月光下の逃走
月明かりもなく、足場も悪い獣道を少女は一人、走っていた。体の至る所から上がる抗議を無視し、尚も走る。体力の限界は既に迎えているし、一度倒れてしまったらもう二度と立ち上がる事など出来ない。それでも、走らなければならない理由が彼女にはあった。
――命を、狙われているのだ。
別段、何かをした訳でもない。人に恨まれる様な事をした覚えは無いし、それに、誰が好き好んでそんな事をするだろうか。
ならばなぜ? ……何も分からない。部屋で休んでいると、護衛の老騎士に言われるがまま、阿鼻叫喚を背に屋敷から飛び出し、それからずっと走り続けているのだ。
これは走っている最中に考えた事だが、何者かが屋敷に侵入したのではないだろうか。それ以外にあの老騎士が慌てる理由など思い浮かばない。それなら、走り出してから片時も途切れる事無く背中に突き刺さる殺気の説明もつく。
どうしてだか分からないが、命を狙われている。逃げ続けるのに、これ以上の理由は必要ないだろう。
「――っ!」
いくら夜目が利くといえど、体力の限界を超えて尚走り続けている今ではそうも言えない。地面から突き出た、太く逞しい木の根に足を躓かせてしまった。
全運動エネルギーのベクトルが、躓いた足を支点に向きを変える。一瞬だけ宙に浮いた体が無防備に地面へと投げ出され、そして叩き付けられる。休息を訴えていた筋肉はこれ幸いと、状況に関係なく眠りについてしまった。動けと命令しても、四肢の反応は微々たるもので、僅か数センチしか動かない。
前日に降った雨のせいで地面は所々泥濘んでいて、倒れた少女の体を遠慮なく汚す。腰まである金色の髪の毛も今や泥水を被り、ふんっと鼻を鳴らす強気な態度がよく似合いそうな美貌は悔しさに歪んでいた。力なく投げ出された四肢も泥に覆われ、纏うラフな服さえ泥水を吸ってどんどんと重みを増して行く。
「両親は既に他界した。屋敷も落ちた。……最早、逃げる意味もあるまい」
――ざり、と適度に湿った土が踏まれる音を、少女の耳が捉えた。
「バカ言ってんじゃ……、ないわよ……?」
微々たる時間ではあったが、肉体を休ませる事は出来た。少しだけ痺れる四肢に力を込め、躓かされた根の持ち主に背を支えてもらいながら、ようやく立ち上がる。膝は震えるし、喉が酷く渇いて声を出すだけでも辛い。しかし、それでも、膝を屈する事は許されない。
例え妾の娘だろうが、自分は王族の血を引いているのだ……!!
キッ! と、光が灯った目で以って正面を睨み付ける。そこに写るのは、父親――王の側近であった一人の男。オールバックにされた茶色の髪に、感情が読み取れない細い眼。最後に会った時と姿は変わっていないが、しかし、中身はまるで別人となっていた。
ぶっきらぼうな部分もあるが、根は優しい大人の男性。それが少女の、男に対する印象だった。だったのだが、それがどうだ。今目の前に立つのはそんな印象を微塵も感じない――僻地に住んでいた自分の母親、果ては屋敷の全員を血祭りに上げたであろう集団の一味である。
「抵抗をしなければ、楽に両親の後を追わせてやろう。尤も、その前に我々の慰み者になってもらう事になるやもしれないが」
くつくつと笑う男。下卑た印象は受けないものの、代わりに受ける『悍さ』は背筋に冷たい何かを奔らせる。
少女は外部から入って来る情報と一緒に過去の幻影を拭い去り、正面の“敵”を睨め付ける。四肢の痺れはもうない。酷い倦怠感はあるが、全く動けない訳ではない――寧ろ、中距離走を全力で駆け抜けられる。
「……アンタ耳ないの? まあいいわ、もう一度言ってあげる――バカ言ってんじゃないわよ!」
言葉と共に短く息を吐き出し、前方に向けて疾走。踏み出した右足を地面に食い込ませ、2歩目でトップスピードに達する。5メートルはあった距離を一瞬で詰めた少女は右手を一閃、横に薙いだ。
対する男は冷静にそれを見極め、僅かに腰を落として回避する。頭頂部ギリギリを通り抜けた風を目で追う事無く、そのまま横へと飛び込む。直後――、
「チッ!」
少女の舌打ちに被さる様にして、地響きが辺りに木霊した。
「……それが“吸血鬼の力”か」
男の視線の先にあるのは、少女の手に握られた刃渡り1メートル程の西洋剣。切断ではなく刺突に向く、装飾のない実用性一辺倒なレイピア。切っ先を下に構えられたそれは、雲の切れ間から一瞬だけ差し込んだ月光を紅く反射し――牙を剥いた。
横薙ぎから刺突、刺突からそのまま手首のスナップだけで切り上げ、直後の切り下ろし。腰を落としながら一回転して、全身のバネを使った渾身の逆袈裟切り。
紅い軌跡が奔った刹那――ブシュッ! と男の右脇腹から左肩に掛けて、直線を描く様にして血が噴き出した。それは止まる事を知らず、心臓の動きに合わせて勢いが強弱する。あっという間に男の足元には血溜りが出来上がり、その境界線は尚も広がり続ける。
「……動けない程でもないでしょう? 早く消えなさい」
レイピアの切っ先を男に向ける少女の表情は、泥水に汚れても尚輝きを失わない金色の髪の毛で隠れてしまっている。見える口元はきつく真一文字に結ばれ、ギリリと噛んだ唇から一筋の紅が奔った。
「情けのつもりか。いつか必ず、この瞬間を悔やむ時が来るぞ」
「うるさい! 早く消えなさい! ……消えろ!!」
横に薙がれたレイピアは、進路上にある木々をその牙で以って噛み砕く。木霊する地響き。
ビリビリと体を震わせる凶悪的なまでの大音量が為りを顰めた頃になって、ようやく、瀕死の傷を負った男は口を開いた。
「ふん……いいだろう。せいぜい残り少ない余生を楽しむ事だ」
男はよろよろと立ち上がり、覚束ない足取りで闇夜へとその姿を落とした。
「……情けだなんて。私はただ、アンタ達と一緒になりたくなかっただけよ」
吸血鬼が持ち得る血液操作で以って生み出したレイピアを自身の体内へと戻すと、金色の少女は哀しげに呟いた。
見上げた瞳に写るのは、漆黒の中浮かぶ下弦の月。少女には、それが笑う口元の様に見えて嫌だった。