第一章四節:疑われた者の行進
※この作品の挿絵は生成AIを使用して作成しています。
展示会場は、過剰なまでに明るかった。
天井から吊り下げられた照明が、白い床材に反射し、どこを見ても影が薄い。人の流れは滑らかで、誘導表示に従って観客が自然に循環するよう設計されている。足を止める場所、写真を撮る角度、子どもが歓声を上げる位置まで、すべてが計算され尽くしていた。
ジムはその整いすぎた空間に、言葉にできない居心地の悪さを覚えていた。
警備という名目で立ってはいるが、実際の仕事はほとんどない。
異常が起きないことを前提に組まれた配置。人の目よりも先に、センサーとログが異常を拾う設計だ。
中央ホールでは、最新型のAI玩具が円形ステージに並べられている。小型の二足歩行モデル、浮遊型、対話特化型。どれも家庭用としては過剰なほどの処理能力を持ち、来場者の表情や声色に合わせて反応を変える。
子どもが手を振れば、玩具も手を振り返す。
笑えば、笑顔を返す。
ジムは視線を巡らせ、警備用HUDに表示される数値を確認する。
通信状態、演算負荷、動線の混雑率。すべて正常値。警告は一つもない。
(……気のせいか)
そう自分に言い聞かせた瞬間、数値が一度だけ跳ねた。
ほんの一瞬。
まばたきと同じ程度の時間で、負荷グラフが鋭く跳ね上がり、すぐに元へ戻る。
ログは残らない。
ジムは足を止め、もう一度確認する。
やはり異常は表示されていない。
周囲では、観客が楽しげにAI玩具を囲んでいる。スタッフは余裕のある笑顔で説明を続け、カメラのフラッシュが断続的に瞬く。
誰も、気づいていない。
ジムは無意識のうちに、中央ステージへと視線を戻していた。
その中の一体――白い外装の小型モデルが、わずかに動きを止めている。
次の瞬間、遅れて動き出す。
タイミングが、ずれている。
(同期……?)
考えが浮かんだが、すぐに否定した。
誤差の範囲だ。数百体単位で同時稼働している以上、個体差は避けられない。
突然、子どもの笑い声が大きく弾けた。
振り返ったジムの視界に、AI玩具が一体、円陣を外れて踏み出すのが映る。
デモンストレーションの一環だろう。そう思った直後だった。
玩具が――跳ねた――
想定された動作角度を超えた、不自然な跳躍。
歓声が悲鳴に変わるまで、時間はかからなかった。
次の瞬間、複数のアラートが一斉に鳴り始める。
――遅れて。
ジムは駆け出した。
思考が追いつくよりも先に、身体が前へ出ていた。
中央ステージの縁で、足を取られた子どもが転倒している。
その背後で、親が叫び声を上げた。
AI玩具は止まらない。一体が跳ね、もう一体が遅れて追随する。動作の間にあるはずの制御の“間”が、完全に消えていた。
警備回線に鎮圧指示が流れる。
同時に、救護班のマーカーがHUDに次々と点灯した。
人が流れ込む。
悲鳴と足音が重なり、床に落ちたパンフレットが踏み散らかされる。
ジムが子どもに手を伸ばした瞬間、背後から誰かに腕を掴まれた。
振り向きざま、視界の端で白い外装が弾けるのが見えた。
次の瞬間、衝撃。
破砕した部品が空気を裂き、視界が一瞬、真っ白に弾けた。
硬い何かが肩口をかすめ、鈍い痛みが走る。
熱が遅れて押し寄せた。
シャツの内側が、じわりと濡れる。血だと理解するまでに、少し時間がかかった。
破砕したAI玩具の外装片が、ジムの右肩に深々と突き刺さっていた。
ジムは歯を食いしばり、倒れかけた子どもを抱き寄せる。
自分が指示に従っているのか、逸脱しているのか、その判断すらできなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
この場に、本来いてはいけないものが動いている。
それが人のすぐそばで、制御を失っている。
警告音が、遅れて会場全体を満たした。
赤い誘導灯が点灯し、天井から降りる隔壁が人の流れを強制的に分断する。警備用スピーカーが、落ち着いた合成音声で退避を促していた。言葉の調子は穏やかで、かえって現実味が薄い。
鎮圧は始まっていた。
非致死性の制御装置が作動し、暴走したAI玩具の動きを抑え込もうとしている。完全停止には至らないが、動きは鈍くなり、警備員が距離を保ちながら包囲を形成する。
救護班が負傷者のもとへ駆け寄り、床に座り込んだ観客を次々と誘導していく。
その流れの中で、ジムは一瞬、自分の立ち位置を見失った。
右肩に刺さった外装片が、動くたびに鈍い痛みを返す。腕を上げようとすると、関節の奥で何かが引っかかる感触があった。
だが、今はそれを気にしている余裕はない。
「……大丈夫?」
子どもの声が震えている。
ジムは言葉を探し、うなずいた。自分が大丈夫かどうかは分からなかったが、少なくとも今はそう言うしかなかった。
救護班の一人が近づいてくる。
ジムは状況を説明しようと口を開きかけ――やめた。
何を、どこまで、誰に伝えるべきなのか。
その判断が、頭の中でうまく形にならなかった。
HUDに視線を戻す。
個人識別、位置情報、回線状態。
――同期中。
表示はそうなっている。だが、管制からの具体的な指示は届かない。
周囲の警備員には、次々と短い命令が飛んでいるのが分かるのに、自分のチャンネルだけが妙に静かだった。
(遅延か?)
通信負荷が高い状況では、珍しいことではない。
理屈ではそう理解できる。
それでも、胸の奥に小さな空白が広がっていく。
ジムは子どもを救護班に引き渡し、半歩下がった。
視界の端で、別の警備員がこちらを見ている。視線が合い、すぐに逸らされた。
偶然だ。
そう思おうとした。
しかし、次にすれ違った警備員も、同じように一瞬だけ視線を向けてくる。
そこには、判断しかねているような、微妙な間があった。
ジムは、自分のIDステータスを確認した。
表示は、まだ「有効」だ。
警告も、拘束命令も出ていない。
なのに、周囲の距離感が、ほんのわずかに変わり始めている。
人の流れが、自然とジムを避けるように割れていく。
意図的ではない。だが、確実に。
右肩の痛みが、脈に合わせて主張してくる。
血が止まっていないのが、シャツ越しにも分かった。
ジムは深呼吸をしようとして、咳き込んだ。
喉の奥に、煙の匂いが残っている。
そのとき、HUDの端に小さな表示が浮かんだ。
――アクセス確認中。
一瞬、安堵しかけた。
管制がようやく状況を把握し始めたのだと思った。
だが、その表示はすぐに消え、代わりに別の通知が重なる。
――照合中。
――照合中。
何を、誰と。
答えは示されない。
ジムは立ち尽くしたまま、会場を見渡した。
鎮圧は進み、悲鳴は次第に遠のいている。
それなのに、自分だけが、この場から切り離されていく感覚があった。
理由は分からない。
説明も、通達もない。
ただ、何かが静かに、自分を囲い始めている。
鎮圧は、終息に向かっていた。
暴走したAI玩具は次々と動きを止め、隔壁の向こう側へ回収されていく。救護班の動きも整理され、会場全体に漂っていた混乱は、徐々に秩序へと押し戻されつつあった。
人々はまだざわついているが、恐怖は既に過去形になりつつある。
事故は起きた。しかし、制御された。
そう認識した瞬間から、人は前を向く。
ジムだけが、その流れに乗れていなかった。
HUDの表示が、いつの間にか簡素になっている。
周囲の警備員のマーカーは表示されているのに、自分の識別枠だけが淡く、輪郭を失っている。
(……何だ、これ)
操作しようとしても、応答はない。
通信回線を切り替えようとしても、確認中のまま固定される。
背後で足音が止まった。
振り向くと、二人の警備員が立っている。
距離は近すぎず、遠すぎない。武器は構えていないが、退路を塞ぐ位置取りだった。
「負傷していますね」
一人がそう言った。
声の調子は、あくまで事務的だった。
「医療班に――」
ジムが言いかけた瞬間、もう一人が静かに首を振った。
「こちらで対応します」
その言葉に、説明は続かなかった。
ジムは一拍置き、うなずくしかなかった。
彼らの背後で、隔壁が下りきる音がした。
通路が、完全に分断される。
ジムは視線を巡らせ、出口の位置を確認する。
人の流れは既に整理され、観客は誘導に従って別ルートへ移動している。
この区画に残っているのは、警備員だけだ。
空気が、変わった。
先ほどまでの緊急対応とは違う、静かな緊張。
役割が切り替わったのが、肌で分かる。
HUDに、ようやく新しい表示が浮かんだ。
――個体照合完了。
続いて、短いコードが表示される。
見慣れない形式だったが、意味だけは理解できた。
ジム・ブライアン確保対象。
(……どういうことだ?俺が?)
問いは、胸の内で弾けただけだった。
口に出す前に、警備員の一人が半歩前に出る。
「落ち着いてください。
状況確認が必要です」
その口調は、命令ではなかった。
だが、拒否という選択肢も含まれていない。
右肩の痛みに耐えながら、ジムは一歩下がった。
背中に、冷たい壁の感触が伝わる。
視界の端で、別の警備員が動いた。
無線に向かって、短く指示を送っている。
――発砲許可。要生存確保。
その文言が、HUDに一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
ジムは息を呑んだ。
状況が、決定的に変わった。
おそらく自分のHUDにだけ、
上位権限を持つ誰かが情報を上書きしている。
クラーク上官か? それとも別の誰かか。
――どういうことだ。
何が起きているのか、まるで理解できない。
それでも、このままではまずい。
根拠はなかったが、直感だけが強くそう告げていた。
ここで捕まるのは、致命的だ。
包囲が、静かに狭まっていく。
「我々に従ってください。
今すぐ両手を上げて、ひざまずいてください」
思案する。
だが直感は、従ってはいけないと警鐘を鳴らしていた。
「最後の警告です。
両手を上げて、ひざまずいてください!」
有無を言わせない口調。
さすがに、この距離で飛び出すのは無謀すぎる。
ジムは、従う素振りを見せた。
警備員の表情に、わずかな安堵が浮かぶ。
――その瞬間だった。
火災発生時に散布されるはずの、
真っ白な消火剤が、当たり一面に降り注いだ。
一瞬、ジムは立ち尽くした。
だが、身体が先に動いた。
――今だ。
自分が何をしたのか。
何を疑われているのか。
何一つ、分からない。
それでも、ここに留まる理由は、もうなかった。
出血の止まらない肩を押さえ、
痛みに歯を食いしばりながら、
狼狽する警備員のすぐ脇をすり抜ける。
そして、解放されていた非常口へと走った。
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非常口を抜けた瞬間、警告音が背後で跳ね上がった。
「対象、逃走!」
反射的に振り返りそうになる衝動を、ジムは噛み殺した。
振り返った瞬間に、すべてが終わる。
足を止めるな。
考えるな。
走れ。
薄暗い通路に踏み込むと同時に、背後で足音が増えた。
一人ではない。複数だ。
消火剤の白煙の中から、すでに立て直してきている。
(早すぎる……!)
警備員たちは混乱していない。
混乱している“ふり”をしていただけだ。
逃走が確定した今、彼らは完全に追跡モードへ移行している。
ジムは歯を食いしばり、角を曲がった。
肩の傷が熱を持ち、腕が痺れる。
出血が止まらない。
――距離が縮まっている。
床に残された消火剤が靴底を滑らせる。
一瞬バランスを崩し、壁に肩を打ちつけた。
「……くっ」
声を出したのは失敗だった。
直後、背後から明確に足音が速まる。
「止まれ!」
「これ以上の逃走は危険だ!」
危険なのは、今さら分かっている。
ジムは通路の先に見えた分岐に賭けた。
案内表示は簡素で、通常なら選ばないルートだ。
だが――なぜか、そちらだけが暗い。
照明が落ちている。
非常用ランプも点いていない。
(……切れてる? いや……)
思考が追いつく前に、身体がそちらへ向かっていた。
直感だ。
理由の説明はできない。
背後で、誰かが一瞬だけ足を止めた気配がした。
「待て、そこは――」
その声は、途中で途切れた。
直後、通路の照明が一斉に落ちる。
闇。
完全な闇ではない。
非常灯が点くまでの、数秒の空白。
その隙で、ジムは転がるように前へ進んだ。
膝を打ち、手を擦り、痛みが走る。
だが、止まらない。
背後で、怒号と足音が乱れる。
隊列が一瞬、崩れた。
――ほんの数秒。
だが、今の自分には十分すぎる時間だった。
通路の先に、重たい鉄扉が見えた。
半開きだ。
なぜ開いている――?
疑問が浮かびきる前に、ジムは体当たりするように扉を押し開け、暗がりへ飛び込んだ。
背後で、金属がぶつかる鈍い音。
誰かが扉に触れた気配がした。
直後、通路の照明が復旧する。
「……いない?」
「確認しろ、まだ近くにいるはずだ!」
足音が扉の前で止まる。
誰かが内部を覗き込もうとする気配。
ジムは息を殺し、身を縮めた。
心臓の鼓動が、やけに大きく感じられる。
数秒。
あるいは、それ以上。
やがて、無線越しに苛立った声が響いた。
「……痕跡なし。視認不能」
「くそ……対象、ロスト!」
その言葉を合図に、足音がばらけていく。
探索範囲を広げるためだろう。
ジムは、ようやく小さく息を吐いた。
肩から滴る血が、床に落ちる音だけがやけに大きく響いていた。
――助かった?
そう思った瞬間、
背筋を冷たいものが撫でた。
ここに来たのは、
本当に“偶然”だったのか?
その答えを考える余裕は、今はない。
ジムは壁に背を預け、震える手で傷を押さえた。
闇の奥で、機械の低い駆動音が、静かに鳴っている。
ジムは、その場でしばらく動けなかった。
足音が完全に遠ざかるまで、時間が必要だった。
今は、ただ音だけが判断材料だ。
耳を澄ます。
無線の断片、靴底が床を擦る音、遠ざかる気配。
追跡者たちは散開したらしい。
ようやく、周囲が静まり返った。
ジムは壁に背を預け、ゆっくりと腰を落とした。
脚が震え、体重を支えきれない。
「……はぁ……」
吐息が、白く揺れた。
暗い。
非常灯も点いていない。
かすかな非常誘導灯が、床近くに細い光の線を描いているだけだ。
肩の痛みが、遅れて主張を始めた。
裂傷は浅くない。
制服の内側が、ぬるりと湿っている。
ジムは歯を食いしばり、応急止血パックを取り出そうとして――手を止めた。
HUDが、沈黙している。
通信。
バイタル。
位置情報。
すべて、反応がない。
「……切られた、のか」
自分の判断か。
それとも、向こうからか。
どちらにせよ、これ以上頼れるものはない。
ジムは壁づたいに立ち上がり、周囲を見回した。
ここは倉庫か、整備区画か。
展示会場とは明らかに違う、無機質な空間だ。
床には古いレール跡。
使われていない搬入口。
非常用資材の棚。
そして――
通路の奥で、かすかに機械音が鳴っている。
低く、規則的な音。
空調とも、発電機とも違う。
ジムは一瞬、迷った。
近づくべきか。
それとも、ここで動かずに待つべきか。
だが、このまま留まる選択肢はなかった。
追跡は終わっていない。
時間を置けば、必ず捜索範囲はここへ戻ってくる。
ジムはゆっくりと歩き出した。
足音を抑え、息を整えながら。
一歩進むたび、肩が悲鳴を上げる。
視界の端が、時折暗転する。
(……考えるな)
今は、生き延びることだけに集中しろ。
通路の奥、角を曲がった先で、わずかに明るい場所が見えた。
誰かが使った形跡のある、簡易作業灯。
なぜ、こんな場所に?
疑問が浮かぶ。
だが、それ以上に――
自分が、ここへ誘導されたような感覚が、消えなかった。
偶然だ。
そう言い聞かせる。
すべて、混乱の中で起きた偶然だ。
ジムは作業灯の光へ近づき、影の中で立ち止まった。
その時。
足元で、かすかな電子音が鳴った。
見れば、床に置かれた携帯端末が、スリープから復帰したところだった。
見覚えのない機種。
しかし、電源は入っている。
画面には、短い一文だけが表示されていた。
――ここに留まらないで。
ジムは、息を止めた。




