヒビキ」
「はい!」
前線班以外で、という指示は、つまるところ一緒にいる爆発物処理班に任せるということだ。ハヤテ部長はいつもの表情から唇を少しだけ尖らせて、自らの部下に指示を出し直した。彼の部下はどこまでも優秀で、すでに数人の隊員を待機させていた。ヒビキ副班長は短く敬礼をすると、数人の隊員と共に舞台袖から出ていく。
「ミコト?何ぼーっとしてんの?」
それは間違いなく普段通りの、同じクラスなら確実に恋に落ちている彼女の声だった。いつもと同じ、どこか厳しめの口調でありながら、その気遣いは心優しい。何もかもが普段通りで、一気に疲れが押し寄せる。
俺の目の前に広がっている光景は、いつも通りの、どこか少し乱暴な、心強い日常。先輩達に変わった様子は一切見られない。無線で指示を飛ばしながら呆れた様子のカムイ隊長。隊長の後ろで常ににこやかなスバル部長。可愛い子いないかなー、なんて軽口を叩いているのはアサヒ副班長だ。さっきの一瞬なんて、まるでなかったかのようにも思われる。実際、見間違えただけだろうか。俺は自覚していないだけで、意外と疲れているのではないだろうか。
「……水分補給したら?」
「は、はい、ありがとうございます!」
「ついでに外の空気吸ってきなさい。10分あげるから」
「はい!」
ノゾミ班長の優しさに、素直に甘えることにした。この勝手な動揺を引きずるわけにはいかない。入学式にこんな形で参加している俺は、学生である前に武装鉄道隊だ。この場に集う人々の安全を守る義務がある。まだまだ序盤のうちに変な神経を尖らせて、消耗するわけにはいかない。言われた通り、講堂の外で深呼吸をしてこよう。気持ちを切り替えるには、それが一番手っ取り早い。
埃っぽい舞台袖から裏へ回り、ほの暗い通路を歩くと、すぐに大きな扉がある。警備担当の隊員と軽く挨拶を交わし、重く頑丈な扉を開けた。大きなトラックを横付けすることができる、荷物用の搬入口だ。大がかりなイベントや訓練の際に、楽器や大道具をまとめて搬入できるようになっているらしい。そんな行事に何度参加できるかはわからないが、きっと高校とは規模が桁違いなのだろう。成り行きとは言えすごいところに来てしまったと思う。母校の偏差値では、トップクラスの成績を持っていたとしてもまず入れない、そんな学校だ。正直な気持ち、相手は誰でもいいので自慢したかった。
思いっきり背伸びをする。全身に血の巡る感覚が、少し心地よい。酸素を脳内に取り込むと、ようやく生きた心地を取り戻した。さっきのは、自分の考えすぎだ。犯人に対して向ける眼差しとは真逆の、あんなテロリストのような目つきを、どうして先輩達が特定人物に向ける必要があるのか。まだ入隊して少ししか経っていない。全てを疲れの所為にしたくはないが、今までの生活とは何もかもが違うのだから、疲れているのは当たり前だ。恥ずかしいことはないのだから、自覚をしよう。
「御苦労さま」
突然背後から聞こえた声に、慌てて振り向いた。
一人の青年が、俺を見つめながら立っている。毎朝見ている車両に似た色の上着に、眩しいくらい輝く無数の徽章。同年代と思しき彼からは、ドがつく庶民の自分にはない、気高さというか気品が漂う。伊居太 琉威 第一位継承者だ。彼を認識した瞬間、先ほどの凍りついた空気が思いだされた。あれは、何かの間違いだと気持ちを切り替えたばかりなのに。
「君が今のミコトかな」
「は、はい!」
第一位継承者(なんという敬称をつければいいのか分からない。確かテレビでは殿下と呼ばれていた気がするが、間違えると洒落にならないだろう)は柔和な頬笑みを浮かべながら、こちらに近づいてくる。何度も練習した敬礼を使う場面が初めてきたらしい。綺麗な姿勢を保つために、腕と背筋に力が入る。畏まらなくていいと、彼は軽く手を挙げた。それでも自分の動きは、普段の数倍きびきびとしているようだ。
「いつから?」
「はい、今月の1日に入隊したばかりであります!」
「研修生か。僕にとっては随分と久しい響きだ」
どこかで見たことのあるような柔和な微笑みを見せた後で、彼は何か考えるような顔をした。その表情は憂いを帯び、先ほどまでの朗らかな頬笑みからは随分遠い。何か困ったことでもあるのだろうか。その悩みは果たして、俺のような一市民がお伺いできるような内容だろうか。
思わず見惚れてしまうほど優雅な所作で、彼は再び向き直ってくれた。高貴な彼は、ゆっくりと口を開く。
「君はこの国をどう思う?政治を、武装鉄道隊をどう思う?」
「……え、っと…?」
あまりに高尚な質問で、答えがさっと出せない。こういった頭の良さそうな問題に(ましてや相手は王族だ)答えを出すためには、それ相応の準備というか気持ちが必要だ。ただし残念ながら偏差値46の高卒アルバイトにとって、この質問はあまりに過酷だった。国の、こと政治に関する知識は何一つ準備されてない。あまりに想定外すぎる。
「難しく考えることはない。僕は民衆の声を聞きたいだけだ。あちらの彼らと違い、君の目はまだ濁っていないだろう。その目に何が映るのか聞かせてくれればそれで」
「ミコト!」
何か答えなければと散々悩んでいると、強い力で腕を引かれた。頭一つ分低い位置から、ノゾミ班長がこちらを見上げている。普段通りだった。その手が力を込めすぎて震えている以外は。怒っている、の、だろうか?眉間にしわを寄せている彼女と、俺の視線が合うことはなかった。
「水分補給にいつまでかかってんのよ。仕事は山積みよ」
「ご、ごめんなさいすみません!」
「僕が意見を求めていたのだ。叱らないでやってくれ、ハヤテ隊長の妹君」
不意に違和感を覚えた。それは発せられた言葉によるものだけではないと、漠然と思う。聞きたいことは山ほどあるが、口を挟むべきではないと本能が告げている。
「……、それはそれは、ご無礼をお赦しくださいませ、伊居太殿下」
同じだ。
さっきの、冷ややかな目。言葉こそ丁寧なものの、声のトーンに感情はない。気のせいであってほしかった、あの形容しがたい空気は本物だったのだと、嫌でも実感する。権威ある彼に最大限の敬意を払いながら、彼女の目は一切笑っていない。
気付きたくなかった。見たくなかった。俺の半歩後ろで、ノゾミ班長の右手は、いつでも腰の拳銃を引き抜けるように準備されていたのだ。それが彼女の、いつものブラックジョークではないことくらい、どんな馬鹿でも分かる。
「殿下、彼には誰もが期待していますの。すこしでも貴重な場での経験を積ませたく思いますわ」
「それは無粋なことをした。……研修中から期待される新兵は珍しいと聞く。励みたまえ、ミコト」
「は、はい!」
「……行くわよ」
ついて行くのを躊躇う自分がいる。ノゾミ班長は聡明で容姿端麗で、敵に対しては情け容赦がなく、味方にも自分にもかなりの厳しさを持っている。でも、いつだって班のことをいつでも考えている、すごい人だ。それは俺が数日の間に、勝手に作り上げたイメージではない。はずだった。殿下、つまり、行く行くは国の頂点となるであろう人に、彼女は銃を向けようとしていた。国を守るために組織された武装鉄道隊を、束ねる側の彼女が、だ。これではまるで、と、思考が巡るごとに我ながらなんて恐ろしいことを考えているのだと思う。ひどい妄想だ。何かの間違いであってほしいと、今でも思う。俺の考え過ぎなのだと、誰か言ってほしい。彼女がテロリストと同じ行動を取っているなんて、そんな考えが一瞬でも浮かんだことを、一刻も早く誰かに咎めて欲しい。
俺は慌てて殿下に敬礼をすると、大股で歩き始めた。すたすたと先を行くノゾミ班長に追いつくためだ。このまま殿下の前にいると、俺はますます考え込みすぎてしまうだろう。
ああそうだ、と呟くような声が聞こえた。思わず足を止める。止まった足音は2人分。ノゾミ班長は、彼を睨みつけるかのごとく凝視していた。
「ハヤテ隊長、……お兄様によろしく、呉羽 早苗さん」
***
「ノゾミー、学校設備は破壊しないでね?」
「……銃の精査してくるわ」
「はいはい、先に行ってきなー」
新入生達が退場した講堂は、想像以上に声が響く。大きな音を立てれば、なおのこと。
ノゾミ班長は、壊さない程度に無数のパイプ椅子を蹴り上げ、穴を空けない程度の力で壁を殴りながら講堂を後にした。アサヒ副班長は、苦笑いしながら椅子を元通りに整頓している。
「なんか顔色悪いねー、ミコト」
「そ、うですよね……。俺も、そんな気がします」
「疲れた?」
クレハ サナエ。その言葉が耳に届くか届かないか。道端で殺人鬼と出くわしたかと言わんばかりの、殺気と絶望を感じ取った。瞬間、彼女がホルスターから銃を引き抜いたのが確認できた。どうやったのかは分からない。気づいた時には、俺はその銃口を背中で塞いでいた。彼の目にその銃が見えることはなかっただろう。
何が起きたのか、おそらく誰にも分からなかった。俺が塞いだ銃口を見て、ノゾミ班長自身も硬直していた。動揺を悟られないように取り繕うとはしていたものの、結局は様子を見に来たアサヒ副班長によって救われた。
目の前で楽しげに後片付けを始めた彼は、きっと全ての事情を知っている。
「何があったんですか?ハヤテ隊長って」
誰なんですか、そう言おうとした時、アサヒ先輩の動きが止まった。手を掛けていた椅子に腰を下ろし、そのまま俯いた彼は小さな声で何かを呟いた。聞き取れなかったが、顔を上げた彼は今までに見たことのない、今にも泣き出しそうな笑みを貼りつけている。
「ごめんな。俺、まだミコトに幻滅されたくないやー」
何も言えなかった。こんな苦しそうな表情をしている人に、これ以上何を問い詰められるというのか。それでも幻滅、という言葉が心に引っ掛かる。
「ノゾミを止めてくれて、ありがと。あんなノゾミを見ちゃったミコトに事情の一つも話さないのは、フェアじゃないって分かってるんだ。でもさ、俺もさ、どこからどこまで話していいのか分からない」
「……俺も、分からないです」
「こんなこと言ってもあれだけどさー、……ノゾミは、テロリストじゃないからね」
2人で顔を見合わせ、力なく笑う。冗談を言う気力すら残っていない。普段の明るい彼らは、頼れる彼らは、同じ人間なのだという事実が知れただけで、充分だと思うべきだ。みんなは当然人間で、それぞれに何かを抱えながら日々働き続けている。憧れだけで務まる仕事ではないのだと、改めて感じた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。座り込んだままのアサヒ副班長の下に、担当箇所の片づけを終わらせた前線班のメンバーが集まってくる。アサヒ副班長はいつもの優しい顔で、彼らに新たな指示をテキパキと出していた。俺も切り替えよう。明日から同級生をたくさん勧誘して、一人でも多く仲間を増やすんだ。日々を積み重ねて、そしていつか、何もかも話してもらえるような存在になりたいと、心のどこかで思った。
***
「まったく不愉快だ!」
伊居太 琉威 第一位継承者は大声で叫んだ。不快感を露わにした表情で、横についていた兵士を蹴り飛ばす。八つ当たりを食らった兵士は身悶えしながら床で痛みに耐えている。
「やはり、あの場で始末しておくべきだった……!」
数年前の出来事が鮮明に思いだされ、彼は余計に不愉快な気分になる。ティーカップを壁に叩きつけ、床に転がった兵士の頭を何度も踏みつけた。兵士の額からは血が滲みだすが、それでも彼の気分は一向に晴れそうもない。
あの男の妹が、あろうことかあの男の地位へ近づこうとしている。あの男の妹だと名乗るだけの素質は十二分にある。今日の銃を抜くスピードひとつにしろ、これから先の脅威になることは目に見えていた。称賛にも近い苛立ちを、彼は気の毒な兵士にぶつけ続ける。
「呉羽、奏……!」
お前は一体、どこまで僕に付き纏えば気が済むのか。理想を高く掲げた正義の味方め。彼の存在だけが伊居太 琉威にとって最大の誤算だ。
「……まあいい」
既にピクリとも動かなくなった兵士の頭蓋に、彼は固いブーツのヒール部分を叩きつけた。かわいそうな兵士からは、何の反応もなかった。
「必ず全員捻り潰してやる」
狂気に満ちた彼の笑い声は、列車の音と共に闇へ消えた。夜はまだ、明けない。
***
「なんや、今日は機嫌悪いなー」
「……別に、いつも通りよ」
「いつも通りで灰皿破壊されたらたまらんわ。俺らはどこで煙草吸えばええねん」
ノゾミは彼の言葉を遮るように、盛大な溜息をついた。他の人よりも格段に空気の読めない奴と鉢合わせてしまった。この男といると、何もかも見透かされるような気がする。
「ちょうどいいわ、禁煙しなさい」
「禁煙外来通いましたー」
「あなたが?明日は大雪かしら」
「まさか。2日で挫折したった」
「でしょうね」
それでも、ノゾミは彼を嫌いではなかった。臙脂色のネクタイを緩めると、彼は駅係員の証である制帽を外した。彼は煙草を咥えると、明るすぎる茶髪を掻き上げる。眠そうに目を擦ると、彼はジッポー・ライターの蓋を開ける。それでも火は点けない。
「何があってん」
「……嫌なこと、思いだしただけ」
「さよか」
夕日は、彼の髪をより一層金髪へ近づけた。未成年のノゾミを気遣ってか、彼はいつまでも煙草に火を点けないでいる。ノゾミは、彼にぐったりと寄り掛かった。
「……ねえ、リョウ兄」
「なん?」
「私の殺意は、いつになったら消えてくれるかしら?」
事情が見えた彼、渋谷 梁は、何も言わずにノゾミの頭を乱暴に撫でた。10歳ほど年の離れた妹分が、己の殺意に悩んでいることが彼は悲しかった。一方で、ノゾミは少し乱暴なその手つきが心地よかった。遠慮のいらない兄貴分は、いつだって自分を受け入れてくれる。
最初は傷の舐め合いだったのかもしれない。それでも、お互いにありがたい存在であることは、確かだ。
「……時間経たんと、無理やろ」
「リョウ兄には、まだある?」
駅員・渋谷は制帽をかぶり直す。咥えた煙草は、とうとう火を点けられることがないまま、水の張った灰皿へと投げ捨てられた。夕日は少しずつ落ちていき、窓から少し離れた廊下は闇が広がっているようにも見えた。
「俺がもらっとくわ、お前の殺意」
「……ありがと」
頬笑みを向けたノゾミの表情は、年相応の少女そのものだった。少しずつ夜の闇が訪れようとしている今、彼女の心は穏やかへと戻っていった。