第9話 消えないインク
朝陽がスマートフォンに投稿した写真は、予想以上の反響を呼んだ。
最初の数時間は静かだった。いいねが数件つき、フォロワーから「いい写真ですね」というコメントが寄せられる程度。朝陽は満足げにそれを眺めながら、店の手伝いを続けていた。
しかし、夕方になって状況が変わった。
スマートフォンの通知が鳴り止まなくなった。画面を開くと、いいねの数はすでに数百を超えている。投稿は次々と共有され、また誰かが広める。そのたびに数字が、目を疑うほどの速度で増えていく。
朝陽は思わず、画面を凝視した。
「……え?」
コメント欄には、次々と書き込みが並んでいた。
『この写真、すごく良い。どこで撮ったんですか?』
『モデルの人、美しすぎる!この人、誰ですか?モデル?』
『逆光の使い方が完璧。めちゃくちゃエモい……』
『この場所に行ってみたい』
『もっと見たいです!!!』
朝陽の手が、わずかに震えた。
胸の奥が、熱くなっていく。
自分の撮った写真が、こんなにも多くの人に見られている。評価されている。認められている——。
それは、東京でプロジェクトが頓挫して以来、初めて味わう達成感だった。
朝陽は、湊にこのことを伝えたくなった。
見てくれ、お前を撮った写真が、こんなに評価されてるんだ。お前は、こんなに美しいんだ——。
そして店の奥へ足を向けようとして、ふと気づいた。
——待てよ。
湊に、これを投稿することを伝えていなかった。
朝陽の足が、止まった。
喉の奥が、急に乾いた。手のひらに冷たい汗が滲む。
まずい、と思った。でも、もう遅い。写真はすでに拡散され、何千という人々の目に触れている。今さら削除したところで——。
その時、店の奥から湊が現れた。
「朝陽、夕飯——」
言葉が途切れる。湊は、朝陽の手元のスマートフォンに目を留めた。画面には、まだあの写真が表示されている。『さいはての読書家』というキャプション。そして、おびただしい数のいいねとコメント。
湊の表情が、凍りついた。
それは、ゆっくりとした変化だった。まるでスローモーションのように、朝陽の目にはそう映った。最初は戸惑い。それから理解。そして——拒絶。
湊の瞳から、一切の光が消えた。
その瞳は、冬の海のように冷たく、暗く、そして——何も映さなかった。
「……それ、何」
湊の声は、低かった。感情の起伏が全くない、まるで機械のような響きだった。
「あ……これは……」
朝陽は言葉を探した。けれど、喉の奥で全てが絡まって、何も形にならない。
「俺を、撮った写真か」
「ああ……でも、これは……」
「許可、したか?」
その問いに、朝陽は答えられなかった。
沈黙。
それは、永遠のように長く感じられた。店の中の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。チク、タク、チク、タク——。
「……消せ」
湊の声は、静かだった。けれど、その静けさは——嵐の前の静けさのようだった。
「湊、これは……」
「消せって言ってる」
湊の声が、一段低くなった。その響きには、絶対的な拒絶があった。朝陽の心臓が、激しく脈打つ。
「待ってくれ、聞いてくれ。これ、すごく評価されてて……」
「評価?」
湊は、朝陽を見た。その瞳は、氷点下の海の底のように冷たかった。
「お前は、俺の許可なく、俺の顔を世界中に晒したのか」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、何のつもりだ」
朝陽は、言葉に詰まった。
何のつもりだったのか。ただ、この美しい写真を誰かに見てほしかった。自分の感性が正しかったことを、証明したかった。そして——湊という存在を、世界に知ってもらいたかった。
でも、それを口にすることはできなかった。
「みんな、いい写真だって……」
「だから何だ」
湊の声が、わずかに震えた。それは怒りではなかった。もっと深い、もっと痛々しい何かだった。
「お前は、俺を、お前の再起のための道具にするのか」
その言葉が、朝陽の胸に突き刺さった。
心臓が、止まりそうになる。呼吸が、浅くなる。
「違う……そんなんじゃない……」
「じゃあ、何だ」
湊は一歩近づいた。その目には、今まで見たことのない感情が宿っていた。それは、怒りでも、悲しみでもなく——深い、深い失望だった。
「お前は、俺が別に何も言わないと思って、好き勝手やったんだろ」
「そんなこと……」
「お前みたいに、才能があって、光の中にいる人間には分からないだろうが……」
湊の声が、震えた。
「俺みたいな、何者でもない人間が、世界に晒されるのが、どれだけ怖いか」
朝陽は、何も言い返せなかった。
湊の言葉の一つ一つが、胸に突き刺さる。それは正しかった。朝陽は、湊の気持ちを考えていなかった。ただ、自分の満足のために——。
「消せ。今すぐ」
湊の声は、もう聞く耳を持たない響きだった。
朝陽は、震える手でスマートフォンを操作した。投稿を削除する。画面に「削除しました」の文字が表示される。
でも、もう遅い。
何千という人がすでにその写真を見て、保存して、拡散している。完全に消すことなど、不可能だった。
湊は、それを分かっていた。
彼は目を閉じ、深く息を吐いた。その肩が、小さく震えている。
「……もういい」
湊は背を向けた。
「今日は、一人にしてくれ」
「湊……」
「頼む」
その声には、もう何も残っていなかった。
朝陽は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。湊の背中が、店の奥へと消えていく。扉が閉まる音。それは、二人の間に壁が立ったことを告げる、冷たい音だった。
◇ ◇ ◇
朝陽は、二階の自分の部屋に戻った。
ベッドに座り込み、頭を抱える。スマートフォンの画面はもう何も表示していない。投稿は削除された。でも、その痕跡は——消えない。
朝陽の手が、震えていた。
(俺は、何をしてしまったんだ)
(あの時、何を考えていたんだ)
湊の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの、冷たい瞳。失望に満ちた表情。震える声——。
朝陽は、初めて理解した。
自分が、湊を傷つけたのだと。
自分が、彼の信頼を裏切ったのだと。
カメラを撮らせてくれたことの意味。
それは、朝陽に対する湊の、静かな信頼だった。
お前だけには、見せてもいい。お前だけには、撮らせてもいい——。
その信頼を、朝陽は踏みにじった。
朝陽は、顔を上げた。窓の外を見る。
夜の海が、暗く広がっている。波の音だけが、遠くから聞こえてくる。その音は、今夜は——責めるように聞こえた。
どうすればいい。
どうやって、謝ればいい。
言葉で、埋められるのか——この、深く抉った傷を。
朝陽には、分からなかった。
ただ、胸の奥が痛くて、息をするのさえ苦しかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、朝陽が起きた時、店は静まり返っていた。
いつもなら、この時間には珈琲を淹れる音が聞こえてくる。豆を挽く音。お湯を沸かす音。それらが、朝陽の目覚めの合図だった。
でも、今日は何も聞こえない。
世界が、音を失ったように静かだった。
朝陽は階段を降りた。
店のカウンターには、誰もいなかった。湊の姿はどこにもない。部屋のドアは、固く閉ざされている。
朝陽は、そのドアの前に立った。
ノックをすべきか。
声をかけるべきか。
それとも——。
結局、何もできずに、朝陽は店に戻った。自分で珈琲を淹れる。湊のようには丁寧にできない。お湯の温度も、注ぎ方も、何もかもが雑だった。出来上がった珈琲は、苦すぎて、飲むのが辛かった。
それでも、朝陽は飲んだ。罰のように。
昼近くになって、ようやく湊が部屋から出てきた。
彼の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。目の下に隈があり、髪も乱れている。いつものリネンのシャツではなく、よれたTシャツを着ていた。
「……おはよう」
朝陽は、恐る恐る声をかけた。
「ああ」
湊は短く答えただけで、カウンターの奥へと向かった。朝陽を見ようともしない。その背中は、拒絶を物語っていた。
朝陽は、何か言わなければと思った。
謝らなければ。説明しなければ。でも、何を言えばいいのか分からない。言葉が、喉の奥で固まって、出てこない。
「あの、湊……」
「今は、話したくない」
湊の声は、平坦だった。感情が全て削ぎ落とされたような、空っぽの響き。
「でも、俺……」
「頼むから」
湊は振り返らずに言った。
「そっとしておいてくれ」
朝陽は、それ以上何も言えなかった。
ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
その日、二人は一言も会話を交わさなかった。
湊は本の整理をし、朝陽は意味もなく店の掃除をした。同じ空間にいるのに、まるで別の世界にいるようだった。互いの存在を認識しながらも、決して交わることのない——平行線。
夕方になって、客が一人来た。
町の老人で、新聞を片手に世間話をしていく常連だ。湊は、いつものように静かに相手をした。けれど、その声には生気がなかった。老人も何かを感じ取ったのか、早々に帰っていった。
店が再び静まり返る。
朝陽は、もう耐えられなかった。このままでは、何も変わらない。
「湊」
声をかける。湊は、本から顔を上げなかった。
「昨日のこと、本当に……」
「もういい」
「いや、聞いてくれ。俺は……」
「もう、いいって言ってる」
湊の声が、わずかに荒くなった。
朝陽は、一歩近づいた。
「お前の気持ちを考えてなかった。それは、本当に悪かった。でも、俺は……」
「お前は、何も分かってない」
湊は、ようやく顔を上げた。その瞳には、昨日とは違う感情があった。それは——諦めだった。
「お前みたいに、才能があって、認められて、光の中にいる人間には——俺の気持ちなんか、分かるわけがない」
その言葉に、朝陽の胸が痛んだ。
「そんなこと……」
「ある」
湊は立ち上がった。カウンターの向こうから、朝陽を見下ろす。
「お前は、いつもそうだ。自分が正しいと思ったら周りが見えなくなる。相手の気持ちも、立場も、何も考えずに——ただ、突っ走る」
朝陽は、何も言い返せなかった。
それは、正しかった。東京でのプロジェクトも、そうだった。自分の感性を信じすぎて、クライアントの要望を無視した。そして——失敗した。
今回も、同じだ。
湊の気持ちを考えずに、自分の満足のために——。
「俺は……ただ、お前が美しいから……」
「美しい?」
湊は、自嘲するように笑った。その笑顔には、悲しさが含まれていた。
「お前にとって、俺は被写体でしかないんだろ。お前の作品を作るための、素材」
「違う!」
朝陽は声を荒げた。
「お前は、俺にとって……」
「もういい。聞きたくない」
湊が部屋へ向かおうとして——机の角に腕をぶつけた。
積まれていた本が崩れ、その下から何かが滑り落ちる。
紙の束だった。
原稿用紙が、ばらばらと床に散らばる。白い紙に、黒いインクで綴られた文字。万年筆の跡が、生々しく残っている。
朝陽は、その紙を拾い上げた。
そして——息を呑んだ。
それは、小説だった。
湊が書いた、小説の断片。
冒頭には、タイトルが記されていた。
『さいはての灯台』
朝陽の手が震えた。
目を走らせる。文字を追う。
『男は、全てを失って、その町にたどり着いた。
海の匂いと、潮風と、そして——諦めの味がした。
港には、一つの灯台が立っていた。
それは、男に何かを語りかけるようで——』
文章は、そこで途切れていた。
朝陽は、次のページを手に取った。けれど、そこには何も書かれていない。真っ白な原稿用紙が、ただ朝陽を見つめているだけだった。
顔を上げる。
湊が、床に座り込んでいた。散らばった原稿を、呆然と見つめている。その表情には——何もかもを失った者の、絶望があった。
「……見るな」
湊の声は、かすれていた。
「それ、見るな……」
「湊……お前、やっぱりまだ小説、書いてたのか」
「……やめろ」
「でも……」
「やめろって言ってる!」
湊の叫び声が、店内に響き渡った。
その声は、悲痛だった。魂の奥底から絞り出されたような、痛々しい響きがあった。まるで自分自身を守るために、全てを拒絶しようと必死にもがいているかのような——そんな切迫感が、声に滲んでいた。
湊は原稿を朝陽の手から奪い取った。乱暴に、それでいてどこか大切なものを取り戻すかのように。そして、それを胸に抱きしめるようにして、深く俯く。その肩が、小さく震えている。
「……お前には、分からない」
湊の声は、涙を含んでいた。
押し殺した嗚咽が、沈黙の中で微かに漏れ聞こえる。
「才能がある人間には、分からない」
朝陽は、床に膝をついた。湊と同じ高さで、彼を見つめる。
「教えてくれ。何が分からないのか」
「……全部だよ」
湊は顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。
「書きたくても、書けない苦しみ。書いても、誰にも届かない絶望。そして——夢を諦めた、惨めさ」
「俺は、もう書かないって決めたんだ」
湊の声は、震えていた。
「小説家になる夢も、諦めた。才能がないって、認めた。でも——」
彼は原稿を見つめた。
「それでも、書かずにはいられなかった。誰に見せるわけでもない。ただ、自分のために——」
湊は、朝陽を見た。その瞳には、怒りと、悲しみと、そして——羨望が混じっていた。
「お前みたいに、才能があって、光の中にいる人間に、俺の気持ちなんか分かるもんか」
「湊……」
「お前は、いつも輝いてる。いつも、前を向いてる。失敗しても、また立ち上がれる。でも、俺は——」
湊の声が、途切れた。
「俺は、一度倒れたら、もう立ち上がれない。そういう人間なんだ」
朝陽は、何も言えなかった。
ただ、湊の痛みを——その絶望を、全身で受け止めることしかできなかった。
湊は、ゆっくりと立ち上がった。原稿を抱えたまま、部屋へと向かう。
「……しばらく、一人にしてくれ」
その背中は、どこまでも小さく、孤独に見えた。
扉が閉まる。
朝陽は、床に散らばった原稿用紙を見つめた。
そこには、湊の魂が刻まれていた。彼の夢が、彼の痛みが、彼の——諦めきれない想いが散っていた。
朝陽の目から、涙が零れ落ちた。
それは、後悔の涙だった。
自分が、湊の最も繊細な聖域を、踏み荒らしてしまったことへの——取り返しのつかない過ちへの、涙だった。
窓の外では、雲が厚く空を覆い始めていた。
風が強くなっている。
嵐が、近づいていた。




