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聖女を追放した王国は滅びましたが、私は勇者に愛されて幸せです

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/24

「お姉様、そんなに悲しそうな顔をしないで? お姉様は昔から『現場向き』なんですもの。王都の清らかな空気よりも、泥にまみれて魔物と戦う最前線がお似合いですわ」


 妹、エリシア・エルフォードは、扇で口元を隠しながら可憐に微笑んだ。

 その背後には、かつて私を「王国の宝」と呼んだ父―アルヴェイン王が、冷徹な眼差しでこちらを見下ろしている。


 私、リリア・エルフォードは、このエルフォード王国の第一王女であり、代々受け継がれてきた「正統聖女」の力を宿している。……はずだった。


「リリア。もはや貴様の鈍い祈りは、この平穏な王都には不要だ」


 父の、氷のように冷たい声が玉座の間に響く。


「前線では魔物の活性化が進んでいる。召喚された勇者と共に赴き、その身を挺して聖女の義務を果たせ。これは王命である」


(……私は、ただの道具なの?)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

 幼い頃から、私は「聖女」としてのみ生きてきた。

 喉が枯れるまで祈り、指先がひび割れるまで浄化の儀式を繰り返した。

 けれど、隣に立つ異母妹のエリシアが、より「見栄えのする」華やかな魔力を開花させた瞬間、私の積み重ねた日々はすべて「古臭く、効率の悪いもの」として切り捨てられたのだ。


「……承知いたしました、陛下」


 私は深く頭を下げた。

 頬を伝いそうになる涙を、必死で堪える。


 顔を上げると、エリシアが勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

 彼女はこれから、安全な王都で「象徴」として称えられ、私は死地へと追いやられる。

 それがこの国の決定。


「では、勇者を紹介しよう。カイル・レイン、前へ」


 重厚な扉が開く。


 そこに現れたのは、この世界の騎士とは明らかに違う、機能美を優先したような奇妙な衣類を纏った青年だった。


 カイル・レイン。

 別の世界から「召喚」されたという勇者。


 彼は王の前だというのに、膝をつくこともなく、ポケットに手を突っ込んだまま気怠げに歩いてきた。

 その瞳はひどく充血しており、どこか焦点が合っていないようにも見える。


「……あー、あんたがパートナーか」


 カイルは私の前に立ち、じろじろと眺めた。


 その呼吸は荒く、彼の体からは嗅いだことのない不思議な――どこか金属質の、それでいて鼻を突くような「熱」を含んだ匂いが漂っている。


「リリア・エルフォードと申します。カイル様、精一杯あなたをサポートいたします」


「……リリア、か」


 彼は私の名前を低く呟いた。

 その瞬間、彼がふらりとよろけ、私の肩に手を置いた。


「っ……!」


 驚いて身を固くする。彼の掌は、信じられないほど熱かった。

 まるで高熱に浮かされている病人のようだ。

 けれど彼は、私の困惑を無視して、耳元で掠れた声を漏らす。


「悪い。……ちょっと、気分が優れないんだ。さっさとここを出て、休ませてくれ」


 私は戸惑いながらも、彼の体を支える形になった。

 王やエリシアは、そんな私たちの様子を見て「無礼な勇者だ」「お似合いの惨めな二人だ」と嘲笑を浮かべている。


「リリア。勇者を連れて速やかに発て。貴様たちの席はもう、この城にはない」


 父の冷酷な言葉に背を押されるように、私はカイルを支えながら歩き出した。


 カイルは時折、ひどく噎せ込み、口元を拭った。

 その手の甲には、赤い斑点のようなものが浮かんでいるのが見えたが、私はそれを「召喚時の負荷」か何かだと思い込み、深く追求しなかった。


 城門を出る直前、振り返ると、王都の美しい街並みが夕日に照らされていた。


 エリシアは高らかに笑いながら、見送りの手を振っている。


「お姉様、死なないように頑張ってね! 後のことは、完璧な『次代の聖女』である私にお任せくださいませ!」


 その声は、広場に集まった民衆の歓声にかき消されていく。


 勇者を送り出し、これで安泰だと信じて疑わない人々の笑顔。


「リリア……行こうぜ。……喉が、渇いて仕方ないんだ」


 カイルはひび割れた声でそう言い、私の肩に重く体重を預けた。


 この時、私の背中に触れていたカイルの指先が、微かに震えていたことに……私はまだ、気づいていなかった。





 王都を発って二週間。


 馬車に揺られる旅路は、想像していた「決死の行軍」とは程遠いものだった。


「リリア。……また魔物だ。下がってろ」


 カイルが低く掠れた声で告げる。


 馬車の前方に現れたのは、本来なら一軍を差し向けねばならないほど巨大な、森の主――大熊の魔物だった。


 だが、カイルが抜いた黒い剣が一度閃くと、魔物はまるで腐り落ちるように崩れ落ちた。

 斬撃そのものより、傷口から広がる「黒い腐食」が魔物の命を吸い取っているように見える。


「……はぁ、はぁ……っ。……終わりだ。次に行こう」


 カイルは剣を鞘に戻すと、膝を突いた。

 その背中が、小刻みに震えている。


「カイル様!」


 私は慌てて駆け寄り、彼の体を支えた。

 掌から伝わる熱は、出立の日よりもさらに増している。

 まるで、彼の内側で何かが激しく燃え滾っているかのようだった。


「……顔色が、すごく悪いです。少し休みましょう? 近くに川がありますから」


「……あぁ、悪い。少し……頭が重いんだ」


 カイルを木陰に座らせ、私は川で冷やした布を彼の額に当てた。

 彼の肌は驚くほど白く、血管が浮き出ている。

 その喉は、水をいくら飲んでも癒えない渇きに喘いでいるようだった。


「……リリア。君は、怖くないのか?」


 カイルが、潤んだ瞳で私を見上げた。


「俺は、化け物かもしれない。魔物を倒すたび、俺の中で……何かが増えていく感覚があるんだ。ドロドロとした、どす黒い何かが」


 私は首を振った。


 彼の震える手を、両手でそっと包み込む。


 王都では、誰かに触れることすら「穢れる」と禁じられていた。

 けれど、今の私には、この熱すぎる彼の手を離すことなんてできなかった。


「怖くありません。カイル様は、私を『リリア』と呼んでくださった。聖女としてではなく、一人の人間として、私を必要としてくれたのは……あなただけです」


「……リリア」


「カイル様が化け物になろうと、病に侵されようと……私はあなたの隣にいます。それだけが、私の望みなのです」


 私の言葉に、カイルの瞳に微かな光が宿った。

 彼は力なく微笑み、重なる私の手に、自分の手を弱々しく重ねた。


「……変な奴だな。俺は一度、死んだようなものなんだ。元の世界で、あんな……地獄みたいな光景を見て。だから、この世界に呼ばれた時も、どうせ使い捨てだと思ってた」


「地獄……?」


「あぁ。人が人を喰い、街が燃える……そんな終わりゆく世界にいた。……だけど、君に出会えてよかった。君がいるなら、この世界を救うのも……悪くないかもしれない」


 カイルはそう呟くと、私の膝に頭を預け、泥のように深い眠りに落ちた。


 私は彼の髪を優しく撫でる。


 カイルが戦う魔物たちは、なぜかみんな「弱って」いた。

 戦う前から黒ずみ、足元をふらつかせ、まるでカイルから溢れ出る「何か」に怯えているかのように。


(聖女の力で、この熱を下げられたらいいのに……)


 私の祈りは、カイルの熱には届かない。


 けれど、この静かな森の中で、誰にも邪魔されずに彼と寄り添える時間が、私には何よりも幸福だった。


 王都では今頃、エリシアが優雅に鐘を鳴らし、人々が平和を謳歌していることだろう。


 その平穏を守るために、カイルは身を削っている。


 私は、カイルの苦しみを分かち合いたいと、心から願っていた。


(カイル様。私を……連れ出してくれてありがとう)


 彼の熱を肌に感じながら、私は初めて、自分の人生を肯定できた気がした。


遠くの空が、赤黒く染まり始めていた。





(王都視点)



 リリアと勇者が去ってから一週間。王都は祝祭の余韻に包まれていた。


 厄介払いを終えたアルヴェイン王は、連日豪勢な晩餐会を開き、新たな「象徴」となったエリシアを愛でている。


「お姉様がいなくなってから、空気まで澄んだようですわ」


 王城のバルコニーで、エリシアは極彩色の果実を口に運びながら笑った。


 彼女の役割は、民の前で優雅に祈りを捧げること。

 ただそれだけで、民衆は「聖女様!」と熱狂する。

 泥にまみれて戦場に向かったリリアのことなど、もう誰も話題にすら出さない。


 だが、その「清らかな空気」に、わずかな異変が混じり始めたのはその日の午後だった。


「報告いたします! 王都郊外、勇者様が最初に魔物を討伐された近辺の村から、負傷した兵士が帰還しました!」


 謁見の間に飛び込んできた騎士の言葉に、王は不機嫌そうに眉を寄せた。


「騒々しい。魔物の残党にでも噛まれたか? 聖女に癒やさせれば済むことだ」


 運ばれてきた兵士は、ひどい状態だった。

 鎧は引きちぎられ、首筋には鋭い歯型のような傷がある。

 だが、それ以上に異常だったのは、その変色だ。

 傷口の周囲の血管が、墨を流したようにどす黒く浮き上がり、肌は土気色に変色している。


「あ、あぁ……あぁあ……っ!」


 兵士は意味をなさない声を漏らし、激しく身悶えしていた。

 その体温を測った医師が、驚愕に目を見開く。


「な、なんという熱だ……! 陛下、これはただの傷ではありません。恐ろしい高熱です、まるでお湯のように体が熱い!」


「エリシア、出番だ。民の不安を払拭するため、慈悲を見せてやれ」


 王に促され、エリシアは嫌そうに顔を歪めながらも、聖具の杖を手にした。


「仕方のない人たち。……『清らかなる光よ、汚れを祓い、平穏を戻したまえ』」


 彼女の得意とする、光り輝く治癒魔法。


 黄金の粒子が兵士を包み込み、周囲からは感嘆の溜息が漏れた。

 見た目には、これ以上ないほど「聖女らしい」完璧な術式。


 だが。


「……ギギ、ッ……」


 兵士の痙攣は止まらなかった。


 それどころか、聖なる光を浴びた兵士の肌が、じりじりと焼けるような音を立て始める。

 黒い血管はさらに太く浮き上がり、その瞳から次第に知性の色が消えていった。

 濁った、黄色い膿のような色が、眼球を覆い尽くしていく。


「え……? 嘘、治らない……?」


 エリシアの顔から余裕が消える。


「もう一度! 『光よ、癒やしたまえ!』……なんで!? 私の祈りが効かないなんて!」


 何度も光を浴びせるが、事態は悪化する一方だった。


 突如、兵士の喉から、人間とは思えない獣じみた咆哮が上がる。


「ガアアアァァァッ!!」


「ひっ……!」


 兵士は拘束を引きちぎり、真っ先に自分を診ていた医師に飛びかかった。

 狂ったような力で医師を床に押し倒すと、迷わずその喉笛に――牙を立てた。

 肉が裂ける、嫌な音が静まり返った広間に響く。


 鮮血がエリシアの純白のドレスに飛び散った。


「いやあああああああ!!」


 エリシアの悲鳴を合図に、阿鼻叫喚が幕を開けた。


 噛みつかれた医師は、数分もしないうちに痙攣を始め、同じように土気色の肌に変色していく。


「殺せ! その兵士を仕留めろ!」


 王の怒号を受け、騎士たちが剣を抜く。

 だが、胸を貫かれても、首を斬られかけても、その「動く死体」は止まらない。


「陛下、下がってください! こいつら、痛覚がありません!」


 騎士たちの必死の抵抗も虚しく、一人、また一人と噛まれていく。


 王城の地下、衛生の行き届いた清潔なはずの空間に、鉄の匂いとは違う、腐敗した甘ったるい死の香りが漂い始めた。





 魔王城を目前に控えた、最後の夜。


 荒野の夜風は冷たく、焚き火の爆ぜる音だけが周囲の静寂を際立たせていた。


 カイル様の容態は、目に見えて悪化していた。

 浮き出た血管が脈打つたびに、彼は苦しげに肩を上下させている。


「……リリア。こっちに来てくれないか」


 毛布にくるまっていた私を、カイル様が呼んだ。

 私は吸い寄せられるように、彼の隣に腰を下ろす。


「カイル様、お体は……」


「あぁ。……不思議と、今は気分がいいんだ。頭の中が、妙に澄み渡っている」


 カイル様はそう言って、私の手を握った。

 

「なぁ、リリア。俺は……ヒーローなんかじゃないんだ。元の世界じゃ、ただの冴えない学生だった。特別な力なんて何もなかった」


 彼は遠い空を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「でも、この世界に来て……君に会った。君が隣にいてくれたから、俺は自分が、まだ人間だってことを忘れずにいられたんだ」


「カイル様……。私の方こそ、あなたに救われたのです」


 私は彼の手を両手で包み込み、胸に抱いた。


「聖女という役割を剥がされ、家族に捨てられた私を、あなたは『リリア』と呼んでくれた。私にとって、この旅は……人生で一番、幸せな時間でした」


 カイル様がゆっくりと私の方を向く。


「リリア。俺は君が好きだ。聖女なんていう肩書きはどうでもいい。不器用で、お人好しで、泣き虫な……リリア。一人の女性として、君を愛してる」


 心臓が、跳ねるように脈打った。

 生まれて初めて、誰かに向けられた、真っ直ぐな「愛」。


 それは、王都で浴びせられたどんな称賛の言葉よりも、エリシアが欲しがっていたどんな宝石よりも、光り輝いて私の心に届いた。


「……私も、お慕いしております。カイル様。……あなたという個人を、心から」


 どちらからともなく、顔が近づく。

 重なり合った唇からは、鉄のような、錆びたような苦い味がした。けれど、今の私にはそれさえも、彼の一部として愛おしく感じられた。


「……もし、明日が終わったら」


 カイル様が、私の額に自分の額を寄せたまま、囁く。


「二人で、どこか遠くへ行こう。誰も俺たちを知らない、静かな場所へ。そこで、やり直すんだ。君を、ただの女の子として幸せにしたい」


「はい……。どこへでも、ついていきます」


 私は彼の胸に顔を埋めた。


 彼の鼓動は驚くほど速く、力強い。

 その鼓動が、すでに人間のものでなくなりつつあることなど、私たちは……いいえ、私だけは、気づかない振りをしていた。





(王都視点)



「あああ、嫌! 来ないで! 来ないでと言っているでしょう!!」


 王城にエリシアの悲鳴が木霊した。


「エリシア……助けてくれ……喉が……渇いて……」


 這いずりながら彼女に手を伸ばすのは、つい昨日まで彼女を「天使」と崇めていた近衛騎士の成れの果てだ。


 その顔半分は、仲間に食いちぎられて欠落している。

 残った片目は濁り、知性は消え失せ、ただ「肉」を求める本能だけが、ガチガチと歯を鳴らさせていた。


「寄るな、この化け物! 『光よ! 浄化せよ!』……っ、なんで!? なんで効かないのよ!」


 エリシアが狂ったように杖を振り回すと、黄金の魔力が弾ける。

 だが、その光は「動く死体」たちにとって、単なる目印でしかない。

 この「病」には、彼女の輝かしい魔法は通用しなかった。


「陛下、お逃げください! 応急処置を……っ!」


「放せ! 余に触れるな! 貴様、噛まれたな!? 」


 玉座の間では、アルヴェイン王が狂乱していた。


 彼を守るべき騎士たちは、互いに疑心暗鬼に陥り、剣を向け合っている。

 一度でも掠り傷を負えば、数時間後には「隣人」を食らう怪物に成り果てる。

 その恐怖が、王国の規律を根底から破壊していた。


「あ……あぁ……」


 王の視線の先で、重厚な扉が内側から突き破られた。


 入ってきたのは、感染し、もはや原型を留めていない文官たちだ。


「ひっ、あああ……リリアだ! リリアを呼べ! あいつなら、あいつの古臭い浄化魔法なら、このドロドロした穢れを祓えるはずだ!」


 王は醜く叫んだ。


 今になって、彼は思い出したのだ。


 エリシアの「輝く光」は表面を飾るだけのもの。

 だが、リリアが何年も地道に続けてきた「浄化」は、怨念や穢れといった、目に見えない「毒」を根こそぎ取り除く泥臭い祈りであったことを。


「リリアはどこだ! 呼び戻せ! 王命だと言え!!」


「無理ですよ、お父様……っ!」


 エリシアが涙と鼻水で顔を汚し、絶叫する。


「お姉様を……死地に送ったのは、お父様じゃない……! 勇者と一緒に、もうとっくに……!」


 その時、王城の鐘が激しく鳴り響いた。


 それは救いでも警告でもない。


 鐘楼に追い詰められた鐘突きが、最期に喉を食い破られ、その体が鐘の綱に絡まって鳴らし続けている「死の音」だ。


「ああ、ああああああ……!!」


 城門が決壊した。


 城の外では、地獄が完成していた。


 逃げ場を失った貴族たちが、汚物に塗れた民衆に押し潰され、共に肉を貪り合っている。


 赤い夕焼けが、王都を血のような色に染め上げた。


「お姉様……お姉様、お姉様っ!!」


 エリシアは最後まで祈った。


 神にではなく、自分たちがゴミのように捨てた、あの地味で無口な姉の名を。


 だが、その願いが届くことはない。


 彼女の視界を、濁った瞳の群衆が埋め尽くしていく。


 

……エルフォード王国を象徴する「太陽の鐘」が鳴り止んで、三日が過ぎた。


 かつては世界で最も美しいと謳われた王都の街並みは、今や見る影もない。


「……あ、あ……リ……リリア……」


 王城の最上階。玉座の間。


 そこには、かつての威厳を失い、ボロ布のようになったアルヴェイン王が転がっていた。


 彼の自慢だった王冠は、床に転がった誰かの頭蓋骨の隣で虚しく光っている。

 王の足元はすでに黒く壊死している。

 彼は、自分が死んだことさえ理解できていない。


 その傍らには、泥と血に塗れたエリシアが横たわっていた。

 彼女の美しい金髪は引きちぎられ、聖女の法衣は無惨に裂けている。

 彼女は、まだ動いていた。

 いや、それは「生きている」とは呼べないものだった。

 濁りきった瞳は、もはや光を捉えていない。

 かつて姉を「現場向き」だと嘲笑ったその口は、今はただ、通りかかった「かつての部下」の肉を求めて、虚空をガチガチと噛んでいる。


「お……ねえ……さま……たす、け……」


 彼女の最後のか細い呟きに、応える者は誰もいない。


 窓の外を見れば、王都を囲む城壁の内側は、動く死体で埋め尽くされている。


 エルフォード王国。


 かつて正統聖女を追放した国は、誰に攻め込まれることもなく、自らが招き入れた「救世主」の手によって、静かに、そして完全に終わった。





 魔王城の最奥、玉座の間。


 そこには、想像していたような禍々しい怪物は存在しなかった。

 いたのは、どこか哀愁を漂わせた、長い銀髪の魔族の男。

 彼はカイルと私が踏み込むと、静かに本を閉じ、その赤い瞳を細めた。


「……ようやく来たか。異界の『災厄』を宿した勇者よ」


 カイルは何も答えず、ただ黒い剣を構えた。


 その体からは、もはや隠しきれないほどの腐敗臭と、甘ったるい熱気が立ち上っている。


「災厄? 何のことだ。俺は、あんたを倒してこの旅を終わらせに来ただけだ」


 カイルの声は、すでに人間のそれとは異なり、複数の声が重なったような不気味な残響を伴っていた。


「終わらせる? 笑わせるな」


 魔王は玉座から立ち上がり、憐れむような視線をカイルに向けた。


「勇者よ。貴様がこの世界に降り立った瞬間、この世界は終わっていたのだ。貴様が持ち込んだのは魔力ではない。あらゆる生命を腐らせ、知性を奪い、肉を貪る『動く死』……貴様の故郷を滅ぼした毒だろう?」


 カイルの肩が、びくりと跳ねた。


「何を……言っている……」


「気づいているはずだ。なぜ、貴様が進む道にある魔物が、戦う前から弱り果てていたのか。なぜ、貴様とすれ違った者たちが、数日後に消えていったのか」


 魔王の言葉が、私の胸に鋭く突き刺さる。


 王都の周辺。私たちが立ち寄った宿場。

 思い返せば、私たちの後ろには、いつも「静寂」が残されていた。


「貴様は救世主ではない。この世界に放たれた、生きた毒そのものだ。王都は今頃、貴様から溢れ出した毒に呑まれ、血の海と化しているだろうよ」


「黙れッ!!」


 カイルが叫ぶ。その咆哮は、空気を震わせる衝撃波となった。

 彼は一歩で間合いを詰めると、その身に宿る「黒い何か」を剣に乗せて振り下ろした。


 魔王は防御の構えすら取らなかった。


 否、取れなかったのだ。


 カイルの剣が触れた瞬間、魔王の強大な魔力障壁が、ガラスのように砕け散った。

 それどころか、魔王の肉体そのものが、触れた場所からドロドロと黒く溶け出していく。


「あ……が、は……っ。……そうか、これが……理の外の……」


 魔王は抵抗することなく、膝を突いた。


 世界最強のはずの存在が、たった一撃で、ただの腐肉へと成り下がっていく。


 魔王は消えゆく意識の中で、私の方を見て、自嘲気味に笑った。


「聖女よ……哀れなものだな。貴様が守ってきたのは、世界を……滅ぼす、種火だ……」


 魔王の体が炭のように崩れ、消滅する。


 あまりにも呆気ない幕切れ。


 静まり返った玉座の間で、カイルは剣を杖代わりに、荒い息を吐いていた。


「……カイル様」


 私は恐る恐る、彼の背中に手を伸ばした。


 彼は振り向かない。

 その手の甲の斑点は、今や幾何学的な模様のように広がり、首筋まで覆い尽くしている。


「……リリア。魔王の言ったこと、信じるか?」


「……はい。ですが、関係ありません。カイル様は、私を救ってくれました。それがすべてです」


 私の愛した人は、確かにこの世界を壊したのかもしれない。

 けれど、その世界は私を捨てた世界だ。


「……そうか。なら、いいんだ」


 カイルはゆっくりと振り返り、私を見て微笑んだ。

 その瞳は完全に白濁し、視力は失われているようだったが、彼は正確に私の頬に触れた。


「終わったんだな。……帰ろう。リリア」


「はい。私たちの、お家に帰りましょう」


 私は彼の腕をとり、支えた。


 彼の指先が、私の首筋に触れる。


 そこには、昨日までなかったはずの、小さな、黒い斑点が芽生えていた。


 けれど私は、それを愛の証であるかのように、愛おしく撫でた。


 例え全てが朽ち果てようとも、あなたの隣こそが救いなのだから。



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