狩人と獲物-1
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雲一つない夜空なのに、月の影が見当たらない――新月。
地上に降り注ぐのは、何億光年も離れた星々からの儚げな光のみ。しかしそれ等もまた、街を彩る無粋な人工の光によって打ち消されてしまっていた。
そんな光景を暗闇から眺める事が出来る位置に、木造二階建てのアパートがあった。塀で囲まれたそれ程広くない庭は、手入れが行き届いていないのか草が繁殖し放題になっている。幾本か生える木も同じく ほったらかしになっている様で、触れた形跡すらない。人が住んでいるのかどうかさえ怪しい――そんな外観だった。
しかし、よく目を凝らさなければ分からない程だが、微かに草土を踏んだ足跡がある。少なくとも、一人は住人が居る様だが……外出の頻度は酷く少ないのだろう。
――暗闇を保っていたアパートの窓が、不意に明かりを放った。若草色に覆われた庭が照らし出され、紛れていた猫がフシャーッ! と威嚇する。カーテン越しに見える男性のシルエットは、それを無視して窓を開けた。
「クソ暑ぃ……」
汗で額にへばり付く灰髪、若干垂れ気味な目の下に浮かぶ濃い隈。トランクス一枚という涼しげな格好だというに、青年の引き締まった体には玉汗が浮かんでいた。
「……、」
窓を開けても、部屋の中に風が入って来ない。そもそも、風が吹いていないのだ。熱帯夜プラス、無風。これ程までに凶悪な組み合わせが他にあるだろうか? いいや、ありえない。
反語表現で今夜の様を皮肉ってみたのだが、全くスッキリしない。寧ろイライラが募るだけだ。いっその事裸で外を出歩いてみようかと、そんな考えすら頭に浮かんで来る。それ程に暑い。暑過ぎる。
クーラーがあればこんな思いしなくても済むのだが、しかし、既にパソコンと業務用冷蔵庫という文明の利器が鎮座しているこの部屋では、これ以上電力を消費出来ない。パソコンを捨てると生活費が稼げなくなるし、冷蔵庫を捨てると餓死してしまう。もし使おうとすれば、『あちらを立てればこちらが立たず』な非常に両極端な二者択一を迫られてしまうのである。
そんな訳でクーラーを諦めた青年は、八月に入って二日が経過した今夜も、こうして辛く苦しい戦いを繰り広げているのだ。
相手は自然現象、勝ち目は殆どない。だが、男には負けると知っていても戦わねばならない時がある。それが今なのだ。
◆
ピーンポーン、と些か間の抜けた音が狭い店内に響いた。それよりも数秒か早く纏わり付いていた空気は、ひんやりと冷たい。汗をかいている身としては寒い位だ。
(やっぱ、こーゆー日はコンビニだよな)
全国に展開しているお手軽なコンビニ――その名もセブンイレブン。年中無休で二十四時間営業している、とても有り難くそして絶好の涼み場である。因みに、ローソンやサークルKでも可だ。
自然現象を相手に戦うなどあり得ない。勝てる訳がなかろう。素直に負けを認める度量の大きさもまた、男には必要なのだ。
ジャージにサンダルといったラフな格好の青年は店内に入ると、何の躊躇いもなくアダルト雑誌が陳列されているコーナーに立つ。そうして徐に、その中の梱包されていない一冊を手に取った。パラパラ……と適当な速さでページを捲り、読んでいるフリをする。こうしていると、何時間立ち読んでいようと注意されないのだ。店員が女性の場合は特に。
(――ん?)
ふと、視線を感じて雑誌から視線を上げて周りを窺うと、左斜め後ろ、少し離れた位置に一人の少女が居た。肩口まで切り揃えられた若干ウェーブ気味の金髪に、不遜な態度が許されそうな勝気な顔付き。薄手のパーカー越しでも分かる程起伏に富んだ身体。七分丈のパンツから覗く、脹脛から足首にかけてのラインが綺麗だな――と、脳内では称賛の嵐。
と、ここまで観察しても尚、視線が外されない。普通は見ている事に気付かれた時点で、逸らすものではないのだろうか。
そして何よりも、その質が嫌だ。アダルト雑誌を読んでいる事に対する侮蔑や嫌悪ならいいのだが、そんなモノとは全くの別物。獲物を見つけた猛獣を髣髴とさせる目で、頭の先から爪先までを値踏みする様に見詰めて来るのだ。酷く落ち着かなくなる。
「……」
「……」
とりあえず無言で雑誌を元の棚に置くと、ゆっくりと視線を外した。このまま外へ出ると逃げたと取られそうで癪だから、丁度いい事だし夜食を買ってからにしよう。そうと決まれば、後は何にするか選ぶだけだ。
この時間帯は目ぼしいパンや弁当は残っておらず、『お汁粉 in ジャムパン』なる、完全にネタとしか受け取れない訳の分からない様な物しかなかった。飲み物も好物のジュース系統はなく、お茶類のみ。
結局青年は、無難な感じのするツナマヨオカカお握りと、麦茶を購入した。
――その背に突き刺さる、嫌な視線を感じながら。
◆
コンビニからそう離れていない位置にある、遊具もない小さな公園。あるとすれば、周りを囲む様にして生えている木々の多種多様さか。春になれば桜の花びらが舞い、虫には人気だが地味なアオギリの花が夏に咲く。そして秋は紅い絨毯が一面に敷き詰められる事で、この近隣に住む人々には有名だ。
ぷはーっ、と紫煙を吐き出しながら青年は、頭上で花弁もなくひっそりと咲くアオギリの花を何ともなしに眺める。長袖を捲り上げた右手の先で摘まれるタバコが火の勢いを強め、灰色の部分を作った。
「――っとと、」
青年は慌てて空いている左手でポケットから携帯灰皿を取り出し、そこにタバコを傾ける。こちらの袖は捲くられておらず、見える手首から指先までが包帯で巻かれていた。
毎晩の日課を外で済ませた青年は燻るタバコの火を揉み消して、傍らに置いてあるペットボトルの中身を一気に飲み干した。喉を駆け下りる冷たく気持ちのいい感覚と、鼻を抜けて行く香り。案外、麦茶もいい物なのかも知れない。
そうして喉を潤し、夜食であるツナマヨオカカを飲み込んだ処で、
「――あら? 奇遇ね」
驚きのあまり喉を詰まらせ――ない、ギリギリのタイミング。楽しげな色を滲ませる、凜とした声が投げ掛けられた。
咽る事はなかったが、しかし、動きが止まってしまった青年の正面に、コンビニでこちらを見ていた少女が居た。気配を微塵に感じさせず、いつの間にかそこに居たのだ。
「こんな人為的な奇遇があってたまるかよ」
けっ、と顔を背けてベンチに横になる。隣には座らせないぞという、小さな抵抗。
逃げる、等という愚作を犯すつもりは毛頭ない。首尾よくこの公園から脱出する事が出来たとしても、逃げ切ったと気を緩めて振り返ったらそこに居る――そんな恐怖体験をするだけに終るだろうから。
「仕方ないじゃない? 声を掛ける前に出てったんだし。なんで逃げたのよ」
詰問口調の少女に、青年はカッチーンと来た。逃げた? 逃げたと言ったか、この女。
「はぁ? っざけんなよ、誰が何から逃げたって? それに、厄介事から離れようとすんのは当たり前だろーが」
上半身だけ起こし、ベンチの背凭れに手を添える。睨め付けるのは少女の碧眼。
「私が厄介事!? やる前から臆して逃げたクセに何言ってんのよ!」
「だから逃げてねぇよ! メンドーだからさっさと退散しただけだっつの!」
「それが『逃げた』って言うのよ!」
「ンだと!?」
「事実でしょ!?」
取っ組み合い寸前にまで口論がヒートアップ。立ち上がった青年は少女の胸元を掴もうとし、見上げる側は丁度いい高さにあるナニを蹴り上げる準備をし――
「っ、マズい!」
胸元に触れる直前で手を下ろし、青年はベンチの背凭れを支点にするとそのまま飛び越える。そうして広がる薮の中へと走り去り。同時、探す気すら起きない程に気配が感じられなくなった。
足音さえ聞こえないとは、あの青年の能力値を上方修正する必要がある――そんな事を考えつつ、
「……逃げたわね」
少女は呟く。
返事はない。代わりに、空のペットボトルが飛んで来た。