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アンカー・ライト  作者: 朔月 滉


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第8話 ファインダーの中の「湊」

 

 写真を撮り始めて二週間が経った頃、朝陽と湊の間には、言葉では説明できない独特のリズムが生まれていた。


 朝陽がカメラを構える。湊が、ほんの少しだけ視線を向ける。それだけで、撮っていいという合図になっていた。目と目が合う、わずかな間。その一瞬の交感が、二人だけの約束だった。


 それは、被写体と作家というより——二人だけの、静かな対話のようだった。レンズを通して交わされる、言葉にならない会話。朝陽が湊を見つめ、湊がそれを許す。その繰り返しが、二人の間に新しい繋がりを生み出していた。


 ◇ ◇ ◇


 ある朝、朝陽は店のカウンターで湊を撮っていた。


 彼は古い本を読んでいた。カウンターに肘をつき、顎に手を添えて、ゆっくりとページをめくる。長い前髪が目にかかり、その奥の瞳だけが、静かに活字を追っている。時折、何かを考え込むように動きを止め、それからまたページを繰る。その所作の一つ一つが、まるで丁寧に選ばれた言葉のように美しかった。


 朝の光が窓から差し込んで、湊の横顔を柔らかく照らしていた。白いシャツの襟元。細い首筋。わずかに傾いた頭の角度——その全てが、絵画のように完璧に調和している。


 朝陽はファインダーを覗き、息を止めた。

 完璧だった。

 光と影のバランス。湊の表情の穏やかさ。本に視線を落とす、その所作の美しさ——全てが。この瞬間を逃したら、二度と同じものは撮れない。そんな確信があった。


「……撮るぞ」

 小さく声をかける。湊は視線を本から離さずに、わずかに頷いた。その動きは、ほんの数ミリの変化でしかなかったが、朝陽にははっきりと見えた。


 カシャッ。

 シャッター音が、静寂を切り裂いた。

 朝陽はカメラを下ろし、静かに息を吐いた。胸の奥が、熱くなっている。心臓が、まだ早鐘を打っていた。


 ——今の一枚は、最高の作品になる。

 確信があった。ファインダー越しに見た湊の姿が、網膜に焼き付いて離れない。まるで、心の奥底に刻み込まれたかのように。


「……なんだよ」

 ふと、湊が顔を上げた。朝陽を見つめている。その瞳には、疑問と、微かな照れが混じっていた。

「いや、何でも」

「じっと見てただろ」

「見てねえよ」

「嘘つけ」


 湊は呆れたように溜息をついたが、その口元は——ほんの少しだけ、緩んでいた。朝陽は、それを見逃さなかった。湊も、まんざらでもないのだと思った。


 ◇ ◇ ◇


 午後、朝陽は町の路地で湊を追いかけていた。


 湊は買い物帰りで、エコバッグを手に持っている。その後ろ姿を、朝陽はファインダー越しに眺めていた。追跡者のように、でも——もっと優しい眼差しで。


 古い石畳の道。両側に並ぶ木造家屋。その間を、ゆっくりと歩く湊の姿。彼の歩き方は急がず、かといって漫然としているわけでもなく、ただこの町のリズムに溶け込んでいるようだった。


 彼は時折、立ち止まって空を見上げたり、道端の草花に目をやったりした。その仕草の一つ一つが、朝陽には新鮮だった。知っているはずの湊が、まるで初めて見る人物のように、新しい側面を見せてくれる。


 (——こいつ、こんな風に歩くんだ)

 (こんな風に、世界を見ているのか)


 朝陽は、今まで知らなかった湊の輪郭を一つずつ確かめるようにシャッターを切っていった。フィルムを巻き上げる度に、湊という人間が、少しずつ朝陽の中で立体的になっていく。


 夕方、港の防波堤。

 湊は、いつもの場所に座って海を眺めていた。夕陽が水平線に沈みかけ、空がオレンジから紫へと変わっていく。その光が、海面を金色に染めている。

 朝陽は少し離れた場所から、その後ろ姿を撮った。


 湊の黒い髪が、風に揺れている。白いシャツの背中。細い肩のライン。彼の視線の先には、果てしなく広がる海。その姿は、どこか——世界の果てに立つ人のように、孤独で、美しかった。


 朝陽はファインダーを覗きながら、ふと思った。

 湊は、いつもこうやって海を見ているのだろうか。

 一人で、黙って、何を考えているんだろう。

 何を思いながら、この町で生きているんだろう——。


 カシャッ。

 シャッター音が、夕暮れの空気に溶けていった。波の音に混じって、消えていく。


 ◇ ◇ ◇


 ある日、朝陽は町外れの空き地で、湊が野良猫に餌をやっているのを見つけた。

 彼は地面にしゃがみ込んで、小さな皿に缶詰を開けていた。三匹の猫が、警戒しながらも近づいてくる。茶トラ、三毛、黒猫——それぞれが恐る恐る、湊の周りに集まってくる。


 湊は、そっと手を伸ばした。

 一匹の三毛猫が、恐る恐る彼の指先に鼻を近づける。湊の長い指が、猫の頭を優しく撫でた。その動きは、本を扱う時と同じように丁寧で、愛情に満ちていた。


 その瞬間、朝陽の心臓が大きく跳ねた。

 なんだ、この光景は。

 なんて、柔らかくて、温かくて——切ないんだ。


 湊のこんな表情を、朝陽は初めて見た。店でも、部屋でも、灯台でも——どこでも見せなかった、無防備な優しさ。それが、今ここに、確かに存在している。


 朝陽は、息を殺してカメラを構えた。ファインダーの中で、湊が小さく笑っている。本当に小さく、でも確かに——笑っていた。その笑顔は、まるで子供のように純粋で、朝陽の胸を締め付けた。


 カシャッ。

 その瞬間を、朝陽は永遠のものにした。


 ◇ ◇ ◇


 撮影を続けるうち、朝陽は気づき始めていた。


 ファインダーを通して見る湊は、肉眼で見る湊とは違っていた。

 いや——正確には、肉眼では見えなかったものが、レンズを通すと見えてくるのだ。

 彼の孤独。彼の優しさ。静かな諦念(ていねん)と、それでも消えない希望の光——。

 それらの全てが、ファインダーの中で浮かび上がってくる。まるで、レンズが魔法の道具であるかのように。いや、魔法なのかもしれない。見えないものを見せてくれる、特別な力。


 朝陽は、まるで宝探しをしているような気持ちだった。

 月島湊という人間の、まだ誰も知らない側面を一つずつ掘り起こしていく。それは、ひどく個人的で、独占的で——そして、たまらなく高揚する行為だった。この人の秘密を、自分だけが知っている。その事実が、朝陽を酔わせていた。


 ある夜、二人はキッチンのテーブルで向かい合っていた。

 朝陽は、その日撮った写真について話していた。まだ現像はしていないが、どんな写真が撮れたか、興奮して語っている。言葉が止まらなかった。


「あの、猫撫でてる時の顔、やばかったわ。マジで良い表情してた」

「……そうか」

 湊は短く答えた。顔を背けているが、耳が少しだけ赤い。その反応が、朝陽には愛おしかった。


「お前、猫好きなんだな」

「別に」

「嘘つけ。めっちゃ優しい顔してたぞ」

「……してない」

「してた」


 朝陽の言葉に、湊は黙り込んだ。それから、ぽつりと呟いた。

「お前は、俺の何が見えてるんだ」

「え?」

「ファインダーの向こうに、俺の何が映ってる」


 その問いに、朝陽は少し考えた。どう答えればいいのか、すぐには言葉が見つからなかった。

「……分からない」

 正直に答えた。

「でも、今まで知らなかったお前が、見えてる気がする。お前が普段、人に見せてない部分。もしかしたら、お前自身も気づいてない部分——そういうのが、レンズを通すと見えてくるんだ」


 湊は、じっと朝陽を見つめた。その瞳の奥に、何かが揺れている。不安なのか、期待なのか、それとも——。


「……怖いな」

「何が?」

「そうやって、見透かされるの」

 湊の声は、かすれていた。その響きには、どこか——恐れと、同時に安堵が混じっているように聞こえた。


「でも」

 彼は顔を上げ、朝陽を見た。その瞳が、まっすぐに朝陽を捉える。

「……別に、嫌じゃない」

 その言葉に、朝陽の胸が熱くなった。喉の奥が詰まって、何も言えなくなる。ただ頷くことしかできなかった。


 ◇ ◇ ◇


 それからも、撮影は続いた。


 店番をしている湊。本を読む湊。珈琲を淹れる湊。町を歩く湊。海を見つめる湊——。

 朝陽は、湊の日常の全てを、大切にフィルムに焼き付けていった。一枚一枚が、まるで湊という人間を構成するパズルのピースのように、朝陽の中に積み重なっていく。


 そして、撮影を重ねるごとに朝陽の中で何かが変わっていくのを感じていた。

 それは、ただの創作意欲ではなかった。

 もっと深い、もっと根源的な——何か。


 朝陽は、湊を撮ることで自分自身も生まれ変わっていくような感覚を覚えていた。壊れていた自分が、修復されていく。枯渇していた心が、潤っていく。その源泉が全て——"湊"という存在だった。


 ある午後、朝陽は灯台で湊を撮っていた。

 彼はいつものように、フレネルレンズを磨いていた。その横顔は、光を浴びて神々しいほどに美しかった。虹色の光が部屋中に散らばり、その中で湊は——まるで聖者のように見えた。


 朝陽はファインダーを覗きながら、ふと気づいた。

 湊は、カメラを向けられることに——もう抵抗していない。


 最初は強張っていた彼の表情も、今では自然だ。カメラの存在を意識しすぎず、でも完全に無視するわけでもない。ちょうどいい距離感で、朝陽の視線を受け入れている。

 それは、朝陽の視線を——受け入れている、ということだった。

 朝陽という人間の、湊への関心を。その想いを。


 朝陽の中に、ある思いが湧き上がってきた。

 もしかしたら、湊は——。

 誰かに「見つけて」もらいたかったのかもしれない。


 この町で、一人で、静かに生きてきた彼。誰にも注目されず、誰にも特別視されず——それを自分で選んだはずの彼が、本当は。誰かに、自分の存在を認めてほしかったのではないか。誰かに、自分という人間を、ちゃんと見てほしかったのではないか——?


 カシャッ。

 シャッター音が響いた瞬間、湊がゆっくりと振り返った。

 その瞳と、朝陽の視線が——レンズ越しに交わった。

 湊の表情は、穏やかだった。でも、その瞳の奥には——微かな光が宿っていた。それは、感謝なのか。照れなのか。それとも——。


 朝陽には、まだはっきりと分からなかった。

 でも、一つだけ確かなことがあった。

 (——この瞬間を、俺は一生忘れない)


 ◇ ◇ ◇


 夜、部屋に戻った朝陽は、ベッドに寝転がって天井を見つめていた。


 今日撮った湊の姿が、頭の中で何度も再生される。灯台の窓辺で、レンズを磨く横顔。振り返った時の、あの瞳——。その全てが、朝陽の心に深く刻まれている。消えることなく、むしろ時間が経つほどに鮮明になっていく。


 朝陽の胸が、じんわりと温かくなった。

 ——俺は今、何をしているんだろう。

 ただ写真を撮っているだけなのか。

 それとも——。


 朝陽は、その答えをまだ言葉にできなかった。

 でも、確かに何かが、自分の中で変わり始めている。


 湊を撮ることで、朝陽は——湊という人間に、どんどん惹かれていっているのだ。彼の全てを知りたい。彼の全てを記録したい。彼の全てを——自分のものにしたい。

 それが何を意味するのか、朝陽にはまだ分からなかった。いや、分かりたくないだけなのかもしれない。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、朝陽は町の写真店へ行った。


 最初に預けたフィルムが、現像できたという連絡があったのだ。

 店主は、封筒に入った写真を手渡しながら言った。その顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。


「良い写真だねえ。久しぶりに、こんな真剣な写真を見たよ」

「……そうですか」

「ああ。撮ってる人の気持ちが、写真に出てる」


 老人は、朝陽をじっと見つめた。その目には、何か——全てを見透かすような深さがあった。

「大切な人かい?」

「え?」

「写ってる人。大切な人なんだろう」


 朝陽は、何も答えられなかった。喉の奥で言葉が詰まって、出てこない。

 老人は優しく笑って、「また良い写真が撮れたら、持っておいで」と言った。


 ***


 店に戻った朝陽は、二階の自室で封筒を開けた。

 中には、三十六枚の写真が入っていた。

 一枚ずつ、ゆっくりと眺めていく。写真を持つ手が震えていた。


 古書店のカウンターで本を読む湊。

 港で海を眺める後ろ姿。

 猫を撫でる、優しい横顔。

 灯台でレンズを磨く、神聖な表情——。


 どの写真も、朝陽が見たいと思っていた湊の姿が、そこにあった。いや、それ以上だった。朝陽が想像していた以上に、湊は——美しかった。


 でも、その中で一枚だけ、朝陽の手が止まる写真があった。

 それは、灯台の窓辺で、湊が本のページをめくっている写真だった。


 逆光の中、彼の横顔が浮かび上がっている。長い睫毛が影を作り、その瞳は本に向けられている。でも、その表情には——どこか遠くを見つめるような、憂いが滲んでいた。孤独で、美しくて、そして——切なかった。


 朝陽は、その写真をじっと見つめた。

 胸の奥が、締め付けられるように痛い。


 (——これだ)

 (これが、俺が撮りたかった湊の姿だ)

 孤独で、美しくて、そして——誰かに見つけてもらうのを、静かに待っているような。


 朝陽は写真を手に取り、窓辺に立った。外では、夕陽が海を赤く染めている。その光の中で、写真の中の湊が——まるで生きているかのように見えた。


 ふと、この写真を誰かに見せたいという衝動が湧いてきた。

 この美しさを、この切なさを——世界中の人に知ってもらいたい。

 湊という人間の、この奇跡のような存在を。


 朝陽はスマートフォンを手に取った。

 そして——。

 ほんの少しだけ、ためらった。

 これは、本当にしていいことなのだろうか。湊に許可を得ずに、この写真を世界に晒すことは——。


 でも、結局その衝動に負けて、写真をスマートフォンで撮影し、SNSのアプリを開いた。いつもは使っていなかったアカウント。でも、今——朝陽の中で、何かが囁いていた。"これを、世界に見せろ"と。


 『さいはての読書家』

 そうキャプションをつけて、投稿ボタンを押した。

 画面に「投稿しました」の文字が表示される。

 朝陽は、満足げに息を吐いた。胸の奥が、達成感で満たされていく。


 この時、彼はまだ気づいていなかった。

 この一枚の写真が、全てを変えてしまうことに——。

 二人の間にあった、繊細で美しい関係性を、一瞬で壊してしまうことに——。


 窓の外では、夕陽が水平線に沈みかけていた。

 海が、茜色に染まっている。

 その美しさは、まるで——何かの終わりを告げているようだった。




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