決意と決別-2
◆
何か、おかしい。
始めは小さな違和感だった。しかしそれは、ずらりと並ぶドアを開けて部屋の中を調べている内に段々と大きくなってきた。
そして今。六つ目のドアを開けた処で、違和感の原因に合点がいった。
――死体が、一つもないのだ。勿論、死んでいないという可能性もあるが……ここに来るまでに見た血の量から考えるに、それは殆どないだろう。生きている、等というのは希望的観測に過ぎない。
冷たい夜風が、粉々になったガラスの破片をぶら提げる窓枠から入り込み、思案顔の少女を撫でる。当の本人はそんな事お構いなしに、頭と手を同時に動かして部屋の中を隈なく探し回るが、何の手掛かりも見つからない。中身を吐き出すクローゼットに、内腑を晒す机……荒らされた家具類は何も教えてはくれなかった。
少女は何もないと見切りを付けると、少し離れた位置にある七つ目のドアを開けて、他よりも少しだけ豪華な――母親の部屋に足を踏み入れる。同時、他よりも強い鉄の臭いが彼女の鼻を突いた。中をさっと見ただけでも、飛び散っている血の量は致死量だと分かる。
(私達が何をしたっていうのよ……!)
怒りに体を戦慄かせながら、少女は血が乾いて毛羽立つカーペットを踏み潰し、ベッド脇のナイトテーブルに歩み寄る。彼女の腿の高さにも満たないそれは荒らされた形跡がなく、忘れ去られた様にポツンと佇んでいた。それもその筈。対象を限定した、とても高度な認識阻害の術式が施されているのだ。
しかし、阻害の対象外である少女は強力な術式の気配を、この屋敷に入った時点で感じ取っていた。母親が発動させたものだから、尚更に分かる。
彼女の母は吸血鬼であり、そして同時に高名な魔術師でもあった。どんな小さな依頼でさえ全力で取り組み、自分が手を掛ける『悪』の事情でさえ、知って心を痛める――そんな真っ直ぐで、心優しい女性だった。
(母さん……)
ナイトテーブルの引き出しに唯一入っていた飾り気のないネックレスは、自慢の親だと他人に胸を張って言える母の遺品。金色の鎖からぶら下がるプレートが、微かな月明かりを反射して銀に輝く。
二本の杖が交差する紋章が彫り込まれたそれは、魔術師として最高位である事を示す物であり、同時に、最高の名誉だ。本来ならば、手放すなどありえない。だが、現に今、ネックレスは持ち主を失い、静かに揺れている。
「――そういう事、なの?」
今は亡き母が、プレートを背に語った気がした。
誇りを、名誉を、信念を、全て託そう。一緒に行けない私の代わりに、これを持って行け――と。
◆
頬を撫でる風に、夜の色合いが少ない。夜明けが直ぐそこまで迫っているのだ。
数十分と経たない内に、この体は普通の同年代よりも少しばかり強い程度でしかなくなってしまう。元々が夜を司る種族である吸血鬼は、太陽の下だと本来の半分の力すら出せない。それを補う為に母は魔術師になったと聞かされたが……残念ながら、娘である少女には魔術のセンスが皆無だった。
魔術を発動させるのに必要な術式を構成する事が出来ないのである。それは単純な暗記や公式を当て嵌めるだけなのだが、それら全てがてんで駄目。計算式によく似た文字群の羅列を見ただけで頭痛を誘発する。要するに、本が読めないとか、そんなレベルなのだ。
「……まっ、何とかなるでしょ」
幾分か軽くなった頭を小さく振り、少女は溜め息の代わりに呟きを吐き出す。そして振り返り、決意の証にと肩口まで短くした金髪がその後を追った。
少女は胸元に隠れるプレートを握り締め、肩に担いだ荷物を背負い直す。行き先は、既に決まっている。
日本。
陸続きでなく、文化もまるで違う国。言葉には少し苦労しそうだが、襲撃者一味の一人――父である王の元側近の事を考えると、手が出し難い国に逃げる必要がある。あの男の捨て台詞も気になるし、何よりも、一度手を付けた仕事は最後までやり通すというスタンスが変わっていなければ、その位やらないと駄目だ。中途半端に逃げても直ぐに見つかる。やるなら徹底的に。
「――行ってきます」
泥と血を落とした少女は再びこの場に戻って来る事を胸に刻み、顔を出し始めた太陽に向かって足を踏み出した。