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吸血姫アルヴィナンテ  作者: 執筆野菜ブロッコリン
第0章 永遠の別れと、鈍色をした希望との邂逅
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決意と決別-1

 生暖かい空気が、淡い月明かりに照らされる少女の頬を撫でた。未だに乾かない泥が付着している部分に、ひやりとした嫌な感覚が奔る。それは体全体の至る所で感じられる。足を踏み出す度に半乾きのジーパンが太腿に触れ、泥水で湿ったTシャツは体に張り付いて気持ちが悪い。おまけに気化熱で体温を容赦なく奪い、夏だというのに寒気がして尚の事性質が悪い。

 やがて少女は視界を遮る金色の髪を梳き上げ、歩みを止めた。スニーカーが泥ではなく、水気を帯びた芝生を踏み締める。肺に入り込んで来る空気が微かに鉄臭い。

 見上げ、視界の殆どを埋めるのは大きな屋敷。悠に築百年は過ぎているであろう古めかしい洋館だ。壁には蔦が張り付いているし、レンガ造りの塀は所々崩れ掛けている。

 ……それでも、ここは彼女の生まれ育った場所なのだ。庭の大木ではよく木登りをして遊んだし、足元に広がる芝生で転がったりもした。

 ――だから、足を踏み出すのが怖い。思い出の場所が踏み荒らされた様など見たくない。好きだったあの香りが、鉄によく似た血の臭いに変わっている様など想像したくもない。

 しかし……“生かされた自分には、その光景を目に焼き付け、その臭いを肺腑の奥まで送り込む――事の結末を見届ける義務があるのだ。

  

「――ッ」

 

 意を決し、自分の身長よりも背の高いドアを押し開け、エントランスに足を踏み入れる。途端、外よりも濃くなった血の匂いが鼻を突く。そして、それに顔を顰めるよりも先。視界を覆い尽くしたのは、床に落ちて無惨にもひしゃげたシャンデリアだった。つい数時間前までは、エントランスを明るく照らし出していたそれ。今は地に伏せて役割を全うする事の出来なくなったそれ。

 つん、と鼻の奥が痛くなった。ああこれは泣いてしまうぞ――零れ落ちる寸前、上を向いて表面張力に頼る。が、そんな努力も虚しく大粒の雫が眦から溢れ出、顎先から滴り落ちた。

 

「……っ、…、……っ!」

 

 せめて声は出すまい。それでも、押し殺した慟哭が少女の口から零れ出てしまう。食い縛った歯がギリリと音を鳴らす。拳を握るが、振り下ろす相手が居ない。手を差し伸べる生者も、頼る相手も居ない。吸血鬼である自分ですら、まるで気配が感じ取れないのだ。

 努めて眼を逸らしていた現実が突き付けられる。襲撃者が居る危険性がある屋敷に、こうして足を踏み入れたのも、どこかで今夜の出来事が『嘘』だと思いたかったからなのかも知れない。その確証が欲しくて、血糊を被った使用人達が「ドッキリでしたー!」と言って笑いながら部屋から出て来る事を期待して。

 けれど――『嘘』じゃなかった。頭の中でリフレインしている悪夢は、どうしようもなく現実で。

 孤独なのだと、それを感じた途端、目に見えない重石が体中に巻かれた気がした。肺が圧迫されたかの様に息が出来ない。脳に酸素が行き渡らなくなって眩暈がする。視界の端でチカチカと動き回る何かが鬱陶しい。

 

(――あ、れ?)

 

 かくんっ、と膝から力が抜けた。視線が一気に低くなる。そうして、真紅のカーペットに本来以外の『紅』が混ざっている事に気付いてしまった。時間の経過が原因でそうなったのであろう、乾いたソレは――

 

「……血、」

 

 誰の物とも分からない。分かりたくもない。そしてそれは、一つの固体から流れ出る量などではなかった。ぺたんと尻を付ける部分にも、脹脛に直接触れている部分にも、全て乾いた血が付着している。

 

「ぁ……」 

 

 泥だらけの道を歩いた時とは比べ物にはならない程の悪寒が、少女の背筋を奔り抜けた。突き抜けた悪寒は、辛うじて押さえ込んでいた激情を解き放つのには十分過ぎて。

 

「う、ぁ……あぁああああああぁあっ!!!」

 

 カーペットの長い毛を毟る勢いで握り締める手に、乾き切っていない血が付着する。ヌルっとした感触に思わず手を引きそうになるが、違う! と動きを止めた。違う。違うのだ。ここにある血は全て、見知った者達のソレ。大切な家族のソレ。恐れる対象ではない。断じて、気味悪がる対象などではない。

 歪む世界の中、聞こえるのは自分の泣き声のみ。つい先程の様な押し殺したものではなく、心の底からの慟哭。眼を背けていた現実が一気に流れ込んで来る。

 幾粒も零れ落ちた涙は乾いた血を潤し、この場に充満する臭いをより濃密なものとするが……鼻が嗅ぎ取る血の臭いも、肌が感じる感触も、全てが全て希薄だった。頭の中心が茫と痺れ、それは倦怠感となって体中を包み込む。数時間前に酷使した身体が、今更になって重く感じられる。力が入らない。脳からの信号が途中で遮断されているのか、指先すら微動だにしない。

あの時とは違う原因――そう、心だ。心が萎えた。気力が湧かないのだ。

 もしも今の自分の姿を襲撃者一味が見たのならば、これ程愉快な見世物はないだろう。人間からすれば目の上のたんこぶである吸血鬼の、しかも、王族の血筋の者がこの様な醜態を晒しているのだから。

 

 

  ◆

 

 

 どれ程そうしていたであろうか、すっかり赤くなってしまった眼を擦りながら、少女は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。瞳には強い光が宿る――しかし、その奥に深い悲しみを隠して。

 決意を胸に立ち上がる。自分は今、数多の命を糧にして立っているのだ。それは即ち、その分だけ命の重みが増したという事。たった一人の娘を助ける為に、己の命を差し出した者達の思いを遂げなければならないという事。

 生きる。

 何がどうとか、そんな事はまだ考えられない。ただ、生きる。生き延びる。それが皆の願いだというのなら、全身全霊で生き抜いてやる。死者を偲んで涙を流すのは、今回の件が片付いてからだ。襲撃者共が立ち塞がるというのなら、蹴散らすまで。その時は全力を以って相手をしよう。

 少女は不敵に笑むと、悲壮な色を滲ませる空気を振り払う様に一喝。気合を入れる。

 

「――よっし!」

 

 ついでにパァン! と両頬を叩く。綺麗な紅葉模様が出来上がるが、そんなもの放っておけば勝手に消える。

 乾いた音がエントランス内をエコーしながら段々と小さくなって行くのを聞きながら少女は、さて、と考える。これからどうするにせよ、ここには一段落するまで戻って来る事は叶わないだろう。それが一週間か一月か、はたまた一年か……期間は分からないが、旅支度は必須だ。

 だが、その前にやっておく事がある。

 

「……、」

 

 ひしゃげたシャンデリアを迂回して、少女は正面の階段を上る。手摺に付着した血を見ても、泣いたりはしない。拳を握り締め、前を見据える。後ろは振り返らない。

 そう、決めたから。

 


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