#011
いくつも並んだ黒い袋。置かれている場所だけは、空気が違う。あれは俺達と同じ形をしているのに、明らかに俺達と異なっていた。動かない。呼びかけたって応えない。二度と起き上がることはない。
死んでいるから。
「なんで、何人も死んだのに、何人も、殺したのに、笑えるんですか、死んだのに、殺したのに」
「嬉しいからよ。生きてることが、嬉しいから」
体の震えが止まらない。生きているから。涙が勝手に溢れてくる。生きているから。彼らとは違う。生きていて嬉しくないはずがない。死んだら終わりだ。彼らのように。死んだら、もう何もできなくなるんだ。生きているのは嬉しい。
それでも。
「あんたは違うの?」
武装鉄道希望隊 #011
どれくらい走っただろう。
軌道内を少し進み、待避線に入るとそこには、下へと降りる梯子があった。一人ずつ降りては安全を確認し、また合図を送る。15名程度の小隊が下の階へと完全に辿りつくまで、数分と掛からなかったように思う。
今の俺達は、文字通り線路の真下にいる。銃撃戦は未だ続いているらしく、銃声が響く度に俺は身構えた。先輩達はさほど動じていないようだ。
「……ハヤテやアサヒが、あの人達に勝てないって、言った意味、分かったでしょ」
「ノゾミ班長の、代で、よかったです!」
「お前ら、息切らしてる、場合じゃ、ねーぜ」
「あんたもね、……はー」
ここに敵の気配はない。確認を終えると、先輩隊員達はその場に腰を下ろした。束の間の休息とでも言うべきだろうか。
しばらくの間続いていた銃撃戦はどうやら終息し、電車の通らない線路下は静けさに包まれた。腕時計型の端末に流れる情報では、味方(渋谷さんを筆頭とするOB部隊)が敵を下したようだ。負けるはずがないと確信していたが、それでも安心する。
ノゾミ班長はA5サイズの薄い端末(確か駅パッドとか言った)を取り出し、周辺の地図を確認している。彼女は現在地と思しき箇所を指でなぞり、赤いバツ印をつけた。
「こっちには侵入されてないのね」
「ん?車両基地狙いじゃねーな」
班長や先輩が何を考え、どう動いているのかはまったく分からなかった。俺ができることと言えば、ああ、何もない。今さらになって本当についてきて良かったのかと、いつもの小市民的マイナス感情が湧き始める。ここは先輩達の動向を見て勉強させてもらう機会だと無理やり思い込まなければ、感情に引きずられることになるだろう。
「……こっちはハズレみたいだ。どうする?」
「13 Sta. の応援か、それとも」
「余所の心配してる場合じゃないわ。自管区の片付けから始めなきゃ」
先輩達はインカムでの呼び出しを試みているが、他の部署からの応答がない。ごく稀に人の声らしき音が聞こえるものの、ノイズ音とぶつかり合って全く認識できない。回線が混雑しているようだ。
本部が混乱しているのは無理もない話だ。赤警報は想定しうる危険度が最も高い状態にある時、発令される。これが発令されるのは、ある特定のテロリストグループが侵入したと思われる時だけだ。RED LINER、この国に生まれ育った人間で彼らの名前を知らない者はいない。
武装鉄道隊の歴史は、彼らとの戦いの歴史とも言える。
「ダメね。本部の指示はもらえないわ」
「適当に片付けの手伝い行くか?」
ノゾミ班長が、タブレット端末をベルトに取り付けてあるホルダーへとしまうところまでは見えた。倉庫内の、空気が動いた気がした。漠然としか感じなかったが、確かに埃っぽさが変わった気がしていた。
サーチライトを取ろうとする手は少し強張っている。滑らせないように、確実に握りしめた。気配のした方へ、光源を向けようとした。
「て、敵襲!がっ……」
隣にいた先輩は、ベチャっと嫌な音を立てて倒れ込んだ。その反対側にいたはずの先輩は体だけが立ち上がったまま、首から上が、俺の足元に転がってきた。
「!……何してるの!?全員伏せて!!」
押さえつけられ、ようやく伏せる。地面に広がった液体と頬が触れた。赤く生温かいそれは、ひどく鉄くさい。俺を引っ張り物影へと引き込んでくれた先輩は、既に生きていない。俺を庇ったせいで、彼は死んだのか?
「おい!何人やられた!?」
「やる気失せるくらいだ!畜生!!」
「ノゾミ!」
「まだ生きてるわ!迎撃用意!!」
力の完全に抜けた人間は、装備の重さも合わさって、尋常じゃない圧迫感を与えてきた。足音が近づき、血溜まりは飛び散る。地面を踏みしめて少しだけ赤く染まったブーツは、味方のものだ。縋る気持ちで見上げると、ノゾミ班長がいた。
「やられっぱなしだと思うなよ!!」
遠くで先輩達の声が聞こえる。銃声が次々に響く。
ノゾミ班長は俺の上に折り重なる先輩を、両腕で抱えるようにしてゆっくり転がした。とても慣れているとは思えない、悲痛な面持ちだ。少し泣きそうだった俺は、彼女を見て堪える。こんなところで泣いてちゃいけない。自分より年下の女の子が必死に耐えているんだ。
差し出された手を握り、体を起こした。
「大丈夫?」
「俺は、大丈夫です。でも」
「今はそっちを見ないで。前だけを向くの。死んだチトセのためにもね」
謝りたい気持ちを抑え、顔を逸らした。先輩隊員、チトセさんに対する罪悪感は、俺の自己満足にすぎない。
ノゾミ班長はホルスターから2丁の拳銃を引き抜き、小型な方を差し出してきた。
「持ってて。今日はまだ持たせてなかったでしょ?」
「班長……?」
「連れてきた責任は取るわ。あなたは私が死なせない。お守り代わりに持ってなさい」
不安に押し潰されそうだった心が、ほぐれていくように感じた。強い意志を思わせる焦げ茶色の双眸は、真っ直ぐに敵を見据えている。滲み出ているのは渋谷さんのような殺意でも、ハヤテ部長のような闘志でもない。見たことがあるようで、それでも思いつく限りの感情とは少しずつ違っている。
受け取ると彼女は、朗らかに笑った。
「ま、私は死なないけど」
清々しい笑顔の背景に、殺戮が繰り広げられている。あまりに場違いな、爽やかな春の風が吹いた気がした。
***
「どうだ?」
「逮捕者にも死者にもそれらしい奴がまだ出ない。合わせて50人くらいいるのに、だ」
「バイトでテロやる時代かよ」
「そりゃ闘争隊の頃からずっとだ」
対策本部は困惑していた。赤警報が発令されたにもかかわらず、RED LINERの声明は未だにない。また犯人側に構成員と思しき人物が1人もいなかった。前代未聞だと誰かが呟く。
会議室の扉が開く。入ってきたのは、ハヤテの率いる爆発物処理班だ。
「そっちはどうだった?」
「……何も。爆発物どころか、ダミーも一切ない」
「どうなってんだ……?」
彼らの手口は陽動と爆発物の設置だ。大人数が銃を持ち大挙してやってくる。相手をしている頃に数名で爆発物を設置し、陽動部隊が退却した頃に爆発させる。過去幾度となく繰り返されたこの手口で、帝国鉄道は何度も煮え湯を飲まされてきた。武装鉄道隊が細かく班分けされることになったのも、元を辿れば彼らへの対策のためだ。
ペットボトルに入った水を一気に飲み干すと、ハヤテはパイプ椅子に腰を下ろした。分からない。いつもの手口とは、何もかもが違う。
「どんな撃ち方したらこんなグチャグチャにできるわけ?」
「殺されそうやったんで撃っただけですー怖かったですー」
「お黙りよ」
長机を挟んだ向こう側では、医療班班長のリアスが拳を振り上げているところだった。ハヤテは咄嗟に目を閉じる。ゴツっと鈍い音がした。
「痛っ!何すんねん」
「あらー、つい手が出ちゃったわー。いつまでも悪ガキ気取ってる困ったちゃんの渋谷くん?」
「いつまでもおネェ気取ってるオッサンが何か言ってんで」
「あらやだ、今度はうっかり足が出そう」
どうやらOB部隊が作った死体の山を検証しているようだ。随分と派手に暴れたようで、鎮圧した側である先輩方も相当負傷している。左腕を吊っているOB部隊のリーダーは、いつもより時間を掛けてタバコに火を点けた。
「ハヤトさ、……渋谷さん、どうでした?」
「俺らも赤線や思ってたからなあ……。全然ちゃう。慣れ過ぎや」
「無法者の動きやなかったですね。まるで傭兵やった」
「統率取れた綺麗な動きしとったわ。銃の構え方も、教科書に載っとるのをそのままマネしたみたいな」
死体を覆っているビニールシートをめくりながら、OB部隊は話を続けた。渋谷はタバコの灰を落とさないよう、一歩下がる。
「赤線の陽動は、死んでもいいようにほとんどが末端の下っ端。その大半は低所得層や軽犯罪の常習者です。銃の扱いや集団行動の教育なんてロクに受けてないはず」
「……見てみ、全員よう鍛えられとる。リアスちゃん好みの男ばっかやで」
「生きてる子にしか興味ないわよ」
「誰か専門家の講義でも受けとったんか、RED LINERにそこまでチカラあるとも思えんけど……」
最後に聞こえた余談も含め全員の話から、RED LINERの仕業ではないように感じられた。しかし、RED LINER以外にこの人数を率いる反社会勢力には、誰も心当たりがない。政府や、象徴である鉄道に何か事を起こそうと思うならば、新たに集団を形成するより既存の団体に紛れ込んだ方が早いからだ。実際、RED LINERに所属している者達の思想は様々だ。
「……ノゾミ達は?」
「アルファに連絡ついてねぇ。あいつら作業に夢中になると誰も連絡しねぇからな」
「片付け手伝わされてんだろ、どうせ」
胸騒ぎがしたのは、ハヤテだけではなかった。ハヤテが立ち上がった時には、渋谷が大型無線機の操作を先に始めている。いつだってこの人は先を行く。ノゾミが関わる問題については殊更に。
「チーム・アルファ、こちらはWR管区臨時対策本部。応答してください」
「先輩、何して」
「チーム・アルファ!応答しろ!!」
ただならぬ雰囲気に気圧され、渋谷を止めようとしたカムイも黙った。
応答を意味するランプが点灯し、ノイズ混じりにあちら側の音声が流れ始めた。チャンネルが合っていないのか、途切れ途切れにしか聞こえないそれは、聞き手を青ざめさせるには十分すぎた。
「場所は!?」
「駄目だ、GPSが機能してない!」
「うっさい少し黙れ!」
響く銃声。撃たれたのであろう人の呻き声は、敵か味方かの区別もつかない。移動する足音は、大きく反響しているようだ。しかし、この響き方はトンネルとは違う。広い空間が続いているのではなく、追い詰められるような壁がある?
「……倉庫だ」
呟くと同時に、ハヤテは走り出した。数名が慌ててハヤテを追いかける。
倉庫の場所は、対策本部を設置した会議室の、壁を挟んだ隣だ。こんなに近くで大事になっているのに、気付けなかった。会議室はシェルターとして機能させるために特殊な防弾加工をしているとはいえ、味方の危険を感じ取れないならば意味がない。
「動ける奴は全員行ってくれ。ノゾミちゃん達を死なせるな!」
腕章の違う班員が、役職を超えて隊列を組み走り出した。先ほどの喧騒とは打って変わり、対策本部は静けさに包まれる。留まったのは遺体の検証を続けるリアス、本部を守るカムイと彼の秘書官の役割を担うスバル、そしてOB部隊の数名だけだった。
「早苗のとこにあんたが行かないなんて珍しいじゃない?」
「本当っすよ、先輩。どうしたんですか?」
リアスとカムイは心底意外そうに言った。視線の先では渋谷が、フィルターしか残っていない吸い殻を水の張ったバケツに投げ入れている。彼は新しいタバコを取り出し、火を点けようとした。
「あかん。火点かん。オイル借りに行くわ」
「……、はいはい」
対策本部を後にする彼の右手には、お気に入りのオイルライターではなく、普段使いよりは少々大きめのハンドガンが握られていた。無論、リアスは見逃していない。
リアスにとって同期の渋谷は、ノゾミ、もとい呉羽 早苗にとてもとても甘かった。今では彼女の兄以上に、シスコンっぷりを発揮している。軽度とは言え負傷しているためあまり無理をさせたくはなかったが、左腕を治療と称して封じるくらいではブレーキにもならないらしい。
「いつまでも困ったちゃんね」
***
「怖い」
口をついて出た言葉は、思っていたものとは少し違った。それでも、もう止まらなかった。
「怖いんです。俺が撃ったから、17人死んだ……」
俺が殺した17人。内、味方が1名。チトセさんは俺を庇ったせいで死んだ。あとの16人のテロリストは、俺が確実に撃ち抜いて殺した。
「……這い上がってきなさい。越えてきなさい。そんなところで立ち止まってちゃ、死人と同じよ」
ブーツの足音が遠ざかっていく。置いて行かれる?ついて行くのは怖い。置いて行かれるのだって怖い。生きているのも、死ぬかもしれないのも、全部怖い。
全て夢だったら、どれほど楽だろう。
『それ以上は、だめ……!』
震えながら絞り出された声が、頭の中に蘇る。
何人撃ったのか、何人死なせたのかは覚えているのに、その最中のことは全く記憶にない。気がついた時、銃を持つ手はハヤテ部長に押さえられ、ノゾミ班長に背中から抱き締められていた。
罪悪感も知らないまま何人もの命を奪ったことを、今また思い出す。
「……ごめんなさい」
誰に対しての謝罪なのか、それすらも分からない。
***
「相変わらずきっついなあ」
「……優しい言葉で救われるならそうしてるわ」
左腕を吊った兄貴分が、再びノゾミの前に現れる。何故こうも一人になりたい時に限って、彼はやってくるのだろう。
咥えられたタバコに火は点いていない。ノゾミは、渋谷がまともにタバコを吸っている姿をあまり見たことがなかった。会話が始まるといつまでも火は点けないし、遠くで目が合えば灰皿にタバコを押し付けていた。
「案外救われるで?」
「そう?是非お目にかかりたいものね、後学のために」
言葉は遮られた。傷と絆創膏だらけの右手が、ノゾミの頭を撫でている。優しく、力強く、彼女にとってそれはあまりに残酷で尊い。兄と全く同じ手つきだ。
「よう頑張った。よう帰ってきた」
いつからだろう、この人が兄の真似を始めたのは。いつから自分は、この人に兄の面影を求めてしまったのだろう。おかげでどれだけ背伸びをしても、いつだって子ども扱いだ。
「今日はもう、背負わんでええんや」
決め手の一言を聞くと、ノゾミはそのままゆっくりと体を預けた。それは男女の深い仲と言うよりは、親子もしくは歳の離れた兄妹の姿そのものだ。迷子の少女が、保護者を見つけて安心した時のように。静かに彼女は縋りつく。
「もう、89人も死なせたの。敵味方、合わせて」
彼女の頭を撫で続けていた右手が動きを止める。普通の女の子とはかけ離れた言葉。皮肉なものだ。妹を守りたい一心で走り続けた彼女の兄が、彼女が危険に身を投じるきっかけになってしまったなんて。何もかもが変わってしまったあの日から、5年も過ぎた。
「……昔の人は1000人殺したら英雄やって言われたらしいけど、俺みたいに1376人殺したら、何やろな」
その数字は、明日以降もきっと増え続けるのだろう。OB部隊は渋谷 梁が立ち上げたと言われている。トリガーハッピー集団、キチガイの巣窟、人殺し専門部隊などと揶揄される彼らOB部隊こそが、後輩達の手を汚す回数を減らしてくれている。
「……リョウ兄、守ってくれて、ありがと」
彼らがいなければ、今日だってもっと酷い一日になっていただろう。今ここで彼と会話することすら叶わなかったかもしれない。実際、弾切れを起こしたチーム・アルファは、健闘虚しく8名が犠牲となった。精鋭と呼ばれていた部隊が半分しか生き残れなかったのだ。
「お前死なせたらハヤテに……、奏に顔向けでけん」
夕日が彼の明るすぎる髪を照らす。あまりの眩しさに、ノゾミは目を細めた。
お兄ちゃんじゃなくて私を見てと、ノゾミはまだ言えない。彼の行動が、信念が、全て呉羽 奏のためにあることをノゾミは、早苗は知っている。いつまで経っても彼はハヤトなのだと確信して、少しだけ悔しくなった。
***
「……ミコト」
振り向くと、マグカップを持ったハヤテさんが立っていた。改めて周囲を見渡してみる。窓から光は入ってこない。間接照明が夜の室内を優しく照らしている。寮の休憩室だ。今まで自分がどこにいるのかも意識していなかった。
「飲むか?」
「ありがとう、ございます……」
湯気の立ち上るカップには、寝そべったクマのキャラクターが描かれていた。誰の物だろう。
中身は温めた牛乳だ。わずかに漂う甘い香りは蜂蜜のようだ。そう言えばいつだったか、他の誰かも牛乳に蜂蜜を混ぜていた。口の中に熱が伝わった後で甘みを感じる。香りに対して相当な量が入っているらしい。口全体が甘ったるくなる。
ハヤテさんは、同じクマの絵が描かれているカップをテーブルに置いた。まさか彼の私物では、と雑念が浮かぶ。
「……全員、通る道だ」
彼の方を見ていなければ聞き逃していたかもしれない。いつもより数段小さな声で、彼は呟いた。
「お前が、ノゾミ達を守った。俺は、そう思う。そして、お前に感謝する。だから」
一言ずつ、慎重に選ぶように丁寧に紡ぎだされた言葉は、俺達の他に誰もいない、静かな休憩室の空気に溶けていく。彼なりに気遣ってくれているらしい。しかし、慎重になりすぎて要領を得ていない。
「ハヤテ先輩、もしかして励まそうとしてくれてます……?」
最近分かってきたことがある。ハヤテさんはコミュニケーションに関しては、とてつもなく不器用だ。口下手というレベルを軽く飛び越えている。だからいつもアサヒさんが近くにいるのかと、遅すぎるくらいだがようやく納得した。
彼は苦笑いを浮かべると、視線を下げる。
「……、俺は、ハヤテが一番似合わない」
ハヤテさんはどこか自嘲気味に呟く。その言葉の真意は、おそらくノゾミ班長のお兄さんが関わっている。先代のハヤテ。断片的にしか見えてこない彼の存在は、俺が感じている以上にずっと深く根ざしている。
彼は自分のカップを手に取ると立ち上がる。
「頑張るなら、俺が、お前をハヤテにする。だから、踏ん張れ」
去り際に呟かれた言葉に、返事をすることはできなかった。
半分くらい残っている蜂蜜ミルク(むしろミルク蜂蜜か)を一気に飲み干し、俺も立ち上がる。久しぶりに動いたためか、膝の骨からは軋む音がした。
踏ん張るしかない。俺はまだ何も失っていない。我ながら実に単純な思考回路だと思う。それでも、そうだ、生きていることは嬉しい。まだ自己紹介も会話もしていなかった先輩に守られたお陰で、俺は生き残ることができた。
「頑張るしかない」
手の震えは少しだけ残っている。それでも、できることをしに行こう。カップを洗ったら、一歩踏み出す準備をしよう。
心のどこかで、自分のことを薄情者と叫ぶ声が聞こえた気がした。
***
いつもより少し早く朝礼スペースに出ると、そこには既にノゾミ班長が立っていた。話があるから、と誰もいない休憩室に通される。本来なら狭い場所で美少女と二人きりという、誰に殴られても文句を言えない最強シチュエーションなのだが、今日は違う。俺の心構えが違う。
「班長、あの、俺……」
「はい、これ」
「?」
「つける位置は左胸ポケット、写真付きIDの下よ」
自分の意志を表明する前に、ノゾミ班長は小さなピンズを差し出してきた。意図が理解できず、受け取っていいのかも分からない。なんだろう、この状況は。たっぷり数秒見つめ合うと、彼女は少し怪訝そうに顔をしかめる。
「何よ?続けるんでしょ?これは研修が終わった証、前線班の胸章。必ずつけてなさい」
彼女は俺の右手を取ると、しっかりと俺の掌に小さな証を置いた。金属でできたそれは、彼女の体温が残っているらしくじんわりと温かい。小さく軽いはずの胸章は、ずしりと重みを持っている。
「いつまでボーッとしてるの?研修よりずっとハードになるのよ、気合い入れて」
「俺が辞めるって言ったら、どうするつもりだったんですか?」
「……辞めないって分かってるから渡したんだけど?要らないなら制服ごと駅に」
「わー嘘です冗談です!辞めません!!」
言葉にするべきではなかったと、即座に後悔した。しかめ面は少しずつ不機嫌になっていく。謝罪した時点で、なんとか食い止めることができたようだ。
上着を脱ぎ、前線班の証を慎重につける。たったこれだけの違いが、果てしなく大きいものに感じられた。それでも、まだまだ入口にすぎない。研修の終わりが、ようやく前線班としての始まりになるのだ。
「さ、行きましょう。昼までには運転再開するんだって意気込んでたわ。手伝わなきゃね」
「はい!」
休憩室を出ると、そこには普段より随分多い、同じ胸章の隊員が揃っていた。昨日、行動を共にさせてもらった先輩達もいる。その全員が、俺の右胸ポケットに注目している様子は、なんだか少し滑稽だった。アサヒ副班長は柔和な笑顔をさらに破顔させた。自分のことのように嬉しそうにしてくれている。それでも彼の目元は少し赤い。
ノゾミ班長はアサヒ副班長から分厚いバインダーを受け取ると、定位置につく。
「朝礼を始めましょうか。最初に、昨日はお疲れ様。……前線班は8名犠牲になったわ」
鼻をすする音がいくつか聞こえた。タオルで顔を押さえている人もいる。仲間が死ぬという経験を、ここにいる人達は何回味わってきたのだろう。
「アオバ、イワミ、チトセ、ナガラ、ハツヒ、ヒカリ、ヤシロ、ワカバ……、みんなすごい子だったよな」
「ご家族が迎えに来てくれることになってるのはチトセだけよ。他の隊員は今日中に移動になるわ。お別れをしたい人は、早めに行ってあげてね」
「黒リボン欲しい子は朝礼後に俺のとこに来て」
昨日一緒にいたチーム・アルファの先輩達が泣いている。俺も気を緩めると泣きそうだった。関わったこともなかったのに、俺を助けてくれたチトセさん。そんなことがいつか、できるようになるのだろうか。自分の命を賭けてまで、誰かを守るなんて。
「動ける人は、運転再開のための作業手伝いに行って。以上よ。解散」
数名が駅構内へと出ていく。その中には同期のホタルもいた。少しだけ安心する。最近は自分の研修のことばかりで顔を合わせることもほとんどなかった。研修はどのくらい進んだのか、後で聞いてみよう。もっと、仲間を大切にしたい。
俺はアサヒ副班長から喪章を受け取ると、駅構内へ通じる扉を開けた。




