第一章一節:影へ踏み出す足音
※この作品の挿絵は生成AIを使用して作成しています。
目覚ましが鳴る五分前に、ジムの眼は自然と開いた。
薄暗いワンルームの天井を眺めながら、喉の奥で呼吸を整える。
心臓の鼓動が、いつもより一拍早い。
士官学校を卒業して半年。
訓練漬けの毎日。規律。命令。規範。
仲間たちは国防軍、政府機関、各国連携部隊へ赴任していった。
――自分も遂に“選ばれた”のだ。
机の端に置かれたスマート端末のディスプレイには
「国家特機局(SIF)第一監視課 任務指令」
の文字。
青年期に抱いた理想。
国を守る盾になりたいという幼い願い。
今日、現実として形になった。
熱い誇りと、こわばる指先。
身体は緊張に反応しているのに、頭は妙に冷静だった。
制服ではなく、黒いスーツを選んだ理由は――
今日の任務が“存在しない”ものだからだ。
シャワーを浴びながら、ジムは己に言い聞かせた。
正式配属前の初任務である以上、失敗は許されない。
いや、失敗するという選択肢がそもそも無い。
特機局の合言葉が脳裏によみがえる。
「影は光より、先に動け」
卒業式の日に上官たちが唱和した謎めいた言葉だ。
意味は理解できない。
しかし、妙に胸を熱くする響きがある。
「父さん……俺も、ここまで来たよ」
両親は数年前、工場爆発事故で亡くなった。
事故原因は特定できず、後に不審な沈黙が国民の間で噂された。
少年だったジムは、国家が真実を隠蔽したのだと信じて疑わなかった。
それでも国家に尽くす道を選んだ。
矛盾の痛みを抱えたまま。
ネクタイを締める手元が、珍しく震えた。
失敗すれば二度と這い上がれない。
それでも前へ進むしかない。
「ジム・ブライアン、任務に向かいます」
独り言は、自らに課した戒めだ。
玄関を出ると、冬の朝の空気が冷たく頬を刺した。
金属の匂いと、遠くで鳴るサイレン。
この世界に生きている証拠のように思える。
タクシーに乗りこみ、目的地の国際空港を告げると
運転手が気の毒そうに呟いた。
「最近は物騒っすね。あのキングコーポの事件もまだ解決してないらしい」
「キングコーポレーション……」
大企業。世界を動かす存在。
新聞で見るだけの遠い存在だと思っていた。
まさか自分の任務と関わるなど、まだ考えていない。
空港ターミナルへの道中、窓の黒い景色を眺めながら
胸の奥に、正体のわからないざわつきが芽生えた。
――何かが始まってしまった。
言葉にできない予感だけが、ジムを締め付けていた。
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出国ゲートを抜けると、無機的な冷気が頬を撫でた。
ターミナルの照明は白く均質で、どこもかしこも同じ重力がかかっているように見える。
ジムは歩幅を一定に保ちながら、手荷物検査へ向かった。
検査員の手つきがやけに慎重で、金属探知ゲートを二度通される。
怪しまれるような物は持っていない。
しかし胸ポケットに忍ばせた端末の重さが、妙に気になっていた。
SIFが独自開発した監視端末。
外見は一般的なスマートグラスだが、軍用暗号回線に接続され、
会場内カメラとセンサー情報をリアルタイムで共有する役割を持つ。
上官クラークから受けた説明が蘇る。
「巡回中、視界に怪しい挙動が入れば表示される。
だが、システム深部は開くな。
君にはまだ権限がない」
まだ、という言葉に引っかかりを感じた。
付与される未来があるという予告か、
最初から剥奪する気でいるのか、判断できなかった。
「質問、よろしいでしょうか」
ブリーフィング室でジムは手を挙げた。
クラークは一拍置いて、眼鏡の奥から冷たい視線を寄越した。
「何だ」
「巡回は単独行動とのことですが、現地の警備とは連携を?」
「不要だ」
即答だった。
「情報の出所が多いほど漏洩の危険が増す。
君はあくまで“監視者”だ。
手を出すな。助けるな。
どれだけ緊急でも、現場判断をするな」
助けるな、という言葉の選択が理解できなかった。
なぜあえて強調したのか。
だが軍隊生活が長い人間ほど、疑問は胸に沈める術を覚える。
「……了解しました」
今はただ、指示に従うのみだ。
ゲートを抜けた先の待合エリアでは、
親子連れが賑やかに土産袋を抱え、旅客機の整備灯が点滅している。
その日常が遠く感じた。
自分の人生はもうこの世界には戻らない場所に踏み込んでしまった、と。
ふと、母の声が脳裏に浮かんだ。
「正しいことをしなさい」
病室で言い残した最期の言葉。
その記憶が、今から向かう仕事の正しさを保証してくれる気がした。
搭乗ゲートが開き、乗客たちが動き始める。
列に並ぶと、スーツケースの転がる音が床に反響した。
ジムは深く息を吸った。
恐れは無い。むしろ静かに燃える希望があった。
「影は光より……先に動け」
無意識に口にしていた。
その信条こそ、彼をこの先の地獄へ導く鎖になるとも知らずに。
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旅客機は静かに滑走路へ降り立った。
窓の外では雪がちらつき、ジュネーヴ空港の誘導灯が薄靄を照らしていた。
ジムは手荷物を受け取り、ターミナルへ向かって歩き出す。
この任務について誰にも語れない。
士官学校の同期に連絡を取ることもできない。
この孤独は訓練で想定されたものだが、実感すると胸に重くのしかかった。
税関を抜けると、SIFの派遣車両が待っていた。
運転席に座る男は無言のまま、背後のドアを開けた。
ジムは乗り込む。皮張りのシートが冷たく、全身から熱を奪う。
「宿泊施設へ?」
問いかけると、運転手は首を横に振った。
「ホテルは無い。会場近くの臨時詰所だ」
その一言に小さな違和感が走った。
本来であれば数日前入りして下準備を整えるはずだ。
初任務にしては準備期間が短い。
ただ、それがどう問題なのかを理解するには経験が足りない。
車はスイスの街路を静かに進む。
ヨーロッパの古い石畳、地下鉄の階段の明かり、クリスマスマーケットの装飾。
ガラス越しの幸福な光景が、どれもジムには別世界に見えた。
ふと、上官クラークの言葉が胸に浮かぶ。
――助けるな。
――手を出すな。
――現場判断はするな。
反復されるたびに、命令は呪術のように精神へ刻まれる。
遵守すれば守られ、破れば死ぬ。
そんな暗黙の圧力が息苦しい。
ジムはこっそり拳を握った。
士官学校の射撃訓練で叩き込まれた、心拍を落として冷静になる方法。
任務成功のための準備は、身体が覚えている。
車内のモニターが不意に点灯した。
キングコーポレーションのPR映像だ。
会場スポンサーであり、世界的AI玩具メーカーのトップだと聞いている。
画面には、金色の髪を後ろへ撫でつけた紳士が映し出されていた。
白いスーツに赤いネクタイ。
笑顔は温かいが、目元は冷たい光を帯びていた。
『人類が進む未来には、勇気と希望が必要です。
私たちはその道標になる』
男はガッツポーズを取った。観客の歓声がスピーカー越しに響く。
「……これがキングコーポの社長か」
ジムは呟き、視線をそらした。
巨大企業のカリスマに対し、特別な感情は無かった。
ただ、そのメッセージがどこか引っかかった。
希望という言葉が、なぜか鉄錆の味を連想させる。
自分の内側で微かに軋む音がした気がした。
車両が停止した。
臨時詰所は、倉庫街の一角に設置されたコンテナハウスだった。
周囲には警備車両が並び、物々しい雰囲気が漂う。
「ここから先は無線で指示する」
運転手はそれ以上説明しなかった。
荷物を降ろして去っていく背中は機械的だった。
ジムは詰所に入る前に冷たい外気を吸った。
雪片が肩に落ち、じわりと溶けていく。
これから始まる任務が、国家の盾となる道に続くと信じている。
疑う理由は無い。
疑う権利も無い。
しかし心の奥では、言葉にならない焦燥が蠢いていた。
視界にはまだ、光しか見えていなかった。
その足元に、影がすでに絡みついていることに気づかないまま。
ジム・ブライアンは扉を開けた。
運命の戦場となる展示会へ向けて、静かに一歩踏み出す。




